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ブックマーク / yamamomo.asablo.jp (245)

  • いつ止めるかの判断: やまもも書斎記

    2010-02-24 當山日出夫 昨日、一昨日とは、京大で、「文化とコンピューティング」。これは、これで、追って感想など書こうと思う。その前に、その前(先週)の国会図書館のシンポジウムの件。 ディジタル情報資源の長期保存とディジタルアーカイブの長期利用に関する国際シンポジウム このシンポジウムの発表を聴いていて、興味深いと思ったこと、一つ書いておきたい。それは、最後の発表にあった、 講演「電子情報の長期保存計画支援ツール“Plato”による信頼できる計画の作成」 アンドレアス・ラウバー (ウィーン工科大学教授) で、語られたこと。それは、ある制度やシステムを設計するとき、「いつ止めるか」を組み込んでおかなければならない、という論点の指摘。 たとえば、あるデジタル保存の技術がある、(PDFであるとか、JPEGであるとか)、これを採用するには、まず何かの判断基準による。そして、その時に考えなけ

  • エル・ライブラリー見学記: やまもも書斎記

    2010-01-26 當山日出夫 先日、2010年1月23日、JADS(アート・ドキュメンテーション学会)の関西地区の見学会が、エル・ライブラリーであった。(記録管理学会と合同)。そこで見たことの一端なりと記しておきたいと思う。 エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館) http://shaunkyo.jp/ 見学会の趣旨は、MLA連携にある。学会(JADS)のHPから引用しておくと、 >>>>> エル・ライブラリーは労働資料に特化した専門図書館である。この図書館の特徴は、労働問題や労働運動に関する図書や雑誌のほか、労働組合の議事録など、労働運動を研究する際に重要となる文書類(アーカイブズ)や労働運動に関連する文化財までをも集めているところにある。最近、博物館(Museums)、図書館(Libraries)、文書館(Archives)の連携、融合が注目されているが、この図書館はまさにMLA

  • 『ネットがあれば履歴書はいらない』: やまもも書斎記

    2010-01-22 當山日出夫 佐々木俊尚.『ネットがあれば履歴書はいらない-ウェブ時代のセルフブランディング術-』(宝島社新書).宝島社.2010 宝島社 http://tkj.jp/book/?cd=01748501 これを読んでいろいろ考えることが多い。特に、学生に教える立場としては、である。 まず、このは、「エゴサーチ」のことからはじまる。WEBで自分自身を検索してみることである。そして、その結果が、その人間の「価値」を決める要因の一つになる。 たとえば、次のような指摘。 >>>>> いまのインターネットの流れからすると、プライバシーというのは将来的にはいまよりもずっとゆるやかになり、個人の情報をよりオープンにすることによって、利便性を高めるという方向におそらくは進んでいくということは間違いないだろう。 (中略) インターネット世界と現実は全然異なるとみている人もいるだろう。イ

  • じんもんこん2009覚書(5): やまもも書斎記

    2010-01-08 當山日出夫 やっぱり、つづけることにする。パソコンがあたらしくなると、インストールしてあるエディタ類の設定が微妙に変わってしまうの、ついつい文章を書くのが億劫になる。ここは、一種のリハビリ的な意味で、つづきを書いていこう。 基的にA会場の方にいたので、こちらしかわからない。そのなかで、第一日目の午後の発表で、気づいたことをいくつか記す。 Subversionを用いた仏典テキスト校訂支援システムの評価 福岡整さん(ほか) なかなかいい発表だなとは思った。まず、画像データとテキストデータとの連係。そして、それを、どのように管理するか(文校訂)の問題。この場合、やはり問題になるのは「校訂」ということの定義だろう。 単純化していえば、 ・文のミスをただす(→正しい文に書き換える) ・肯定者(研究者)の文解釈として字句を改める この二つの方向がある。 そして、ややこし

  • 『日本歴史』日本史研究とデータベース: やまもも書斎記

    2010-01-02 當山日出夫 すでに、他のブログなどでも言及されている。ARG(ブログ)でも書いてある。雑誌『日歴史』(吉川弘文館、2010年1月号)の特集が、「日史研究とデータベース」になっている。 ARG 2009年12月22日 http://d.hatena.ne.jp/arg/20091222/1261477846 が、まあ、ここでも簡単に目次だけでも簡略に紹介しておく。 日史研究データベースはどこに行こうとしているのか(横山伊徳) 日古代史研究のためのオンライン・データベース(小口雅史) 中世史研究資源としてのウェブデータベース(田良島哲) 日近世史研究とデータベース(鵜飼政志) インターネットで歴史研究(櫻井良樹) 中国台湾史に関するデータベース(江川式部) 朝鮮前近代史に関するデータベース(長森美信) 朝鮮近現代史に関するデータベース(河かおる) ぞんざいな検

