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ブックマーク / blog.livedoor.jp/bach1050alain_ (27)

  • 名曲名演随筆 : 土用の丑の日にうなぎを食べるのはなぜか? 〜陰陽五行と民俗〜

    2011年07月19日21:45 カテゴリ民俗学番外編 土用の丑の日にうなぎをべるのはなぜか? 〜陰陽五行と民俗〜 七月の土用が近づき、巷間で「うなぎ」の値段が話題になる時期になってきた。今年はうなぎが不足で値段が上がり気味だという。たしかに、体力が落ちる時期に滋養の面ですぐれたうなぎをべることは理に適っている。 うなぎという魚がすぐれているのは、ビタミンAやBのたぐいを多く含むということである。しかも、ビタミンAは脂溶性なので、脂の多いうなぎはその吸収率においても大変効果的なのだそうだ。もっとも、勘違いをしている人が多いが、当のうなぎは夏が旬ではない。身に脂が一番のるのは秋から冬にかけてである。 ところで、毎年話題にのぼるせいで「土用」というと夏にだけあるものと思いこみがちだが、実は陰陽五行の思想では年に四回ある。吉野裕子氏の説明を参考にして、その点について少しばかり書いてみたい。

  • 名曲名演随筆 : 追悼 松原右樹先生〜真の民俗学者〜

    2011年05月07日10:10 カテゴリ民俗学折口信夫 追悼 松原右樹先生〜真の民俗学者〜 松原右樹先生は真の民俗学者であった。「真の」というのは最近ありがちな机上の民俗学(私の民俗学に関する知識などもほとんどこれにすぎない)ではなく、フィールドワークを実際に数限りなくされていたということである。 また、半ば戯言として陰陽師だと自らを呼ばれたこともある。半ばと言ったのはあとの半分は戯言ではなく、当に陰陽師的なところがあると周りの人間に感じさせるところがあったからである。その神霊妖怪変化についての博い知識と異界的なものとの交感も可能かと思わせる鋭敏で繊細な感性が先生にはあった。携帯電話のメールアドレスにはローマ字で陰陽師と記されていた。 だが、今はそういう点ではなくて、すぐれた民俗学者としての松原右樹先生について、おつきあいさせていただいて、いろいろと教えていただいた、その感謝するところ

  • 名曲名演随筆 : アランのプラトンあるいは森有正のドストエフスキーと人間倫理の問題

    2010年12月25日17:21 カテゴリアラン森有正 アランのプラトンあるいは森有正のドストエフスキーと人間倫理の問題 アランのプラトン論のユニークなところの一つは、その倫理道徳をめぐる考察にある。通常の意味での道徳、単にルールを守るというレベルの道徳は真のそれとは認められない。「善」や「徳」の質をしっかりと理解したうえで、全人格的に倫理的に生きてゆく姿勢が求められるのである。 社会的に犯罪をおかすことなく、ルールをきちんと守っていても、もし心の中で倫理にもとるようなことを願っていたならば、その人は倫理的存在ではない。この厳しい教えはキリストの教えにも通じる。 20代の頃に森有正のドストエフスキー論を読んだ時、私はキリスト教倫理の質を学んだ気がした。良心とは神の声なのである。それは論理からやってくるものではなくて、倫理的な邂逅によってもたらされるものなのである。イリューシャは針を呑ん

    funaki_naoto
    funaki_naoto 2010/12/26
    天道是か非か。
  • 名曲名演随筆 : 岩波文庫のヴァレリー『精神の危機』

    2010年09月09日20:45 カテゴリ哲学小林秀雄 岩波文庫のヴァレリー『精神の危機』 岩波文庫に新しく入ったヴァレリーの『精神の危機』を少しずつ読んでいる。ヴァレリーの邦訳全集は持っているのだけれど(ただし、カイエ編は買わなかった)、いざ読むとなるとどうしても手軽に読めるほうに手が伸びる。 何事であれ、易きに流れやすい精神傾向に批判的な警鐘を鳴らしつづけたヴァレリーであってみれば、そのような読書態度にも読み手の労力を惜しむ気持ち、物事をできるだけ簡易なかたちで片付けてしまおうとする傾向を指摘するかもしれない。安易さを敵だとする精神のあり方こそが、人間の文明文化に豊かな実りをもたらすとヴァレリーは考えるのである。 しかし、どのような行動であれ、忙しい中で持続させるためには、できるだけ手っ取り早いかたちでとりかかることができるようにしておくことが大切だろう。読書でもそうであって、時間的に

