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「広島か下関か」日清戦争講和会議の場所悩む、伊藤博文の書簡見つかる 島根大付属図書館で公開(2/2ページ)
同図書館によると、足立は当時、入社2年目だったが、その後、政治部長や編集局長を歴任し、退社後は実... 同図書館によると、足立は当時、入社2年目だったが、その後、政治部長や編集局長を歴任し、退社後は実業家として成功したという。伊藤を初めて取材した頃、何度行っても会ってくれなかったため、名刺に英語で用件を記したところ、伊藤から英語で返事をもらい、知遇を得た-などの苦労話を後年に述懐している。 下関講和会議に詳しい下関市立歴史博物館の松田和也学芸員によると、日清戦争の講和をめぐり同会議の開催までに、清の使節が27年11月に神戸、28年2月に広島を訪れたが、いずれも講和に至らず、3月19日に清の全権として李鴻章(りこうしょ)が下関を訪れ、翌20日から会議が始まったという。 松田学芸員は「下関がなぜ開催地に選ばれたのか諸説あるが、明確なことは分かっていない」と指摘。「下関での開催に決まるまでの経緯の一端をうかがわせる貴重な資料といえる」と話している。
2017/01/20 リンク