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  • majime - note国立本店:第2回 本のしごと・トーク に参加

    昨日帰ってすぐ寝てしまったので、 昨日の出来事ですが。 第2回 のしごと・トーク/ デザインジャーナリスト山雅也の仕事・中川憲造 ●link に参加。 今回で二回目になる、仕事に関わるあらゆる分野の人を 幅広く呼んでお話を聞きつつ、訪れた人同士も コミュニケーションできる場。会場が小さな屋さんなので、 定員もかなり少ないけれど、それだけ濃密なトークに。 先週の木曜日にTokyo Art Beatのイベント告知を見て、 定員10名だというので大急ぎでメールしたら 意外とすんなり予約できたのはまだあまり認知されてないからかな。 国立には学生の頃ちょくちょくきたことがあったけど、 こんな素敵な場所があったなんて知らなかった。 国立店 ●link (駅の反対側には萩原修さんのご実家の素敵文房具屋さんもあるらしい) つくし文具店 ●link スピーカーの 中川憲造さん ●link 萩原修

  • majime - note「吉本隆明 語る」のメモ

    年末から楽しみにしていた NHKの「吉隆明が語る」を見た。 以下そのメモ。 この番組は、 吉さんが昭和女子大学で行った講演の ドキュメンタリを中心にした番組。 〈講演の流れ〉 終戦当時の吉青年が、 戦中の世界観の崩壊とともに、 世界を知る方法を求めて、 古典経済学に行き着いた。 古典経済学の、アダム・スミスの『国富論』に出てくる 「労働価値説」を、それまで吉さんが 没頭してきた文学と結びつけることができないか、と考え、 それを「芸術言語論」と名付ける。 そこでまず、言語とはなんなのかを考えると、 言語には2つの種類があり、 「指示表出」…… 伝達を目的とするもの 木に例えれば枝葉、果実 「自己表出」…… 独り言に近い、内的なもの、沈黙 木に例えれば幹、根っこ として考えると芸術と言語について 考えやすくなる。 次に表現とは何かを考えたときに、 自然と人間との交通路と考える。 人が何

  • majime - noteしっくりくるを形にする

    しばらく書いてなかったので 久しぶりに思いつくままに書いてみます。 「美しく、しっくりくるのデザインとは?」 チヒョルトの見いだした紙面設計の基的プロポーションの法則は、 確かに美しくて合理的であり、かなりの説得力を持って僕に迫ってくる。 しかし、チヒョルトが理想とし、 分析していた時代の書物とその周辺の環境は、 現代とはまるで違うことを考慮すると、 必ずしもこのプロポーションが現代に通じるものであるかは、 正直疑問が残ると言わざるを得ない。 読書の姿勢だけをとっても、 現代人の読書スタイルは、当時とは比べ物にならないくらい多様化している。 良いか悪いかは別として、書物はもはやかならずしも 書見台の上でなされるものではなく、ベッドの上から電車の中、 公園のベンチ、様々なシーンに合わせて版型も様々である。 サイズやシーンによって、それぞれのマージンの意味合いも変わってくる。 単なる美的要

  • majime - note生活を活かすための茶道

    僕は「茶道」というものをやったことが一度もない。 だから、茶道とは、なんてことを語る資格は何もない。 それでも、柳宋悦のを読んでいると、 心に響いてくる箇所が多くて驚いてしまう。 からだけの知識でものを語るのはどうかと思うが、 今『茶と美』を読みながら感じることは、 茶道もまた生活を編集する一つの方法だということ。 茶道自体は、その様式の成立以前に、 まず「見る」ことから始まった、と宋悦は書いている。 例えば目の前にある茶碗なら茶碗を、 何の色眼鏡を通して見ることなく「見る」ことを通して、 茶碗それ自体の質を見極め、それを踏まえた上で 用いることで、日々の生活をより豊かに生きる、 それがだんだんと手法として確立されていったのが いわゆる茶道であるという話。 例えばある絵画の美しさを論じるときに、 その絵画がいつ、誰が、どんな所で、何を用いて その絵を描いたのかが重要なのではなく、 それ

    funaki_naoto
    funaki_naoto 2008/04/05
    「まず「見る」こと」
  • majime - notelimArtにいってきた