  • 名曲名演随筆 : 『大魔神の精神史』を読んで

    2010年08月26日22:09 カテゴリ番外編 『大魔神の精神史』を読んで 幼い頃に、強い感銘を受けたことの影響は生涯つづくものだろう。トラウマというと悪いイメージの言葉だが、いい意味で精神に刻まれた印象があり、それがたとえ目には見えないかたちであるにしろ、その人の人生の歩みに影響を与えるということがあるはずなのだ。それがたとえ、文化的には子どもを対象としたレベルのものであったとしてもである。 講談社現代新書の『モスラの精神史』を書いた小野俊太郎という人が今度は『大魔神の精神史』(文春新書)というを書いた。早速に購って一読した。さまざまな感想が思い浮かぶが、とにかく自分が子どもの頃に大好きだった映画について、あれこれと知識をえたり、筆者の推測するところについて考えたりすること自体が楽しい。 小野氏もこのの中で柳田國男をはじめとする「民俗学」的知見が「大魔神」シリーズに与えた影響をとり

  • 名曲名演随筆 : 論理よりも好き嫌い

    2010年01月28日22:36 カテゴリ近代文学 論理よりも好き嫌い 「人は好き嫌いで働くものだ。論法で働くものじゃない。」(夏目漱石『坊っちゃん』) お説教というものが効果をあげないのは当然である。こうするのが正しいのだと言われて、ああそうですかとあっさり心から納得する人間など滅多にあるものではない。だが、論理で他人を動かせると思って、屁理屈をこねる輩が多いのはどういうわけか。 知り合いがあんまり論理論理と言うから、それじゃ惚れた女にどうして自分のことを好きにならなければならないかを論理的に説いて口説いてみろと言ったら、それは無理だと言った。金で動く異性はいるかもしれないが、論理で惚れる異性はいない。実生活においては論理など所詮そのくらいなものだ。 ところが、教育の世界では、道徳を論理的に説かなければならないことになっている。でも、よく聞いてみるといつのまにか、教師の話も損得の話になっ

  • 名曲名演随筆 : 音色についての雑感

    2009年06月01日21:48 カテゴリ 音色についての雑感 人間の声というものは不思議だ。都はるみの声と森昌子の声はとてもよく似ているという人もいる。たしかに、語りやささやき調の部分では似ているかもしれない。だが、森昌子の声で明るく元気な曲調のものを唄えるかというとそうないかない。対して、都はるみの声はそれが可能なのだ。むしろ、都はるみのような声が演歌では貴重で珍しいと言えるだろう。 楽器でもそうで、その音色に向いた音楽とそうでない音楽がある。もちろん、同じ楽器でもそれぞれ個性がある。リコーダーでピアソラの曲を時折演奏するのだけれど、どうしても明るすぎるのだ。ピアソラ独特の大人の情念の世界を表出するのが難しい。その同じ楽器がたとえばテレマンのソナタなどを吹くと、見事に曲にマッチする。現代の我々の耳は音楽にかぎっても鈍感にならざるをえない状況にある。音楽に内容よりも刺激を求める人も多い。

  • 名曲名演随筆 : 所蔵するスピノザの文献

    2009年05月24日18:21 カテゴリ哲学 所蔵するスピノザの文献 所蔵するスピノザ関連の和文献をあげておく。門外漢だがスピノザは好きなので、それなりに集めるようにしているつもりである。 A単行 ・ 「人類の知的遺産35 スピノザ」     工藤喜作 講談社 B文庫 ・ 「神・人間及び人間の幸福に関する短論文」 畠中尚志訳 岩波文庫 ・ 「デカルトの哲学原理-附形而上学的思想」  畠中尚志訳 岩波文庫 ・ 「神学・政治論(全二冊)」        畠中尚志訳 岩波文庫 ・ 「エチカ-倫理学(全二冊)」        畠中尚志訳 岩波文庫 ・ 「知性改善論」              畠中尚志訳 岩波文庫 ・ 「国家論」                畠中尚志訳 岩波文庫 ・ 「スピノザ往復書簡集」          畠中尚志訳 岩波文庫 C単行参考文献 ・ 「スピノザに倣いて」 

