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今、宗教的寛容をどこから問題にするのか(1): 寛容概念をマッピングする
【注意書き】 以下は、宗教的寛容研究会(2004年6月28日)という場で発表したものを、二つのファイルに... 【注意書き】 以下は、宗教的寛容研究会(2004年6月28日)という場で発表したものを、二つのファイルに分けたものです。ですので、一応主題は「宗教的寛容」という概念をどう論じるか、ということです。あまり文章化はしておらず、見出しの段階にとどまる箇所も多いですがご寛恕ください。できれば、「今、宗教的寛容をどこから問題にするのか(2):認めがたく、耐えがたいもの」と併せてご覧ください ■ 寛容論を始める 寛容(tolerance)、正確にいえば、寛容の「実践」と「理論」は、現在それぞれの面で危機に瀕しているといえる。 「寛容についての言説は、二つの危機に瀕している。陳腐化の危機と、混同の危機である」(Paul Ricoeur, "Tolérance, intolérance, intolérable" Lectures 1: Autour du politique, Seuil, 1991,
2005/12/15 リンク