    日曜日、恵比寿の古屋limArtにいってきた。 http://www.limart.net/index.html?param1=1 初めてで地図も持ってこずに行ったので散々歩き、 やっと着いたのはギャラリーの方。 (limArt Annexっていうギャラリーも近くに開いてる) そこでドビュッシーのアナログテープを 平面に綺麗に貼付けた作品群を制作する作家の個展を 見て、感想を話しながらまたうろちょろ。 ギャラリーのお兄さんの説明が微妙に間違っていて、 結局またぐるぐる10分くらい歩いてやっと お目当ての古屋に。 お店全体は『使い込んだ』いい感じのインテリアで、 僕から見ればもの凄く貴重な海外の デザイン書やら写真集やら作品集がどんと 棚に並んでいる。 チヒョルトの 『SCHATZKAMMER DER SCHREIBKUNST』(1945) がポンとおいてあったのには当に驚いた。 や

  • majime - note「日常」という言葉について考えたこと

    この間の 『オトル・アイヒャー タイポグラファと「ホモ ポリティクス」』 (前回記事 >>> 『小さな勉強会』にいってきて考えたこと) の講演のメモをまとめていて思ったことがあったので書いておく。 アートの作品を評する言葉によく使われるのが、 「非日常」「非現実」などの言葉だが、 そもそも「日常に非ず」とは、一体何を基準にした物言いなんだろうか。 実際僕らは生活の中で、ここからこっちは日常で、 ここからあっちは非・日常という線引きをどうしているのか。 アート作品を見るには、現状、 美術館やギャラリーにわざわざ足を運ぶしかない。 買い物がてら、ちらっとギャラリーにいこうかな、 なんて生活を送っている人は、 都心部では実際ほとんどいないのではないか。 だから作品に触れるその前に、 展示の告知を見て、関心を持って、 「あ、そうそう、横山大観見たかったんだよね~」 で、始めて美術館に足を運ぶ、とい

  • majime - note仕事のこと

    こちらの都合のいい理屈だけを対象から取り出すのではなく、 対象のありのままの姿を素直に受け止める。 最近はそんな心境で仕事をする。 どんなに考えて出した答えでも、 自分のやりたいことの理由を 対象から無理矢理ひねり出していたのでは、 結局満足してもらえるものが出来ない。 僕は今まで、 クライアントに満足してもらうことは 二の次だと思っていたふしがある。 大切なのはクライアントと消費者の間を 「自分の」正しいと思う方法で繋ぐことであり、 クライアントの満足度はそこには関係ないと。 でも考えてみれば、 雑誌を企画したのは編集者であり、 名刺を使うのは当の人であり、 ポスターが必要なのは企業である。 デザイナーが偉そうにする理屈はない。 身の程を知りつつ、 自分のできることを最大限やること。 そんなことを思うのでした。

  • majime - note仕事と生業について

    仕事と生業の違いってのは大きな違いです。 そえが仕事になるのか、生業になるのかは、 ひとえに人の気持ちの持ちよう次第。 学生のころも、最初はとりあえずお金ほしくて バイトはじめるけど、そうして始めると やっぱり仕事は続かないもので。 野球が嫌いなのに西武ドームでバイトしたり、 毎日なにやるかわからん派遣はやっぱり続かず、 逆にラーメン好きだからラーメン屋、 が好きだから屋、って始めると、 嫌でもめんどうでもやっぱり真剣に働けたり。 働くってなんでしょうねぇ。 そうかと思うと、とにかくってくために 割烹で働き始めて、最終的に自分の店を 銀座で持って、ミシュランの3つ星に輝く 名店の店主がいたり。 才能ってのは「没頭」できること、なのかと思う。 きっかけはどうであれ、それに没頭できるのであれば、 それは才能があるんだと思っていいと。 花咲くのに何年かかるのかはわからないけれど。 先も見