  • 名曲名演随筆 : 小林秀雄の批評観

    2009年04月17日22:39 カテゴリ小林秀雄 小林秀雄の批評観 「批評の方法が如何に精密に点検されようが、その批評が人を動かすか動かさないかという問題とは何んの関係もないという事である。」(小林秀雄「様々なる意匠」) 書かれたもの、あるいは言われたことが人を実際に動かすことができるかどうか。論理さえ正しければ、それで人が動くと考えるような世間知らずの馬鹿者以外は、我々はその大切さを痛感しながら生きているはずだ。芸術にかぎらない、たとえば教育の世界でもそうで、ご大層で立派なスローガンはいろいろとぶちあげられるが、その中で実効のあるものはほとんどない。もし、論理的に正しい言葉で子どもたちが勉強してくれるなら、親も教師も苦労はしないのである。 では、どうすれば実際に人を感動させ、動かしうるような批評が書けるのか。「常に生き生きとした嗜好を有し、常に溌溂たる尺度を持つという事」(同上)が大切

  • 名曲名演随筆 : 夜に爪を切るべからず?

    2009年03月06日21:57 カテゴリ民俗学 夜に爪を切るべからず? 刃物は聖なるものである。日刀の作り方をみても、これはただの人殺しの道具を作るためのものではない。刀を作るとは神聖なるものの創造である。 刃物は基的に邪悪なるものを払う力を持っている。日にかぎらず、ヨーロッパも聖剣伝説を持っている。しかし、それは同時に現実界と異界の接点にもなりうる。 夜に爪を切ると、その接点が開いて、邪悪なるものが近寄ってきてしまう。夜は魑魅魍魎の跋扈する世界である。そこで異界との接触面が開いたらどうする。 夜に爪を切ってはいけないなどと、今時の母親達は言わないだろうが、そこにも心意現象にのっとった民俗の世界がある。 「民俗学」カテゴリの最新記事

  • 名曲名演随筆 : 小林秀雄の心情(こころもち)のあり方

    2009年03月15日17:15 カテゴリ小林秀雄 小林秀雄の心情(こころもち)のあり方 「人間は心情(こころもち)というものが、いちばんたいせつだ。毎日、どんな考えでいるか、と思わないで、毎日、どんな心情でいるか、と思わねばならぬ。」 これは小林秀雄が妹の高見澤潤子に宛てた手紙の一節である。当時、小林は長谷川泰子との恋愛地獄から逃れて、関西にいて、精神的に疲労の極点にいた。高見澤はのらくろの作者田河水泡との結婚を兄に報告したのである。 学生時代に、この言葉を読んで私はいたく感動したことを覚えている。しっかりと赤で引かれた傍線がその気持ちを語るようだ。小林のこの気持ちのあり方を大切にする姿勢は『居宣長』までまっすぐにつながっている。自意識による観念の煉獄を経験し、泰子との男女の地獄を経験した小林の肺腑の言に近い。 小林はものとふれあう時にも、頭ではなく心でまず対さねばならないと言う。対象

