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ブックマーク / myougadani.hatenadiary.org (105)

  • 人文・社会科学の学術雑誌発行コストは自然科学よりも高い、とは - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。

    国立国会図書館のサイト、カレントアウェアネスによると、米国のOPEN ACCESS NEWSが「人文・社会科学の学術雑誌発行コストは自然科学よりも高い、という調査」を報告したという。その原因は、採択率が低いため、ピアレビューや査読に関わるコストが高いからだという。それに対して、投稿する著者が投稿についての経費を負担するという仕組みが提案されているらしい。 そのように著者が負担することで人文・社会科学の学術雑誌発行コストを下げようと主張する一方、理系の研究者が投稿する経費をサポートするファンドを持っているのに対して、人文・社会科学の研究者は、そういう基金、助成金を持っていないから、その部分を財政的補助する仕組みを考えるべきだという、ような論調だと思った、私の英語力で理解できる範囲によると。100パーセントの誤読かも知れません。 日の学術振興会は、数年前に公開促進費を大幅に減らした。しかし、

    人文・社会科学の学術雑誌発行コストは自然科学よりも高い、とは - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。
  • 編集業務の変遷 原稿の素案 - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。

    出版学会の『白書出版産業 データとチャートで読む日の出版』にのせるための原稿の素案 編集の根は、新しい企画を作り出すことであり、そのことは基的に全く変わっていない。印刷現場の技術の変遷と連動して、編集という仕事がどのように変わってきたのかということを述べる。 私が、編集の仕事を始めたのが、1986年である。その時期は、多くの出版社の編集現場ではもうほとんど電算写植で文を組むという時代になっていたのではないだろうか。 精興社のHPの資料によると次の通り。 1979年(昭和54年)8月 青梅工場に初の平版印刷機を導入 1986年(昭和61年)12月 青梅工場第1期工事完成、組版電算化システム導入 1995年(平成7年)8月 活版印刷部門を整理 精興社は、活版組版に定評のある社であり、電算写植の導入は遅い方であったのではないだろうか。私の入社したおうふうは、日の古典文学の研究書を刊行し

    編集業務の変遷 原稿の素案 - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。
  • Oxford Style Manualをみんなで毎週読んでいる - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。

    ひつじ書房では、現在、Oxford Style Manualを編集部みんなで毎週読んでいる。一段落ずつ一人に割り振って、英語を日語に訳す。このOxford Style Manualは、や論文のルールが書いてあるマニュアル的なとしては、Chicago Manualと双璧とされている。どっちがよいといえるものではないが、私はOxford Style Manualの方がChicago Manualよりも分かりやすいと思う。Chicago Manualは、こうするとルールだけが書いてあるのだが、Oxford Style Manualは、説明が書いてある、わずかだが。 「通常、大見出しから章中の階層分けのレベルの見出しまでを含むような詳細な目次は必要ない。中見出しや、それよりも下位レベルのものは目次に入れない。詳細に項目をあげたいと思ったら、それらを入れるのに正しい場所はインデックスである。」

  • Studio Voiceの休刊、雑誌売り場の叫喚 - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。

    Studio Voiceなどなどの休刊で雑誌の時代が終わった、ということをいう人もいるだろうが、ブックファースト新宿店なんかにいくと雑誌売り場の叫喚というさま。 雑誌の時代が終わったという発言は一面的だ。 いうなら、それぞれがそれぞれで叫んでいる時代か。30年前であれば、新しい何かが生まれたら、それは新しいテーマとして人々が集まり、その集まっていることがパワーになっていたように思う。しかし、それは今は1つの趣味、1つのオタク的トピックが生まれたにすぎない。どんどん細分化していく。さえずり機械。 雑誌が困難なのではなくて、趣味を超えた、公共性とでも呼ぶべき、言論手段とでも読むべき、あるいはカフェとでも呼ぶべき、普遍性につながるようなメディアが難しいということだろう。評判記は可能でも、批評は不可能だ。それぞれの事象はあっても、それを文化的・総合的に評価することが可能ではない。 文化的・総合的に

    Studio Voiceの休刊、雑誌売り場の叫喚 - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。
  • 対照青年学の必要性 - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。

