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ブックマーク / yamamomo.asablo.jp (245)

  • 『やちまた』足立巻一(その三): やまもも書斎記

    続きである。 やまもも書斎記 2018年3月22日 『やちまた』足立巻一(その二) http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/22/8808475 足立巻一.『やちまた』(上・下)(中公文庫).中央公論新社.2015 (河出書房新社.1974 1990 朝日文芸文庫.1995) http://www.chuko.co.jp/bunko/2015/03/206097.html http://www.chuko.co.jp/bunko/2015/03/206098.html 現代という時代において、国語学、日語学、日文学などを勉強するとき、考えておくべきこととして、その歴史がある。学問史というほど大げさなものではないが、大まかな流れはつかんでおく必要があるだろう。 これには、二つの側面がある。 第一には、江戸時代に起こった国学という学問の系譜をひくものと

  • 『やちまた』足立巻一(その二): やまもも書斎記

    続きである。 やまもも書斎記 2018年3月19日 『やちまた』足立巻一 http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/19/8806507 足立巻一.『やちまた』(上・下)(中公文庫).中央公論新社.2015 (河出書房新社.1974 1990 朝日文芸文庫.1995) http://www.chuko.co.jp/bunko/2015/03/206097.html http://www.chuko.co.jp/bunko/2015/03/206098.html この作品の冒頭ちかくにある次の箇所が、全体の通奏低音のようにひびいている。 「ふしぎですねえ……語学者には春庭のような不幸な人や、世間から偏屈といわれる人が多いようですねえ……」(上巻 p.11) 神宮皇學館での授業の一場面の回想。ある教授の話である。ここから、著者(足立巻一)は、『詞八衢』という

  • 『やちまた』足立巻一: やまもも書斎記

    足立巻一.『やちまた』(上・下)(中公文庫).中央公論新社.2015 (河出書房新社.1974 1990 朝日文芸文庫.1995) http://www.chuko.co.jp/bunko/2015/03/206097.html http://www.chuko.co.jp/bunko/2015/03/206098.html 私は、このの初版が出た時に買って読んだのを憶えている。河出書房新社版である。さがせば、まだどこかに残っているはずだが、新しい文庫版を買っておいて、積んであった。『居宣長』(小林秀雄、新潮文庫版)を読んで、次に読んでみたくなって、手にした。 『やちまた』というタイトルは、『詞八衢』(ことばのやちまた)からきている。著者は、居春庭。居宣長の子どもである。だが、その生涯のうちで、失明ということになり、盲目の国学者として仕事を残した。その主な研究領域は、文法、特に動詞

  • 『本居宣長』小林秀雄(その二): やまもも書斎記

    続きである。 やまもも書斎記 2018年3月15日 『居宣長』小林秀雄 http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/15/8803701 小林秀雄.『居宣長』(上・下)(新潮文庫).新潮社.1992(2007.改版) (新潮社.1977) http://www.shinchosha.co.jp/book/100706/ http://www.shinchosha.co.jp/book/100707/ 普段、を読むとき、付箋をつけながら読む。だが、この(『居宣長』)を読むときは、極力、付箋をつけなかった。付け始めたら、毎ページ付箋だらけになってしまいそうだったからである。 だが、そうはいいながら、どうしても、このことばは、小林秀雄が読んだ居宣長として記憶にとどめておきたいと思って、付箋をつけた箇所がある。その一つを次に引用しておく。 「それが、宣

  • 『本居宣長』小林秀雄: やまもも書斎記

    小林秀雄.『居宣長』(上・下)(新潮文庫).新潮社.1992(2007.改版) (新潮社.1977) http://www.shinchosha.co.jp/book/100706/ http://www.shinchosha.co.jp/book/100707/ 再読、といっていいだろうか。このが出たのは、1977年。私の学生のころである。そのころ、手にしていくつかの文章を読んだ記憶、また、その当時のこの作品についての書かれたもののいくつかを目にした記憶があるのだが、全部を通読するのは、始めてになる。新潮文庫版は、『居宣長』(1977)に、「居宣長補記Ⅰ」「居宣長補記Ⅱ」、それから、江藤淳との対談をおさめる。また、注記もついている。しかし、解説・解題の類はない。 このが出た時、私は、大学で国文学を学んでいる学生であった。そのせいだろう、気になって手にしたではある。だが、(研

