エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
栃木の小大名が幕府から厚遇されていた理由…下野・喜連川に受け継がれた「足利の血脈」
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
栃木の小大名が幕府から厚遇されていた理由…下野・喜連川に受け継がれた「足利の血脈」
喜連川にかかわる足利家歴代の墓所がある龍光寺(写真提供:栃木県さくら市) 足利氏といえば、下野国の... 喜連川にかかわる足利家歴代の墓所がある龍光寺(写真提供:栃木県さくら市) 足利氏といえば、下野国の発祥であるが、江戸時代、同じ下野国に小藩として、その血脈が残っていたのをご存じだろうか。 喜連川藩──。鎌倉公方家の流れを汲むこの家は、いかに生まれたのか、そして、その後どうなったのかを紹介する。 ※本稿は、『歴史街道』2021年2月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。 老中就任・十万石への加増を断った名門の裔 栃木県さくら市は県下中東部に位置し、平成17年(2005)、塩谷郡氏家町、喜連川町が合併して誕生した。二つの町の内、喜連川町は江戸時代、喜連川家という特異な大名家が治めていた。 喜連川藩は石高5千石の小藩だった。三代将軍徳川家光の世、大名の基準は1万石以上とされた。従って石高からすれば、大名とは呼べない高級旗本並である。 ところが、家格は十万石の国持格、累代の当主は四品格の待遇を