    現在、日教育の研究論文集を編集しているが、面白い内容で、その内容に啓発されて思うことがある。 東アジア圏から来た若者たちに日語を教えていて、文化的な違いに驚くという異文化接触というのが背景にあるのだが、その時に日文化や日人の特徴やものごとをこう理解するよとかこう受け止められるよ、と先生たちは教えていて、そこには日と日以外の社会の違いと言うことが浮き彫りになるのだが、私はもうひとつ軸があるのではないかと思う。どうなんだろうか。 10代後半の大学の入試を受ける世代、まだ、社会を知らない若者と社会人との違いというのがあるのではないだろうか。以前、日語学校の授業にゲストとして参加した時に、料理の作り方を説明するということがあって、なかなかみんな上手だなと思ったのだが、韓国から来ていた生徒が、自宅ではこれまで料理を作ったことがない、と言っていた。 日に来てはじめて家族から離れて一人

    対照青年学の必要性 - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。
  • アニメの殿堂 ひつじ書房の責任販売制 - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。

    朝日新聞のアニメの殿堂についての記事で、浦沢直樹が、マンガはエログロも含めて、価値が多様であり、すべてのものを収録するのでなければ意味がないと言っていた。これは、面白い発言だ。 ◆気味の悪い「国のお墨付き」(浦沢直樹氏) 我々は既存の芸術作品と同じ気合いでマンガを描いている。マンガには政治や政府エロティックなもの、くだらないものがたくさんある。全てのマンガが保管できないとしたとき、それをひとくくりに、例えば赤塚不二夫先生の担当編集者の下が臭いことを延々と描いたものがあるが、どうやって選別するのか。全てのマンガは100%同等に扱って欲しい。 マンガの原稿は極端に言えば版下。保存するなら推進派の人はスキャンデータで置いておけば良いではないか。そして原稿はマンガ家のもの。保存しようが売りに出そうが自由だ。 「国営マンガ喫茶」と卑下しマンガを愛してもいない人や、これに乗っかるマスコミも嫌だ。よっ

    アニメの殿堂 ひつじ書房の責任販売制 - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。
  • 学術書の本作りにおける仕事 スタッフとラインの融合 - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。

    作りといってもいろいろあって、その中でも学術書の作りは、学術書の作りの作り方がある。 学術書の作りとしての面白さがあるし、たいへんさ、つらさもあるし、やりがいもある。 何が楽しいか、充実しているかというと、何か新しい発見とともにいることができるということと、それを世に伝えることに関わると言うこと、そういう発見をする人といっしょに仕事ができることが、学術書を作るときのやりがいだと思います。 たぶん、小説作り、児童書の作り、一般書の作り、さまざまな作りには同じ作りとして共通する部分とそれぞれで違っている部分があるでしょう。小さい出版社の立場で言えば、全工程見渡せるというのも面白さの1つでしょう。もし、ある部分だけのことが好きなのであれば、それは大きな会社の方がよいということになると思います。 専門性というものも仕事によって違います。最近、復刊された書籍で『ビジネス・ゲーム

  • 国英文青年、創刊 - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。

    国英文青年、創刊というのはどうだろう。 国文学休刊、英語青年休刊と、文学研究の商業雑誌が休刊ラッシュである。 夏目漱石は、英文学出身の文学者だし、英と国を分ける意味はないのではないか、ということで国英文青年というのはどうだろう。どうせだから、いっしょにして復刊してみては?(誰が?)ジュンク堂と丸善を吸収した大日印刷でも、出資して復刊してくれないだろうか。手伝えることがあれば。何でもしよう。 文科系学術的商業誌では、青土社のみが生き残るのだろうか。月刊言語は、だいじょうぶかと言語学出版社として心配してしまう。 発表できる場がある、発表できるメディアがあるということは、重要なことだと思う。ここいらの雑誌は、落語で言うと寄席みたいなものか。とすると、渋谷のジャンジャンでやっていた円丈の実験落語に相当するような、開かれた実験の場所としてのメディアが必要なのかも知れない。

    国英文青年、創刊 - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。
    funaki_naoto
    funaki_naoto 2009/06/21
    「発表できる場がある、発表できるメディアがあるということは、重要なことだと思う」
  • ことばを持てる人とことばを持てない人 野間宏の会 - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。