  • 第29回「東洋学へのコンピュータ利用」に行ってきた: やまもも書斎記

    2018年3月9日は、第29回「東洋学へのコンピュータ利用」である。 http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/seminars/oricom/2018.html 例年よりも発表が多かった。朝、長女が仕事に出るのとおなじに駅まで行く。去年までは、それでもかなり早めについたと憶えているのだが、今年は、開始ギリギリの時間になってしまっていた。会場の部屋はすでにほとんど一杯だった。 同日、デジタルアーカイブ学会が東京でやっていたのだが、それでも、多くの発表があり、また、多くの人をあつめている。 例によって、文字についての発表がほとんどであった。個々の発表については特に言わないことにして、総合して印象を述べれば……すでに、コンピュータの文字は、ユニコードの世界になっている、ということである。もはや、JISコードのことを問題にはしてない。 これも、まったく問題にならなくなっ

  • 『夜明け前』(第一部)(下)島崎藤村: やまもも書斎記

    島崎藤村.『夜明け前』第一部(下)(新潮文庫).新潮社.1954(2012.改版) http://www.shinchosha.co.jp/book/105509/ 続きである。 やまもも書斎記 2018年2月23日 『夜明け前』(第一部)(上)島崎藤村 http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/02/23/8792791 第一部の下巻は、参勤交代の廃止、長州征伐、大政奉還、といったあたりまで。まさに明治維新の激動期である。その激動期の動きを、この小説は、基的に、信州馬籠の宿場町の日常のなかに描いている。あまり、主人公(青山半蔵)の視点から離れて、歴史の叙述にのめり込むことがない。 とはいえ、この第一部(下巻)で、大きく扱われているのは、水戸の天狗党の騒乱。維新史の一コマとの知識はもっていたが、そう知っているという事件でもなかった。この事件のことについて、か

  • 『夜明け前』(第二部)(下)島崎藤村: やまもも書斎記

    島崎藤村.『夜明け前』第二部(下)(新潮文庫).新潮社.1955 (2012.改版) http://www.shinchosha.co.jp/book/105511/ 続きである。 やまもも書斎記 2018年3月5日 『夜明け前』(第二部)(上)島崎藤村 http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/05/8798048 私がこの小説を最初に読んだのは、いつのころだったろうか。高校生のころか、大学生になっていたか。ともかく読んだのは憶えている。それから、数十年がたって再読してみて感じることは……明治維新というできごとを、同時代の感覚でとらえる感性が、この小説の書かれた時(昭和のはじめ)には、まだ残っていたのだな、ということである。 物語は、第二部の下巻に来て、急速に展開する。明治維新をむかえて、半蔵の身の上にも様々なできごとがおこる。半蔵は東京にも行っている

  • 『夜明け前』(第一部)(上)島崎藤村: やまもも書斎記

    島崎藤村.『夜明け前』第一部(上)(新潮文庫).新潮社.1954(2012.改版) http://www.shinchosha.co.jp/book/105508/ 今年は、明治維新、日の近代についてのを読んでみたいと思っている。そのなかで選んだうちのひとつ。再読になる。最初、この作品を読んだのは、若い時、高校生のときか、大学生になっていただろうか。読んだことだけは憶えているのだが、その内用についてまでは、さっぱり忘れてしまっている。 新しく改版してきれいになっている新潮文庫版で読むことにした。まず、第一部の上巻から。 この小説、言うまでもなく、島崎藤村の代表作であり、日近代文学、自然主義文学の最高峰に位置づけられる作品である。信州馬籠の庄屋に生まれた青山半蔵を主人公とする。これは、藤村の父親がモデルになっている。 時代設定は、幕末から明治維新にかけて。そして、この作品が書かれたのは

  • 関西大学の東西学術研究所に行ってきた: やまもも書斎記

    2018-02-12 當山日出夫(とうやまひでお) 2018年2月10日。関西大学で研究会があった。2017年度の関西大学東西学術研究所の研究例会。 いろいろ興味深い発表があった。まず、金水敏さん(大阪大学)の「村上春樹小説のキャラクター分析と翻訳」。それから、岡島昭浩さん(大阪大学)の「近代方言意識史を目指して-西郷隆盛はどう語らせられてきたか」。 これらは、国語学、日語学の近年の用語でいえば、役割語とか方言コスプレなどの概念で論じられることのあるテーマである。 金水さんの役割語の発表、著書でその考え方を知ってはいたが、直接、口頭発表でこの話しを聞くのは初めてである。役割語と物語論の分析の融合をめざしていることは理解できるのだが、村上春樹以外の作品でどうなるのか、今後のこの研究の展開に期待したいと思う。 岡島さんの発表は、ちょうどNHK『西郷どん』の放送もあるので、タイムリーな発表であ

