エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
数奇な運命をたどった島津忠清、その墓標が興国寺跡に埋もれている - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
数奇な運命をたどった島津忠清、その墓標が興国寺跡に埋もれている - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
鹿児島市冷水町に鹿児島市営の「興国寺墓地」がある。ここにはかつて太平山興国寺があった。興国寺は明... 鹿児島市冷水町に鹿児島市営の「興国寺墓地」がある。ここにはかつて太平山興国寺があった。興国寺は明治の初めに廃寺となった。その境内はかなりの広さがあり、現在も古い墓石や石造物が残っている。 興国寺墓地(興国寺跡) この興国寺跡に、薩州家(さっしゅうけ)の島津忠清(しまづただきよ)の墓標だと思われるものが埋もれている。 埋もれた石柱に「島津備前忠清」 島津忠清は元和5年(1620年)に没し、享年は50。法名は「恕岳院殿節翁玄忠大禅定門」。 埋もれた石柱に 太平山興国寺 宇土へ連行される 島津忠清の娘、次期当主を産む 妻が菩提を弔うが…… 断絶と再興と 埋もれた石柱に 「嶋津備前忠清」と刻まれた石柱。なんでもないところに埋もれている。 踏んでしまいそうな場所に 幅は約16㎝、長さは見えている部分だけで130㎝ほど。細長い形状から墓石ではないようだ。墓が誰のものであるかを示すための標柱であろう。