  • Twitterの本あれこれ、書いていないこと: やまもも書斎記

    2009-11-28 當山日出夫 今日は、当は、神戸大学に行って「人文科学とデータベース」シンポジウムの日なのであるが、家で休養ということにしている。神戸あたりは、我が家からは便利になった(近鉄~阪神)とはいえ、寒いだろうなあ、とおもいつつ。 ところで、今、手元にある、Twitter関係の(新書)は、次の4冊。 小川浩.『仕事で使える! Twitter超入門』(青春新書).青春出版社.2009 コグレマサト・いしたにまさき.『ツィッター140文字が世界を変える』(マイコミ新書).毎日コミュニケーションズ.2009 津田大介.『Twitter社会論-新たなリアルタイム・ウェブの潮流-』(新書y).洋泉社.2009 神田敏晶.『Twitter革命』(ソフトバンク新書).ソフトバンククリエイティブ.2009 ここで、どののを読んでも「なるほど」と思ってしまうのであり、特に、ここで、どれが

  • Wikipediaと新聞:文化の階層の共存: やまもも書斎記

    2009-11-29 當山日出夫 『ARG』の読書会のようにやっている授業での学生の感想を、以下に転記しておく。Wikipediaと新聞の問題。いわれてみて、私も、なるほど、と思った。たしかに、日の新聞は、階層的に(あるいは、社会階級的に)分かれていない。地方紙と全国紙のちがいがあるぐらい。広告にまで目をやれば、週刊誌の記事(見出し、目次)まで、掲載ということになる。 以下、転記(※この転記の件については、授業のガイダンスで事前に了解を得てある。) >>>>> 外国語版のウィキペディアに比べて、日語版のそれに大衆文化に関連する項目が異常に多いという。話を欧米諸語版と日語版の違いに限定すると、私見では、日では欧米ほど上位文化と下位文化の区別を厳密にしない者が多いためではないか。この傾向は、例えば、特に発行部数の多い新聞や雑誌等に顕著であり、このことは予てから言われているが、教養のある

  • 百科事典を使う教育: やまもも書斎記

    2009-11-25 當山日出夫 先日(2009年11月22日)、Wikimediaカンファレンス2009(東京大学)で、話しをして感じたこと。 端的に言えば、日には、「百科事典」をつかう教育の基盤がない。そこに、デジタルのWikipediaがはいってきたらどうなるか、その混乱と見ることもできよう。 まず、(私自信の経験からであるが)、初等教育からはじまって、高等教育にいたるまで、「百科事典」を学習に利活用するという教育をうけていない。高等教育(大学)レベルであれば、むしろ見るべきは、専門の事典である。たとえば、『国史大事典』などの類。これをみるべきであって、「百科事典」などは、ちょっと参考にする程度……というのが、一般の大学教育のでのあつかいではないのか。 なお、私は、事典・辞典の類は、買ったらすぐに箱とカバーをすててしまう。を裸の状態にして棚におく。大漢和・日国語大辞典、すべて

  • Wikimediaカンファレンス2009: やまもも書斎記

    2009-11-23 當山日出夫 さて、昨日は、Wikimediaカンファレンス2009。発表した立場であるので、あまり、批判的なことは書きたくない。しかし、課題も多く見えてきている、さて、どうしよう、というあたりである。 ともあれ、(最終的な人数はきいていないが)200~300名におよぶ、参加者があったことは成功であり、関係者の努力に感謝しなければならないだろう。そうはいいつつも、ここは、日においても、時代の流れというものがある。なぜ、Wikimedia(あるいは、端的には、Wikipedia)に、かくも関心があつまるのか。そして、(私の知り得た限りで)議論が、微妙にすれ違ってしまっているのか。 まあ、議論がきちんとかみ合うような、会合という方がめずらしい、というより、どこかおかしいとすべきなのであって、どのように、すれちがっていたかという観点から考えた方がいいのであろうが。 ここで、

  • 『群像』の特集:活版印刷の記憶: やまもも書斎記

    2009-11-12 當山日出夫 文芸誌『群像』(講談社)の2009年12月号は、「特集:活版印刷の記憶」となっている。もはや文芸誌など買わない私であるが、この特集号だけは、オンライン書店てすぐに注文して買ってしまってある。(いま、手元にある。) 次号から、オフセット印刷。活版は、今号が最後とのこと。で、確かに触ってみてみると、活版である。ただし、文のみである。広告などは、オフセット。 まず、おどろいたのは、まだ、活版印刷を続けていたのか……ということ。いくら、文芸誌だからといって、作家のみなさんが、全員、原稿用紙に万年筆というわけではあるまいに、ワープロ入稿の原稿は、どのように処理していたのだろう。自動の文選・組版の機械というのはないわけであるし。 しかし、これも時代の流れだろう。もし、活版印刷を維持しようと思っても、その基盤がもはや絶滅している。文選・組版・印刷の技術は、かろうじて残

