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024 百済の地名
区内での百済の地名は、明治22年(1889年)に鷹合、砂子、湯谷島、中野の4ケ村が合併して、南百済村とされ... 区内での百済の地名は、明治22年(1889年)に鷹合、砂子、湯谷島、中野の4ケ村が合併して、南百済村とされたことに因みます。 現在は南百済小学校や百済公園に百済大橋などにその地名が残るのみで、行政上での地名はなくなっています。 日本書紀(続)から、東住吉の百済との関係を探すと、 持統天皇7年(693年)紀1月条 第31代百済王・義慈王は唐や新羅に攻められて、大和王朝に救援を依頼し、2人の皇子(豊璋と善光)を派遣した。斉明天皇6年(660年)紀7月条、天智天皇2年(663年)紀8月条 百済(豊璋)に援軍を付け、百済遺臣・佐平鬼室福信に迎えられて遠征した(斉明6年紀)が、白村江で惨敗し、百済は滅亡し、豊璋は行方不明(天智2年紀)となる。天智天皇3年(664年)紀3月条 残された善光に難波(天王寺区堂ケ芝・百済寺跡と細工谷・百済尼寺跡)に住まわせる。 以後、天武天皇、持統天皇の時期には百済王とし
2017/09/25 リンク