![](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/ef6d507305553a18e7cd175f91b2d0c3d5334018/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fimgopt.asahi.com%2Fogp%2FAS20231226004056_comm.jpg)
エントリーの編集
![loading...](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/common/loading@2x.gif)
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
記事へのコメント1件
- 注目コメント
- 新着コメント
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
![アプリのスクリーンショット](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/entry/app-screenshot.png)
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
「百済寺」は異例の碁盤の目都市だった? 北側から道路跡見つかる:朝日新聞デジタル
大阪府枚方市の禁野(きんや)本町遺跡で、奈良時代後半から平安時代初期のものとみられる道路と側溝が... 大阪府枚方市の禁野(きんや)本町遺跡で、奈良時代後半から平安時代初期のものとみられる道路と側溝が見つかった。場所は特別史跡の百済(くだら)寺跡から北に約200メートルの地点。周辺では同じ向きの道路や建物の跡が多数見つかっており、市は「百済寺の北に碁盤の目状の古代都市があったことを裏付けている」と説明している。 百済寺は、古代朝鮮半島の百済から渡来した王の子孫、百済王氏(くだらのこにきしし)が8世紀後半に建てた氏寺とされる。百済王氏は、平城京から長岡京、平安京へと遷都した桓武天皇を支えた。創建当時の礎石が残っており、史跡公園になっている。 市文化財課によると、宅地造成に伴う9~10月の発掘調査で、幅約2メートルの道路部分と側溝が見つかった。側溝にあった土器から8世紀後半~9世紀前半のものと特定した。 百済寺の中央線を基準にすると、今回見つかったのは幅約12メートルと推定される道路の一部で、端
2023/12/28 リンク