  • NDLのコンテンツは誰のものか: やまもも書斎記

    2009-11-10 當山日出夫 NDL(国立国会図書館)のオンラインサービスを考えていくと、最終的にいきつくところは、そのコンテンツは、いった誰のものであるのか、というあたりに行きそうである。 あらかじめ、ことわっておかねばならないのは、誰のものであるのか、ということと、何のために利用可能であるのか、ということは、とりあえず別の問題である。しかし、密接に関連する。 NDLのコンテンツという視点から見た場合、それは、国民のものだろう。少なくとも、いまの常識的判断からするならば。国家のものであるというよりも、主権者たる国民のものであり、それを集中的に管理する機関として、NDLがある……というのが、大方の理解であると考える。 ならば、誰でもが、それを使えるか。もちろん使える。利用規程によって、国民のすべてにひらかれている。 だが、これは、基的に「」に限られる。(保存が重要である貴重書もある

  • NDLのWEBサービスに望むこと: やまもも書斎記

    2009-11-08 當山日出夫 一昨日は、立命館の岡真さんのARGの講演会。私がたてた企画のようになってしまっているので、なんとな責任のを感じる。この感想は、おって後ほど。 昨日は、NDL情報提供サービスに関するグループディスカッション、なるものに参加してきた。(ブログに書くな! と誓約書にサインしたわけでもないので、書いたってかまわないだろう。) 私の理解するところ、国立国会図書館のいろんなオンラインサービス、これがつまらない。では、どうしにかしよう。それも、できるなら、今の、長尾館長の任期の間に。まずは、いろんな人、図書館の関係者だけではなく、社会のいろんなところで活躍しいる人、あるいは、普通の人に、集まってもらって、ディスカッションしてもらい意見をあつめよう……それを、最終的に集約し、反映したシステムを構築しよう……ということ、(らしい、と私は判断する。) 中心は、慶應の原田隆史

  • 『渋江抽斎』を読んでいる-Wikipediaでうしなったもの-: やまもも書斎記

    2009-11-05 當山日出夫 いま、岩波文庫の『渋江抽斎』が、手元においてある。気分的につかれたおり、なにげなく、パラパラと途中からページをめくる。特に、最初から、通読しなければと思ってよむわけではない。 TL(タイム・ライン)の流れる速度が違うのである。今のように、電子メールだ、インターネットによるオンライン蔵書検索だ、デジタルアーカイブだ、なんてなことが無い時代。通信手段は、もっぱら手紙。でなければ、直接、自分で(歩いて)行って、人にあう。現場に行ってみる。 これが、来の人間のものを考える速度なのだろう。学校まで、あるいていく間に、あるきながら、(適度の身体運動をしながら)なんとなく考える。そうすると、徐々に頭のなかが整理されてくる。次は何をしようかと、携帯で、モバイル端末で、電車の中で仕事に追いまくられるのでは、学んだこと、知ったことを、自分の中で、時間をかけて沈殿させ、熟成さ

    funaki_naoto
    funaki_naoto 2009/11/05
    「学問は、正しさをもとめる。(これは、当たり前)。だた、それ以上に重要なのは、「正しさとは何であるかを、もとめること」である/Wikipediaによって失ったものがあるとすれば、それは、「時間」」
  • Wikimedia Conference Japan 2009: やまもも書斎記

    2009-10-29 當山日出夫 2009年11月22日 Wikimedia Conference Japan 2009 東京大学で開催である。この件、すでにいろいろWEB上にでまわりはじめている。 家のURLは、 Wikimedia Conference Japan 2009 http://www.wcj2009.info/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8 参考 マガジン航 Wikimedia Conference Japan 2009への誘い http://www.dotbook.jp/magazine-k/2009/10/28/wikimedia_conference_japan/#more-917 暫定であるが、プログラムも公開になっている(つまり、わたくし(當山)も話しをするという予定です)。でも、何を

    funaki_naoto
    funaki_naoto 2009/10/30
    「日本の伝統的な学知の継承は、その教授法のなかにある」
  • 図書館の本の廃棄について: やまもも書斎記

    2009-10-30 當山日出夫 都立図書館の書籍廃棄について、最新の情報。 ポット出版 松沢呉一の黒子の部屋 お部屋1971/【必読】多摩図書館廃棄についての正確な情報 http://www.pot.co.jp/matsukuro/20091030_011904493914868.html 図書館といっても多様である。1冊あればいい、というものではない、しかし、たくさんあればいいのかというと、そうでもない。 大学図書館などでは、学習用の基図書は、複数が必要。アメリカの大学院教育なみに、予習・復習をかならず、というほどでもないにしても、基的文献は、複数冊がそろえておく必要がある。でないと、学生の勉強に困る。 あるいは、公共図書館で、その時のベストセラー作品への需要が急激に増える場合など。対応のために、複数冊、必要ということもあるだろう。(この点については、図書館は、無料貸屋でい