  • 名曲名演随筆 : 好悪と論理

    2009年03月01日18:13 カテゴリ小林秀雄 好悪と論理 「人間は好き嫌いで働くものだ。論法で働くものではない。」(夏目漱石『坊っちゃん』より) 実際問題、論理的な説得で他人を動かすのは至難のわざである。論理的に勝ったほうの言うことを常にきかねばならないというルールもないし、また世の中の現実に適うだけの柔軟性をその論理がもっているかというと、おぼつかない。相手を納得させるのは論理だけでは難しいのである。だから、ソクラテスは相手の怒りを買って、死ななければならなかった。ただし、ここで言う論理とは形式論理のことだ。ヘーゲルの言うような「論理」ではない。 好悪の感情こそが、人間を行動に導く根源の一つである。だが、これが正義に適い、公共性を帯び、自他の幸福に結びつくかというと、これもおぼつかない。どうしても、理性的な判断は必要なのだ。 小林秀雄が言ったように、好き嫌いで物事を判断するのが容易

    funaki_naoto
    funaki_naoto 2009/03/03
    「好き嫌いで物事を判断するのが容易だというならば、形式的な論理に則って物事を判断するのも容易なのである」
  • 名曲名演随筆 : 森有正

    2015年05月06日18:37 カテゴリ小林秀雄森有正 学ぶことと生きること 今日読んだの一節に何かを学ぶことと何かを生きることとは違うとあった。概念的知識の獲得と実在の経験とはたしかに異なる。 しかし、学ぶことと生きることとが不二であるような経験がある。小林秀雄はそれを「思い知る」という言葉で語った。 学と生の統一という点ではすでに孔子が実践していたことでもある。 概念的な知識を溜め込み、それで世間をわたっていけるという甘い考えを誰よりも否定したのはデカルトである。そのデカルトの哲学が身心を二元的に分離し、近代的な合理万能主義を生み出した元凶とされている。 愛読書である森有正のすばらしい新書の題名は『生きることと考えること』である。両者をいかに統一し、不二のものとして己の経験を積み重ねていけるか。それは万人の課題である。 タグ :#小林秀雄#デカルト#森有正 bach1050alai

  • 名曲名演随筆 : アラン

    2018年05月06日22:24 カテゴリ番外編アラン 小さな死の繰り返し 久しぶりに書く。 連休が終わる。明日から仕事で、そのことを思うと気が重いという人は多いだろう。他人事のように書いているが、私も悟達した人間でもないので、やはり外で降る雨が明日も続くということもあいまって、なかなか憂な気分である。 気分というものに支配されてはいけない、というのがアランの教えの要の一つだと思うが、それに支配さないでおこうと思えば、まずそれを直視しなければならない、ということはあるだろう。アランの幸福の教えはけっして「いつもいつも元気で明るく」主義ではない。自分は精神的に動揺しないし、不安や恐れも抱かないのだ、というのは威勢はよいが、所詮は強がりの域を出ないと思う。人にはそれぞれ器量というものがあり、それは努力次第では大きくしてゆけるのだろうが、現時点での自分の器量はどうしようもない。強がっている時点

  • 名曲名演随筆 : 小林秀雄『本居宣長』の価値

    2008年09月11日21:10 カテゴリ小林秀雄 小林秀雄『居宣長』の価値 戦後に日人が著した書物の五指に小林秀雄の『居宣長』は間違いなく入る。論理的展開の妙や対象分析の鮮明さでこのを凌ぐものは数多いかもしれない。だが、書物が人間存在に持つ意味合いとは何か、そういう観点から見た場合、『宣長』を超える書物はそう多くないと思われる。小林の批評はこの書物で倫理と正面から出会った。文学とは何か、美とは何か、言葉とは何か、という問いがいかに生きるべきかという問いと結びついたのである。 「彼等(=近世学問の雄たち)の遺した仕事は、新しく、独自なものであったが、斬新や独創に狙いを附ける必要などは、彼等は少しも感じていなかった。自己を過去に没入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となっていたのだが、そういう事が、いかにも自然に、邪念を交えず行われた事を、私は想わずにはいられない。」 (

  • 名曲名演随筆 : 勢語臆断と宣長の感想

    2008年09月10日21:22 カテゴリ古典 勢語臆断と宣長の感想 『勢語臆断』の続きを訳す。 「誰も誰も、死ぬときにあたって、思うであろうことだ。これは誠実さがあって、人の教えにも良い歌である。後々の人は、死のうとするときにいたって、仰々しい歌を詠み、あるいは、道を悟った旨などを詠んでいるが、誠実ではなくて、とても嫌だ。平常時には狂言綺語もまじるかもしれない。せめて今にも死のうとするときでだけでも、心の真実にかえれ、と言いたい。業平は、一生のまことがこの歌に表現され、後世の人は一生の虚偽を表しているのである。」 宣長は『玉勝間』で感想を述べている。 「法師の言葉とも思えず、とてもとても尊い。大和魂がある人は、法師でありながら、このようであったのだ。」 およそ人間が生きてゆくうえで、自分に素直になるというのはとても大切なことだ。しかし、それはとても難しいことでもある。さまざまな固定観念が