    第17回「野間宏の会」 「シンポジウム 文学よ、どこへゆく?」に参加しました。 土曜日。藤原書店さんが事務局をつとめています。古風なシンポジウムで、今時めずらしいのではないか、朗読あり、ギターの演奏あり。 会の内容は、参加する価値のあるものであった。講演会に行くとよく寝る私もほとんど一睡もしなかったのではないだろうか。 奥泉光さん、姜信子さん、佐伯一麦さん、塚原史さん、そして司会の富岡幸一郎さんの話しが魅力的だったからだろう。というか文学ということを巡るシンポジウムというものに参加すること自体が新鮮だった。いろいろ考えさせられた。 姜信子さんの光だけのことばは、好きになれない、闇を持つ言葉ではないと信用できない、というような言いようと父の世代のことばが信用できないという話に少しいらだった。父はことばを持っていなかったということだとすると作家というものと言葉を持たないものとのあいだの葛藤とい

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  • 忘れられた精神分析医ハリー・スタック・サリヴァンと言語学 - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。

    精神分析医サリヴァンは思い出されうるのだろうか? 忘れられたというよりも、精神分析業界以外ではほとんど知られていないハリー・スタック・サリヴァンという精神分析医がいた。日では中井久夫さんが精力的に紹介しているけれども、たぶん、人文科学の世界、教育学の世界などなど、関係すると思われる業界でも知られていないと思われる。 有名かそうではないかは、主観的なことで、単に私が知らなかっただけともいえるかもしれないが、ちょっと聞いてみたところ、それも私の身の回りというのに過ぎないので、確固とした事実と言うよりも、個人的な範囲に過ぎないので、根拠にはならないが…。 通俗的というか、安直な道であるが、wikipediaのページを示す。 ☆ 人間関係を重視した考え方で、フロイトやラカンなどが基的に自我が形成されるまでの部分に大きな比重を置いたのに対して、思春期など子ども同士の人間関係に注目した考え方は、と

    忘れられた精神分析医ハリー・スタック・サリヴァンと言語学 - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。
  • 出版の未来 その4 学術出版は、出版のプロトタイプ - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。

    出版の未来 その4 学術出版は、出版のプロトタイプ電子出版ということが議論されている場合、出版ということが一概に出版と言えるのか、ということがいつも気になる。そんな安易に、十把一絡げに言ってもらっては困るよ、という感じ。こういうと嫌みに聞こえるとおっしゃる方もいらっしゃるかもしれない。すいません、悪意はないので許して頂きたい。 例えば、文庫や新書という出版形態と、単行という出版形態は同じ出版なのか。小説の出版と技術書の出版は同じ出版と呼べるのか。医学書の専門書と児童書は同じ出版なのか。 たとえば、新しい書き手を探していく学術書というものと、著者が有名になって普及させることが中心の書籍と同じ出版と呼べるのか。 2万部刷る書籍と300部刷る書籍は、同じ出版なのか。700円の新書と2万円の専門書は同じ出版なのか?コンビニで売っている600円のお弁当と和の専門店で出す3000円のお弁当は、同じ

    出版の未来 その4 学術出版は、出版のプロトタイプ - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。
    funaki_naoto
    funaki_naoto 2009/05/14
    「ボイジャーが言う電子出版は、出版と言うが私には出版ということばを使いながら、電子印刷ということを言っているように思った」
  • イパネマの娘のジョアン・ジルベルトは、ジウベルト? - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。

    イパネマの娘で、私なども知っているジョアン・ジルベルトは、João Gilbertoと綴る。L(エル)のことを、ラ行だと日人は思っているので、ジルベルトと読むのが慣例なのだけれども、ポルトガル語のL(エル)は、ウと読むのが当らしい。 とするとジウベルトと呼ぶのがポルトガル語的なのだろう。 こんなことを知ったのは、もうすぐ近刊で刊行されるリリアンさん著『マイノリティの名前はどのように扱われているのか』の中で、ブラジルから来た子どもたちの名前が、ローマ字を読むときに、英語読みになったり、日語での英語のイメージで読まれてしまい、子どもたちが自分の名前を予想もしない呼び方で呼ばれてしまうことがよくあると指摘されているからだ。 私の名前はイサオだが、それがサオとかイザオとかヒサオとか、言われたら。人間は自分の名前で自分を認識しているということがあり、読み間違えられるだけで、自分の足下がぐらつい