  • majime - note多様性・デザイナー・校章

    今日は話題が三つ。 他人のフリ見て我がフリ直してばかりいると、 結局どこからもはみ出せない、つまらないものになってしまう。 今、「グローバル」と同様かそれ以上に地位が上がりつつある キーワード「多様性」。僕が去年から今年にかけて 読んできたのいくつかが、この言葉を通して繋がっている。 国際文化教育交流財団の、 3回に渡るレクチャーをまとめたで、 人類学はドがつくほど素人の僕でも読める、 わかりやすい内容。 私見だけど、そもそも人類学自体が、 人間の文化や社会に関すること、 すなわち僕たち人間の生きている フィールドそのものを対象にしているのだから、 わかりにくいわけがないと思う。 読み進めるたびに発見の連続で、 読み終わってしまうのが惜しいくらいだ。 (今第三講を読んでいるところ) 今地球で起こっている様々な問題を、 表面的ではなく、根原理から考えていくために、 この分野をはずすこと

  • majime - notesketchbook #004

    新宿駅 山手線池袋方面乗り場地面にて 乗り場のドアにそれぞれ番号がついていて、 工事中なのでたぶん工事現場の人が手作業で、 すごく無造作に描いた、というか貼られた文字。 きっと工事が完了すればきっと きれいな印刷の文字になってしまうだろう。 ものすごい人間臭い文字で、不完全だけど、 読めるとか読めないことを超えて、 言葉にできない魅力をこの文字に感じてしまった。 このホームは全部の文字(中央線側も!)がこの調子で、 いつかなくならないうちに きちんと写真に収めにいこうと思っている。 チヒョルトやアイヒャーの、 人類の叡智をさらに昇華していく試みがある一方で、 こうして誰の目を気にするでもなく、 偶然と無意識と不自由の生んだすごいものが、 世の中にはごろごろ転がっている。 それはもう大自然を目の前に人間が抱く、 畏れに近い感情を伴っていて、 人間のことは我関せずといった風情で、 頭上から見下

  • majime - notesketchbook #005

    日暮里駅改札入って目の前 前回のコメントにもあったのだけど、 実際に自分も見て気になっていたので、 載せておこうと思う。 この文字、僕は正直言って読みやすい文字ではないと思う。 ただ、前回のsketchbookにも書いた通り、 読みやすいことがそのまま文字の魅力には繋がらない。 それがデザインする者にとってすごく難しい問題だと思う。 この文字(修悦体って呼ぶらしいね)は、 かたくななまでに垂直水平を守って、 画線の結節点を円を基調に描く。 (例外が沢山あるみたいだけど) 考えてみると、Adobe Illustratorを使い始めた最初の頃、 自分のオリジナルの文字を作る時は、 大抵このルールに則ってまず作り始めていた。 全体の形が整いやすく、作りやすいからだ。 だからこの文字は、ソフトで簡単に再現できる文字でもある。 これを実際にやってみるとわかるのは、 幾何学的にいくら正確に文字を作って

  • majime - note制作の覚え書き:流れるような本のあり方

    今、妹の成人祝いにあげるをつくろうとしている。 もともと母親に、 「あんたとか作れるんだったら振り袖の写真撮ってアルバム作ってよ」 の軽いノリの話にひっかかってつい 「あ、いいよ」 なんて言ったもんだから、 今こうして悩んでいる。 結局の構造自体に興味があるから、そこに考えがとんでいってしまって、なか なか手を動かせずにジタバタしている。一般的に書店などで流通しているは、 プロダクト、製品として成立しているもので、そういったもののほとんどは、モ ニュメンタルな、記念的な要素をどこかしらに含んでいるものだ。それこそ何か の記念に作られるものだったり、小説、評論、エッセイ、絵などなど、「それ まで持続的に続けられてきた制作や創作の集大成的何か」の要素を含まざるを得 ず、特に作品集や写真集はその意味合いがさらに強くなる。 僕が今から作ろうとしているもまさにそういった記念的な意味合いの

    funaki_naoto
    funaki_naoto 2008/02/26
    「記念の域を超えて、その本それ自体と読者、鑑賞者を繋ぐにはどうすればいいだろうか/アプローチの仕方の一つとして造本のことを考える」
  • majime - noteTAKEO PAPER SHOW 2007、シンポジウムに参加

