エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
戦争末期の食糧事情: 気がつけば82歳
暑くて外出する気にもなれず、さっきまで女学校の時のクラスメートと長電話した。今 ブログに戦時中の... 暑くて外出する気にもなれず、さっきまで女学校の時のクラスメートと長電話した。今 ブログに戦時中の事を書いていることもあって昭和19年〜20年のころを聞いてみた。 「戦争有の事を書いてたら若い人から、その頃の食卓事情聞かれたんだけど 覚えてる?」 「確かお米の配給が一日2合4勺だったよね」 「だんだんお米の代わりに大豆粕や高粱(コーリャン)や薩摩芋になって終いにはに遅配遅配だったと思う」 「高粱混ぜたご飯って真っ赤だったでしょ」 住んでる所が生産地か消費地、つまり田舎か都会かによって食事情は全然違った。 都会でもお金持ちは闇で食料や衣服を入手していたし、時の権力と繋がった階層の食卓は豊かだったようだ。 インテリで中間層の市民の食卓は貧しかったと思う。 友達も電話で言ってたが、食事の事で不満を言うのは恥ずかしいと育てられて来たから、すいとんや蒸し芋だけの食事でも感謝しながら頂いた。 家庭菜園で