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朝酌あさくみと言う地名 私説『出雲国風土記』参究 青山富士夫
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朝酌あさくみと言う地名 私説『出雲国風土記』参究 青山富士夫
『新・古代学』 第4集 へ 『新・古代学』古田武彦とともに 第4集 1999年 新泉社 朝酌あさく... 『新・古代学』 第4集 へ 『新・古代学』古田武彦とともに 第4集 1999年 新泉社 朝酌あさくみと言う地名 私説『出雲国風土記』参究 青山富士夫 私と朝酌とのかかわり 私の父は松江市の郊外朝酌村(今は松江市内)の、旧地主の次男坊であった。長じて、分家して松江市に住んだ。職業は銀行員。分家するとき、田圃を一町歩分けてもらったそうである。大正時代の一町歩であるから、悪い待遇ではない。銀行員だから、自分で耕作するわけではない。小作に出して、出来秋には、小作料として米俵を受け取る。これがどうも、父には苦手であったようだ。父は明治の末年から早稲田大学(当時は東京専門学校)に学んだ。一生、大の早稲田びいきで、政治的にも、早稲田の先生であった安部磯雄氏の社会大衆党に心を寄せていたようである。それに、世に言う大正デモクラシーの影響もあったであろうか、不労所得、懐手して毎年若干ながらも収入を得ること