    イパネマの娘のジョアン・ジルベルトは、ジウベルト? - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。
  • 『カラー版 本ができるまで』の見落としている本質 - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。

    【執筆途中】 岩波ジュニア新書『カラー版 ができるまで』というがあって、ジュニアなので高校生や大学生を対象としているものだ。このの特徴は、がどういうプロセスを経て、になっていくかという工程について書かれていることと、という仕組みができるまでの社会の歴史について語っているところだ。 このは比較的良くできているので、これからを出そうとする若い研究者の方であるとか、新人編集者にすすめたいと思う。ただ、実際にすすめるかという消極的になってしまうのだ。いいだと思うのだけれど、納得できない点があるからである。 このの見落としていることは、終わりから見ているという点だ。今はこういう出版文化がある、との過去のプロセスはこうだった、というふうに書かれている。現在の視点から過去を見ているという点だ。 私が言いたいことは何か、何を言いたいのかわからないと思うので、もう少し説明しよう。 十五世

    『カラー版 本ができるまで』の見落としている本質 - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。
  • International Mother Language Day を祝福する - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。

    発音記号フォントでお世話になっているSILのHPに行ってみたところ、 SIL joins celebration of International Mother Language Dayと書いてあった。 母の日というものがあることは知っていたが、母語の日というのがあるとはついぞ知らなかった。世の中には知らないことが多い。母語の日といういい方は、なんだかとても素敵だ。その日は21日らしい。ちなみに、私の誕生日である。ひつじ書房の創業記念日でもある。(前の会社を20日付けで退職し、次の日に起こしたので。) http://www.sil.org/sil/news/2009/imld-2009.htm SILのページによると松浦晃一郎氏のことばが載っている。松浦晃一郎氏で検索したところ、ユネスコ事務局長ということであり、さらに 2008年は国際言語年であったことを知った。(たぶん、新聞か何かで読ん

  • 柳家小三治師匠 落語家論とま・く・ら - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。

    柳家小三治師匠の『落語家論』は、2001年にでたで、今は筑摩文庫に入っている。もともとは後輩の落語家に対するエールとして書かれたものという。最初の部の扉に「紅顔の落語家諸君!」とある。かなりつよい口調で後輩たちを叱咤、激励している。落語家論があるのなら、編集者論もありうるのかもしれない。 「誰も助けてくれない」という章で、人材不足を嘆いている。「なぜ、これという人材が出てこないのか」と。こういうのは、下手をすると自分のことを棚に上げた単なるぼやきのように受け取られがちだが、若い落語家への期待ある切実感があって、そういういやらしさを逃れていると思う。 「誰も助けてくれない」の最後の少し前に だいたい、人間が人間を育てられるわけがない。…教えてもらえるものじゃない、自分で考えて生きていくわけだ…(みんながやっているように)毎日なんとかすごしていれば、そのうちなんとかなると思っちゃいないか? 

    柳家小三治師匠 落語家論とま・く・ら - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。
  • 街の書店に助成金を出す コミュタリアン的政策を - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。

    街の書店という業態において自分の経営努力で、立ち直るということは、私は不可能だと思う。 商売としてなりたたせるためには、坪面積が200坪以上は必要だろうし、のことをよく分かる人が最低2人はいないと回らないと思うけれども、50坪クラスでは売上げが不足してしまうだろう。利幅の多い副業をするということもあるかもしれないが、それは個々の作戦の問題であって、書店業の救いの手ではない。 街の書店に助成金を出すということしかないと思うのだ。 中学校区(その地域に中学校が一校あるようなエリア)に一つは書店が、社会的なインフラとしてあるべきである。それは社会的なインフラであり、文化的な生活を営むのに必須の存在である。書店の無い生活を余儀なくされることは、その人間の人権侵害である、と考え、中学校区に1軒の書店を持続させるべきだ。 ここでの私の立場はコミュタリアン的だと思う。書籍には、エンターテインメントとい