  • 『武揚伝 決定版』佐々木譲: やまもも書斎記

    2018-01-12 當山日出夫(とうやまひでお) 佐々木譲.『武揚伝 決定版』(上・中・下)(中公文庫).中央公論新社.2017 (中央公論新社.2015) http://www.chuko.co.jp/bunko/2017/11/206488.html http://www.chuko.co.jp/bunko/2017/11/206489.html http://www.chuko.co.jp/bunko/2017/11/206490.html やまもも書斎記 2017年12月21日 『武揚伝 決定版』(上)佐々木譲 http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/12/21/8752206 やまもも書斎記 2017年12月25日 『武揚伝 決定版』(中)佐々木譲 http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/12/25/8754718

  • NHK『美子伝説』: やまもも書斎記

    2018-01-04 當山日出夫(とうやまひでお) 2日の夜の放送。録画を3日の昼間に見て文章を書いている。 時空超越ドラマ&ドキュメント 美子伝説 https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/93016/3016039/index.html NHKがお正月番組として、ちからをいれてつくった放送だと思う。面白かった。思ったことを言えば、明治宮廷版「坂の上の雲」というところか。 そういえば、『坂の上の雲』の小説(司馬遼太郎)には、明治天皇はほとんど登場していなかったように覚えている。NHKドラマの『坂の上の雲』には、明治天皇が登場していた。明治宮殿のシーンがかなりあった。しかし、その皇后、美子(はるこ)については、登場していなかった。 思ったことなど、いさかか。次の三点について書いてみる。 第一に、美子皇后の開明性。 明治になって近代日がスタートした。まあ

  • 『國語元年』井上ひさし(中公文庫版)その二: やまもも書斎記

    2018-01-02 當山日出夫(とうやまひでお) 続きである。 やまもも書斎記 2017年12月30日 『國語元年』井上ひさし(中公文庫版) http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/12/30/8757864 井上ひさし.『國語元年』(中公文庫).中央公論新社.2002 (中央公論社.1985) http://www.chuko.co.jp/bunko/2002/04/204004.html この作品には、日のいろんな地方の登場人物が出てくる。主人公の南郷清之輔は、長州のことば。その岳父とは、薩摩のことば。浪人の元武士の若林虎三郎は、会津のことば。このテレビドラマ版の語り手(ふみ)は、山形のことば、などである。 私がこのテレビを見ていた時の記憶として、毎回、冒頭に、ふみ(石田えり)の手紙が語られていた。そのはじまりは、きまって「オドチャに、カガチャ」で

  • 『國語元年』井上ひさし(中公文庫版): やまもも書斎記

    2017-12-30 當山日出夫(とうやまひでお) 続きである。 やまもも書斎記 2017年12月26日 『新版 國語元年』井上ひさし http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/12/26/8755325 井上ひさし.『國語元年』(中公文庫).中央公論新社.2002 (中央公論社.1985) http://www.chuko.co.jp/bunko/2002/04/204004.html 新潮文庫の『新版 國語元年』を読んで、中公文庫版の方も確認しておきたくなって読んでみた。再読である。 確認してみるならば、『國語元年』は、もともとNHKテレビドラマ。この放送は私は見た記憶がある。中公文庫版にはいつの放送とは書いていないのだが、新潮文庫『新版 國語元年』の解説(岡島昭浩)によると、1985年の放送とある。その年(1985)に、中央公論社から、「日語を生きる

    funaki_naoto
    funaki_naoto 2018/01/01
    「文語(口語、話し言葉ではない)の唱歌が、日本語共同体の郷愁を表す/近代的な国民国家、日本として、その共同体を表象するものとしての文語体の唱歌」
  • もみじ: やまもも書斎記

    2017-12-13 當山日出夫(とうやまひでお) 水曜日は花の写真の日。今日は、花ではなく紅葉である。 「紅葉」と書いて「もみじ」と読む。用法には基的に二つある。 第一には、秋になって木々の葉っぱが色づくことの一般である。 第二には、カエデのことをさす。 これは知っていたことだが、例によって、日国語大辞典(ジャパンナレッジ)を見てみる。すると、紅葉一般を指す用法は、古く万葉集からある。これは、納得できる。ところが、カエデのことを「もみじ」というようになったのは、ごく最近のようだ。 2として、「楓(かえで)、または楓の葉をいう。」の用例であがっているのは、 小学読(1874)と、浮雲(1887〜89)である。明治7年と、明治20~22年、ということになる。近代になってからの用法であることがわかる。意外と、このカエデの意味で「もみじ」というのは、新しい使い方である。 写真にとってみたの

