エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
後南朝の皇子にまつわる川上村の悲しい歴史と土倉庄三郎
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
後南朝の皇子にまつわる川上村の悲しい歴史と土倉庄三郎
松尾芭蕉の門弟の支考が吉野を詠んだ句に、 「歌書よりも軍書に悲し吉野山」 という作品があるのだそう... 松尾芭蕉の門弟の支考が吉野を詠んだ句に、 「歌書よりも軍書に悲し吉野山」 という作品があるのだそうだが、句中の「軍書」は『太平記』のことで、「軍書に悲し」とは、南北朝時代に吉野山で多くの若武者達が戦いに敗れて死去したことを意味しているという。 『太平記』が記しているのは2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任した貞治6年(1368)までだそうだが、吉野の悲しい歴史がそれで終わったわけではない。 教科書には何も書かれていないのだが、明徳3年(1392)に南北朝が合一されて平和が訪れたわけではなく、南朝の皇統の子孫は反幕勢力に担がれて、南北朝の争いは応仁の乱(1467)に至るまで何度も続いたというのが真実である。南北朝合一後に、南朝の再建を図った皇統の子孫や遺臣による南朝復興運動とそれによって樹立された政権、皇室のことを「後南朝」という。 前回の記事で書いた土倉庄三郎の住んでいた吉野郡川上村