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ヴァレリーのカイエと中井久夫
人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意... 人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。 かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。 自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。 (ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳、「現代詩手帖」九、一九七九年) 訳者によれば、この手段は「言語」であるそうだが、ヴァレリーがそう考えていたにせよ、それは言語に限ったことではないと考えてもよさそうである。私は、このアフォリズムを広く解して「私が自分と折り合いをつけられる尺度は私が他者と折り合いをつけられる、その程度である」というふうにした。 こういう眼で人をみているとなかなか面白い。ひとが自分とどれほど折り合いをつけているか