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本書は、日本の朝鮮植民地支配の性格を言語という観点から分析したものである。当時の日本の言語支配は... 本書は、日本の朝鮮植民地支配の性格を言語という観点から分析したものである。当時の日本の言語支配は、従来、日本語普及政策に代表されて論じられてきたきらいがあるが、本書では、朝鮮語に対する朝鮮総督府の政策と朝鮮知識人の言語運動の両方の論理に注目し、これまでとは異なる観点から考察した。 言うまでもなく、日本の日本語普及政策は、それ自体が植民地統治の要であり、朝鮮人社会に対する暴力として機能した。しかし、そのような観点でしばしば提示されがちな日本語=支配、朝鮮語=被支配 / 抵抗という図式は一面的である。朝鮮語をめぐる朝鮮総督府と朝鮮知識人の動きをみると、朝鮮語の世界にも支配と被支配 (抵抗) の論理は交錯していた。 本書でおもに明らかにしたことを具体的に示すと、次の4つになる。(1) 朝鮮総督府が教育政策の過程で朝鮮語規範化の過程に関与せざるを得なくなったが、その事業が朝鮮人の言語生活との間で緊