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南北朝こそ日本の機密
なかなあ複雑だが、注目してほしいのは北朝の三代目・崇光天皇周辺の系図だ。崇光の在位中に足利幕府の... なかなあ複雑だが、注目してほしいのは北朝の三代目・崇光天皇周辺の系図だ。崇光の在位中に足利幕府の内戦に乗じた南朝軍が京都を占領、光厳・光明・崇光の三人と皇太子・直仁親王(花園の皇子だが、実は光厳の子)を南朝拠点に拉致するという事件が起きた。北朝を消滅させる狙いだったが、足利幕府は出家予定だった光厳の皇子をほとんど超法規的措置で即位させて北朝を維持する。これが後光厳天皇で、その子孫が北朝を継いでいくのだが、京都に戻ってきた崇光とその子孫たちは「本来はうちが持明院統本流のはず」と主張して皇位奪回を悲願とした。この崇光の子孫たちの家は「伏見宮家」と呼ばれることとなる。 その後、後小松天皇の時に「南北朝合体」が成立するが後小松の子・称光天皇は男子のないまま死んでしまうこととなり、結局崇光の曾孫が後小松の養子になるという形で皇位を継承した。これが後花園天皇だ。こうした事情があったため、後花園の実家「