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近世異国漂流史 - ミヤペディア
ロシアに流れついた宮古衆。初の「露日辞書」を作ったのは彼らだった 延享元年(1744)11月14日、現青森県... ロシアに流れついた宮古衆。初の「露日辞書」を作ったのは彼らだった 延享元年(1744)11月14日、現青森県下北の大畑港を出帆した多賀丸(千二百石積)はイワシ粕、コンブ、大豆を積み、江戸に向かった。水主(かこ)のうち、三之助、久助、長助の3人は宮古人船方だった。しかし、海が大荒れで7人が凍死、残り10人(9人、7人説もある)は北に流され千島列島の端、オンネコタン島に漂着した。彼らはロシア人に助けられそのまま本土へと送られ、全員がロシア正教の洗礼を受け、ロシア名をつけられた。 三之助はタタリーノフ、久助は(チュスキ)イワン・アファナッシェフ・セミヨノフ、長助(チョスケ)フィリップ・ニキフオロフ・トラベスュコフと呼ばれた。 漂流者のうち頭のよい者はロアシ語を覚え、日本語学校教師となった。またロシア人の妻と結婚、子どもももうけた。帝政ロシア政府は日本通商のため、これら漂流者を教師にして保護利用し