    街の書店に助成金を出す コミュタリアン的政策を - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。
  • なぜ出版物に再販制度が必要なのでしょうか? - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。

    書協のHPには、再販制度の必要な理由として次のように書いている。 念のため言っておくと再販制度とは、出版社の決めた値段で小売店も販売するという仕組みです。 なぜ出版物に再販制度が必要なのでしょうか? 出版物には一般商品と著しく異なる特性があります。 (1) 個々の出版物が他にとってかわることのできない内容をもち、 (2) 種類がきわめて多く(現在流通している書籍は約60万点)、 (3) 新刊発行点数も膨大(新刊書籍だけで、年間約65、000点)、などです。 このような特性をもつ出版物を読者の皆さんにお届けする最良の方法は、書店での陳列販売です。 書店での立ち読み 風景に見られるように、出版物は読者が手に取って見てから購入されることが多いのはご存知のとおりです。 再販制度によって価格が安定しているからこそこう したことが可能になるのです。 しかし、これは特性であって、理由にはなっていないと思

    なぜ出版物に再販制度が必要なのでしょうか? - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。
  • 外国人学校への公金投入は憲法違反とは? - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。

    MSN産経ニュースの記事。 もし、文科省がその主張を通すのなら、これまでの関係者の議論や積み重ねが無であったことになる。財務省が指摘するのなら、ありえるかもしれないが… 岐阜県の就学支援策に“待った” 文科省「外国人学校への公金投入は違反」 (1/2ページ) 2009.1.19 23:30 メーカーの「派遣切り」や期間労働者解雇の影響を受ける在日外国人労働者たち。失業した親が学費を払えないため、子供たちが外国人学校を退学するケースが急増している。外国人労働者が多い岐阜県が、子供たちが通う学校に学費補助をする計画をまとめたところ、文部科学省が「私塾の外国人学校に公金投入するのは憲法違反」とストップをかけた。差し伸べようとした支援の手が届かない現状に、同様の問題を抱える各地の関係者は頭を悩ませている。 http://sankei.jp.msn.com/life/education/090119

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  • 日本語教育の父 嘉納治五郎 - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。

    教育の父は、誰だろうか。私は、嘉納治五郎を候補として上げたい。他にも候補はあるだろう。上田万年であるとか、…。 ネットで検索しても、出てこないし、そういう呼び方を聞いたことがないので、たぶんそういう呼ばれ方をしている人はいないのではないだろうか。しかし、ものごとには創始者というものがいるはずである。それはだれなのだろう。 嘉納治五郎は、通常、柔道の父と呼ばれる。それは確かにそうなのだが、高等師範の校長でもあったということを考えると教育の父でもある。近代教育の父、と呼んでもいいのかも知れない。 何でこんな事をいうかというと、林屋三平の襲名披露の行事・イベントが目白押しだからである。何でこんな事をいうかというと、落語協会は、落語の復興のために、内部的リソースを活用しようとしはじめているからだ。何でこんなことをいうかというとこれは『苦悩する落語』で、小朝が提唱していたことと同じだからである

  • 歯ぎしりをする 近代日本の学術用語の誕生 - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。

    水村美苗氏の『日語が滅びるとき』を読んで、このは日の近代文学というものが、日の近代を支えたということを大事なことであると思い、そしてそれが失われつつあることを悼むというはなしだが、この中で指摘されていることとして私としてさらに大事だと思うのは、近代を成立させたものとして、学術語を作ったということの指摘だ。このことにぜひとも注目したい。日語で学術的な議論が曲がりなりにもできるということ、そのことについて感動するからだ。 このあたりは、ひつじ書房でも刊行している書物のある「近代語研究」のテーマの一つでもある。 蘭学→洋学が、科学的な術語を用意し、近代になって翻訳語が爆発する。かつては、飛田良文先生の独壇場であったといえると思うが、最近は真田治子さんがこの分野を研究している。水村さんに触発されて「近代日の学術用語の誕生」について書いてくださいと真田さんに言おうかと密かに思っていたのだ

    歯ぎしりをする 近代日本の学術用語の誕生 - 茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。