    昨日TAKEO PAPER SHOW 2007にいってきた。シンポジウムに当たっていたの で、先にシンポジウムに参加。後藤繁雄さんと松田哲夫さんのトークで、テーマ は「紙のコミュニケーションの可能性」だったが、紙に限らず両氏の活動やづ くりに対する考え方、編集とデザインと印刷、というメディアのこれからなど など、いろんな方向に枝葉が広がるいい感じのトークだった。 ウェブによってはなくなるなんて思っている人間はもういなくなった中で、、 紙メディアのあり方が再定義されてきている。後藤さんは「現物の説得力」とい う言葉を使っていたが、頭の中やコンピューターの中のデータが、実際に物、現 物としてそこに在るということの説得力は、ウェブにはない強みだ。CD-ROM化 された辞書を眺めてもそこに情報の厚みを量として感じることはないが、にな ると途端に情報は「存在感」を得る。ミヒャエル・エンデの

  • majime - note本は終わらない

    や雑誌は、あるページネーションの中で展開されるページの連なり、シーケン スであるのに対して、ウェブはある程度の文脈をもちつつ、その文脈を飛び越え たり、見る側の編集によって初めて成立するような断片的なページが、フワフワ している空間だ。ある人はきちんと入り口から入ってのぞいてみたり、ある人は いきなり読みたいところにジャンプしてきたりするのがウェブで、ページを繰る のが読者であるにしても、ある一定の方向に向かって(特殊な例があるにしても)、 始まりからはじまって終わる、それが冊子の特徴だ。 また、ウェブは日々更新され、変化していくのが常であるが、冊子は、印刷され たその瞬間、紙の上に情報が定着される。情報それ自体は変化しないものだから、 常識からすれば、デジタルデータ化(情報化)すればそれは永久に保存されると 思えるのだけれど、実際に僕らがそれぞれのメディアに接している感覚としては、 ウ

    funaki_naoto
    funaki_naoto 2008/02/26
    「必ず本とウェブは共生できる」
  • majime - note本】idea (アイデア) 2007年 03月号「チヒョルトの仕事」

    健康って、普段当たり前に享受してるけど、 いざ病気になるとものすごく大事なんだと身にしみる。 今朝方、インフルエンザが発覚して自宅待機。 しょうがないのでたまっていたを読んだり、映画みたり、 ったり飲んだり。 アイデア No.312「チヒョルトの仕事」を とりあえず半分くらい読み進んだので、 それについて。 去年の卒業制作では、チヒョルトの著作「タイポグラフィ形成」(Typogra-phische Gestaltung)を彼の伝統とモダニズムに関する考えの結節点としてとら えて、その内容の翻訳、デザイン、ソースの展開によってその意義を考えるとい うアプローチだったのだが、こうして全体を一貫して俯瞰して、まだ読んだこと のない論文や作品を見ても、あの著作が一つのターニングポイントであったとい う考えは変わらないと思った。初期のポスター作品や書籍デザインも、彼の考え を知る上では非常に重要

  • majime - note現象としての文字、或は言葉

    人が言葉を発するということ、それは、自分の意志を客観的に理解できる形にす る、ということだ。そうすることによってまた、自分で自分の考えている事を再 度理解する、ということもある。(丁度このようなブログや日記のように。) さらにそれを、文字という形に残すことによって、発話され、次の瞬間消え行く 運命にあった言葉を定着させ、何度でも反芻できるようにした。繰り返し意志が 反芻される事によってその思考は飛躍的に深まり、複雑化してゆく。そこでは常 に、意志が言葉、或は文字という形で「現象」となって現れている。人々はその 現象を理解し、または誤解することによって、コミュニケーションが生まれる。 ただし、言葉という現象と、文字、という現象は、はっきりと区別されなければ ならない。言葉とは、表現されるもととなるものであり、それは時に声となった り、文字となったり、思考するための骨格となるものであったりする

