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なぜ『きみの色』を観て“言葉にしたくない”と感じるのか? 山田尚子の演出意図から考える
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なぜ『きみの色』を観て“言葉にしたくない”と感じるのか? 山田尚子の演出意図から考える
物語のための映像か、映像のための物語か 映画を作る際、映像に対するスタンスはざっくりと2つある。物... 物語のための映像か、映像のための物語か 映画を作る際、映像に対するスタンスはざっくりと2つある。物語を語るために映像を「手段」とするか、映像自体を作りたいために物語を「口実」とするか。どんな作家もこの2つの間を揺れ動き、極端にどっちか100%という作家は少ないが、だれでも偏りというものはある。山田監督は、明らかに後者寄りだ(ちなみに近年の新海誠は前者寄りになってきた)。 本作には、言葉に還元可能な物語要素が薄い代わりに、100分の映画を満たすのは「色」と「音」だ。山田監督が描くのは物語ではなく、映像を構成する最小単位である「色」、そして「音」の美しさである。「色」を見てキレイだと感じる、「音」を聞いて心地よい気分になる。それには物語という言葉の固まりに還元可能な意味はない。もっと原初的な感覚だ。 だから、『きみの色』を楽しむためには、意味を解釈する能力はさほど必要ない。「あのショットは~の