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【小山評定の群像(99)完】徳川家康 天下人への第一歩「開運の地」
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【小山評定の群像(99)完】徳川家康 天下人への第一歩「開運の地」
小山評定で徳川家康は多くの味方を得ることができた。本来、家臣ではない多くの豊臣諸将が家康に従うこ... 小山評定で徳川家康は多くの味方を得ることができた。本来、家臣ではない多くの豊臣諸将が家康に従うことを宣言した。すり替えのマジックで一気に東軍が形成され、関ケ原の戦いに向かう。戦国最大の作戦会議が家康を天下人に押し上げた。 1600(慶長5)年、上杉征伐のため会津に向かっていた家康は7月24日、小山に着陣。重臣・鳥居元忠から石田三成が伏見城を攻撃したとの知らせが届いた。家康はこれを待っていた。会津遠征で上方を留守にして敵をあぶり出す狙いだった。 翌25日の小山評定では、上杉征伐続行か、三成討伐へ西に引き返すかが議題となる。このとき、家康は誰もが認める最大実力者で遠征軍を指揮していた。だが、あくまで能力に見合った役割。諸将とは主君と家臣の関係ではない。大小の差はあっても大名としては対等。この作戦を離れれば、諸将は家康の命令に従う立場ではない。それが小山評定で進んで家康の指揮下に入った。「忠誠を