  • majime - noteなぜ本か

    最近自分の職業を説明する機会がよくあったりして、 その説明にややてこずる。 「雑誌作ってます」だと、大体編集者を思い浮かべる。 「雑誌のデザインしてる」というと、 雑誌がデザインされてるってことにまず「?」になる。 さらに「文字に(タイポグラフィに)興味がある」とかいうと、 「???」となる。 実際自分の関わってる世界の狭さというか、逆に世の中の圧倒的な広さと多様さ に、戸惑ってしまう。そんなこともあって、自分が興味をもってること、これか らしたいこと、その辺について改めて深く考えるようにしている。 例えば。 自分はなぜ「」をデザインしようとしているのか。 又はしたかったのか。(別に今もしたいけど) というものはどういうものか。 を作るって行為が、実際どういうことなのか。 は、紙という物質とインクという物質の様相からなる束である。(要は印刷物 の束である、という点で、紙でないもの

  • majime - note編集とデザイン

    編集するということとそれをデザインするということは、 全て一続きであって別々のことじゃない。 デザイナーも結局ある時点では「編集すること」を迫られるわけだし、 逆に編集者にだってある程度の「ヴィジョン」は存在する。 その境界の曖昧なものを、仕事の流れや効率のために、 またはそれぞれがある領分までの仕事に専念するために、 「デザイナー」と「編集者」という区切りは存在する。 それをなくせばいいという話ではなくて、ではお互い理想的なものづくりの仕方 とは一体なんだろうと、いつも頭を抱え込んでしまう。実際今のところ、「これ は理想的だ」という関係を仕事上で目にしたことはないし、かといって世の中に は沢山の良いものがあって、じゃぁそれらは一体いかにしてできたんだろうかと 想像してみるのだ。案外編集者のわがままにつき合わされていたり、その逆もあ るわけで、ただ思うにお互い同じものを「一緒になって」作る

  • majime - note限定とユニバーサル、出版とアート

    僕は現在、雑誌のデザインを 仕事にしているわけだけど、 自分がペーペーのペーペーであるうちに、 言いたいことも言っておこうと思うので、 勝手なことを今から書きます。 雑誌を作る上で今一番重要とされているのは、誰が、何を誰に、どのように、伝 えるか、これをはっきりさせること。極端に言えば、「限定」していくこと、狙 いを定めることによって、確実に情報を読ませたい人間にヒットさせる。これが 全体の流れとしてある。書店に行けばあらゆるジャンルの情報が雑誌になってい て、その中でもさらに細分化が進んでいる。特に顕著なのはファッション誌だが、 何も関心のない人間からは何が違うのやらさっぱりだが、読んでいる人達にとっ ては自分の情報の窓口として、その微妙な違いを読み取って雑誌を選んでいる。 情報が溢れかえっている中で、いかに必要な(と思われる)情報を切り取り、盛 り付けていくかが、今の雑誌に求められて

  • majime - note服部マウラー

    東洋美術学校の文字講座にはじめて行く。その日の講演は服部一成氏。「自分は オチのあるデザインが苦手だ。」って言葉が印象的。文学的な人で、講演中「抽 象的な話なんだけども」と何度も口にしていた。理論立てて緻密に組み立てるタ イプじゃなくて、常に自分の感覚を研ぎすませて反応したものを確実に捕まえて デザインしてくるような、そんな人だと思った。なかなかできるもんじゃない。 その魅力を作った人も説明できないような、でもなんか気になる、そういう感 覚を大事にできるってのは、デザイナーとして大事な資質だと思う。 続けてインゴ・マウラー展。ここで見たのは逆に「オチのあるデザイン」がされ た照明たち。翼の生えた電球。電球の中の電球。割れた皿で構成された照明。星 屑のようなLED。その素直さに、潔さにまた素直に感動。ありがちと思われるよ うなことをきちんとアイデアとして完成度の高いものにしてしまうってのは