  • 『文学問題(F+f)+』山本貴光: やまもも書斎記

    2017-12-09 當山日出夫(とうやまひでお) 山貴光.『文学問題(F+f)+』.幻戯書房.2017 http://www.genki-shobou.co.jp/index.html 夏目漱石の『文学論』についてのである。が、こののタイトルには、そのことが明示されていない。これは、意図的にそうしたのだろう。『文学論』についてのでありながら、それを超えたとことの議論をしたい、そのような思いがあってのことと思われる。 だが、読んでみると、まぎれもなく、『文学論』の解読である。 漱石の『文学論』は、著名ではあるが、難解で、あまり誰も読もうとしない、という感じのとしてあったように思う。岩波文庫版でも出ているし、無論、「全集」にもはいっているが、はっきりいって、私は、これまで、きちんと読むことをしてこなかった。 ともあれ、このが出たおかげで、『文学論』がいったいどんなことを語っている

  • 『源氏物語』岩波文庫: やまもも書斎記

    2017-07-20 當山日出夫(とうやまひでお) 岩波文庫版の『源氏物語』が、新しくなって出たので買ってみた。 柳井滋ほか校注.『源氏物語(一)桐壺-末摘花』(岩波文庫).岩波書店.2017 https://www.iwanami.co.jp/book/b297933.html これは、以前にも書いたことなのだが、『源氏物語』を読むとき、まったくゼロの状態から読むということは一般にはない。その全体のストーリー、そして、その巻の概要、さらには、今読んでいるところがどんな場面であるのか、あらかじめ知ってから、「原文」に接してみる、ということが多い。 この新しい岩波文庫版でも、基的にそのようなつくりになっている。各巻ごとに概要、あらすじがあり、系図もついている。 この時期に、第一巻(全部で六巻になる)を出したということは、たぶん、大学の教科書につかわれることを考えてのことかなと思う。たいてい

  • 『ひよっこ』における方言(その二): やまもも書斎記

    2017-07-14 當山日出夫(とうやまひでお) NHKの朝ドラ『ひよっこ』における方言使用のことについて、ちょっと以前に書いてみた。 やまもも書斎記 2017年6月26日 『ひよっこ』における方言 http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/26/8604596 みね子と島谷がデートした。そのシーンであるが、みね子は相変わらずの茨城方言が抜けていない。その一方で、島谷は、故郷(佐賀)のことばを話さない。共通語で話している。 その前の回。みね子と島谷たちが、バー「月時計」にあつまったとき。この時も、島谷は、自分の故郷の方言を自らは口に出していなかった。女性店主が、言ってみせて、「完璧です」と言っていた。 また、地方出身でありながら、共通語で話しているのは、早苗。バーのシーンで、東北(一関)の出身であると言っていたが、彼女もまた、方言を話さない。 どうやら

  • 『ひよっこ』における方言: やまもも書斎記

    2017-06-26 當山日出夫 昨日につづき、NHKの朝ドラ『ひよっこ』について。 このドラマで、興味深く思って見ていることは、方言のとりあつかいである。これまで、朝ドラでは、いろんな地方を舞台にしてきた。地方を舞台にすれば、当然ながら、その地方色のための方言の使用ということになる。 たぶん、朝ドラの歴史のなかで、近年、方言について、画期的な方針をとったのは、『あまちゃん』(2013前、宮藤官九郎脚)からではないかと思ってみている。このドラマでは、方言が、ただその地方色を出すためのものではなく、もっと積極的に、その地域のアイデンティティの自覚的表現として、つかわれていた。 それは、登場人物でいえば、春子(アキの母、小泉今日子)が、地元に帰ってスナックで仕事をするようになったとき、突然、北三陸方言を話すようになったことからもうかがわれる。それまでや、東京で芸能事務所をやっているようなとき

  • 『西行花伝』辻邦生: やまもも書斎記

    2017-07-08 當山日出夫(とうやまひでお) 辻邦生.『西行花伝』(新潮文庫).新潮社.1999(2011.改版)(新潮社.1995) http://www.shinchosha.co.jp/book/106810/ 再読である。そして、久しぶりの辻邦生である。 辻邦生の作品は、若い頃によく読んだ。『廻廊にて』『嵯峨野明月記』『安土往還記』『背教者ユリアヌス』など。その芸術至上主義とでもいうべきものに、ふかくこころひかれていたときがあった。そのような気持ちは、今でものこっている。 つぎのような箇所、 「なぜそれはそこにあるのか。なぜそれはそれであって、他のものではないのか。」(p.630) 「たとえば鳥が空をとんでゆく。それは日々気にもとめず見る平凡な風景である。だが、なぜ〈その〉鳥が〈その〉とき〈そこ〉を飛んだのか、と考えはじめると、平凡な風景が突然平凡ではなくなり、何か神秘的な因