  • 図書館の蔵書廃棄をMLAの視点から見ると: やまもも書斎記

    2009-10-28 當山日出夫 tanemoriさんのコメントについて、少し考えてみる。 は地域にあるべき http://yamamomo.asablo.jp/blog/2009/10/20/4643919 のコメントのなかで言及のポット出版のブログ http://www.pot.co.jp/matsukuro/20091022_012237493914733.html http://www.pot.co.jp/matsukuro/20091025_045159493914775.html http://www.pot.co.jp/matsukuro/20091026_020453493914786.html http://www.pot.co.jp/matsukuro/20091027_123210493914816.html ここをざっと読んでの感想をいえば、MLAの役割が錯綜して

  • 本は地域にあるべき: やまもも書斎記

    2009-10-20 當山日出夫 多摩図書館の件、 ブログ:図書館学徒未満 多摩図書館の件 http://d.hatena.ne.jp/aliliput/20091020 に、ある都議会議員からの回答が掲載になっている。読んでみて……気になるのは次の箇所。 >>>>> 今回多摩に保存してあった約15万冊の行政資料・地域資料(都・区・市町村に関するもの)を都立図書館に集約した結果、約75,000冊がダブっていたため、 <<<<< この「行政資料・地域資料」というのは、具体的にどのようなものなのだろうか。75000もダブるというのは、いったいどのような書籍・資料なのだろうか。 書庫がない……そうかもしれない。しかし、個人で、万の蔵書があるような人間はざらにいる(たぶん、私の蔵書も万にはおよばないかもしれないが、かなりある)。75000といえば、大量のようだが、ちょっとした蔵書家、7~8人分では

  • 「公表したものは共有財産」について (3)校訂権など: やまもも書斎記

    2009-10-16 當山日出夫 「公表したものは共有財産」……この点で、一番、なやむのが、人文学では、古典籍の校訂・翻刻という作業、それから、写真複製などの場合。 日の著作権で、校訂権は認定されていない、という点については、『漢字文献情報処理研究会』で、紹介されている。(のちほど、正式タイトル、巻・号を補足します。) しかし、業界という言葉がわるければ、その専門分野の領域においては、まったく認めない、というわけにはいかない。文校訂は、たかが一字をどう、現代の活字におきかえるか、だけで、その研究者の全存在がかかる、と言っても過言ではない。すべてがすべて、そうである、とはいえないが。 一般の著作者と同じように、50年、というには抵抗を感じるし、また、まったく認めないというのも、無理がある。ここで必要なのは、長尾先生の講演のなかにあった、学問的プライオリティを尊重しようという発想しかないと

  • 「公表したものは共有財産」について (2)『古語雑談』など: やまもも書斎記

    2009-10-15 當山日出夫 今私のてもとにある。 佐竹昭広.『古語雑談』(平凡社ライブラリー).平凡社.2008 http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/frame.cgi?page=query.cgi&series=hl この、オリジナルは、1986年、岩波書(岩波文庫)。そして、最近、『佐竹昭広集』(第2巻、言語の深奥、にも所収、岩波書店、2009)。もとは、東京新聞の連載。 なお、この書名、「こごぞうたん」と読む。「雑談」と書いてあって、「ぞうたん」と読むのは、国文学(とあえて書く)のならわし。主に古語についての、いわば「かるい」随筆集である。しかし、決して内容とレベルは「かるい」ものではない。 この、ことばの随筆集である。とはいえ、希代の碩学、佐竹昭広の著である。たんなる、最近の、テレビゲーム番組のレベルなど、ではない。ひと

    funaki_naoto
    funaki_naoto 2009/10/15
    「書かれない知こそ、本当の知かもしれない」
  • 「公表したものは共有財産」について: やまもも書斎記

    2009-10-11 當山日出夫 先日の、長尾真さんの講演「公表したものは共有財産」、をインターネットで視聴していた。 「科学における情報の上手な権利化と共有化」 http://symposium.lifesciencedb.jp/IPDS/ これについては、すでにコメントなど出ていることと思うので、特に、私が言うほどのこともないと思う。しかし、自分の考え方を整理する意味で、感想をしたためておきたい。 科学(あるいは、科学技術)において、公表したものは共有化すべきである、なにがしか権利が認められるとしても、それは、学問的プライオリティに限定すべきである、極論すれば、長尾さんの発言のなかには、このような趣旨がふくまれている。 あえて、異論を考えてみよう。 学術情報の流通をになってきているのは、大学図書館、公共図書館などの図書館、あるいは、出版社、ということはたしか。このとき、人文学系の学術情