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樺太(サハリン)の年表 その2 : 鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽
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樺太(サハリン)の年表 その2 : 鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽
この頃から樺太経営の中心は久春古丹に移動したようだ。久春古丹には勤番設所や運上屋のほか, 多数の倉... この頃から樺太経営の中心は久春古丹に移動したようだ。久春古丹には勤番設所や運上屋のほか, 多数の倉庫や番屋があり, アイヌの住居、数十棟を数えた。 松前藷は毎春勤番の藩士を派遣して漁場や山丹交易の監督をおこない,秋には引揚げるのが通例であった。8月末には謹かに越冬番人37人を残すばかりであった。 アイヌは僅かばかりの米,酒,煙草,古着のほか日用品を代償として酷使され、とくに漁場周辺のアイヌの立場は物品の貸付により殆んど債務奴隷と化しつつあった。 1801年 1801年 奉行松平忠明、宗谷を巡視し、台場を築く。奉行一行の磯谷則吉が宗谷に滞在する。高橋壮四郎が宗谷場所を管理する。 5月 第三回目の幕府調査。普請役を中村小市郎が務める。小市郎は東海岸をナイブツまで、隊員(小人目付)の高橋次太夫は西海岸をショウヤ崎まで検分。山丹交易事情などを報告。「樺太見分図」では、カラフトを大陸の半島、あるいは