  • 名曲名演随筆 : 好信楽

    2008年09月01日21:54 カテゴリ哲学アラン 好信楽 他人に道徳を説くのは至難のわざである。そもそも道徳なるものの正体がはっきりしない。少し考えてみれば、それは言葉として他人に伝達できるものではないことがわかる。禁止や命令のかたちで与えられるものが道徳であるならば、問題は簡単だろう。だが、そうではないことは誰もがうすうす感じていることだ。そのあげく、言葉のかたちで横行する道徳は概して軽く見られてしまう。 居宣長はものごとを学ぶにあたって、「好信楽」が肝心だと言った。これを好み、これを信じ、これを楽しむ、学問の要諦はまずここから始まる必要がある。よく考えてみれば、人間が当に成長を遂げるのは、楽しい経験をしているときではなかろうか。古い表現だが、人間を陶冶するのは豊かな情操を培うことを嚆矢とすべきだろう。よい品性の人格を養うことが最高の道徳につながることは言うまでもない。 道徳のな

  • 名曲名演随筆 : 生きる経験に呼応する言葉

    2008年07月17日22:16 カテゴリ哲学小林秀雄 生きる経験に呼応する言葉 人生経験を積まなければわからないことがある。たとえば、言葉は古いが「天命を知る」ということがどういうことかは、実際に人生を長年生きてみないと理解できないだろう。そういう切実な、生きる意味合いに満ちた経験の知恵は「思って得る」ことしかできまい。知識はいくらでも「学んで知る」ことが可能だ。だが、自分がこの世に生を受けてなぜ今のような生き方をしているのか、その意味合いは何なのか、ということは、理屈では明らかにならないのである。 小林秀雄の近世学問の雄たちを扱った一連文章は、言わば「理」の追究にかまける朱子学の腐敗から脱して、人生の意味合いを孔子という具体的な人格のなかに発見した古学のありようがテーマになっている。これらは類例を求めがたい奇跡的な文章だと思う。なぜか。江戸時代の儒学者の思想をこれほどおもしろいと思わせ

  • 名曲名演随筆 : 小林秀雄と福沢諭吉2

    2008年03月02日17:39 カテゴリ福沢諭吉小林秀雄 小林秀雄と福沢諭吉2 山七平は『小林秀雄の流儀』のなかで次のように述べている。 「小林秀雄は徹底した一身一頭人間だ。」 言うまでもなく、小林の福沢論を敷衍して、小林自身に当てはめて言及したものである。山は小林が生活の達人であったことを言うのだが、その要諦は常識を磨きに磨いたところにあると見ている。常識とは健全な判断力だが、それは一身一頭人間にしてはじめて身につけることができるものなのである。正しく思索し、正しくものを見るためには、一身一頭で二生を送ることだ。だが、人はえてして自分が一身であることを忘れる。表面的な自己批判や自己清算が行われる。そして、自己批判するたびに人格は分裂してゆくだろう。両頭状態になるのだろう。 「まさか一身を両分するわけにはいくまいが、人格は、精神さへ空白になれば、幾つにでもたやすく分裂するだらう。」(

  • 名曲名演随筆 : 池田晶子のベルクソン評と小林秀雄

    2007年09月10日18:37 カテゴリ小林秀雄池田晶子 池田晶子のベルクソン評と小林秀雄 小林秀雄を深く敬愛していた池田晶子は、しかし、小林が親炙したベルクソンには辛い評言を呈している。 「ベルクソンという人は、なぜかくも大らかにいられるのかしらと疎ましく感じることがある、殊にこちらが世も末の状態のなかで悶絶しかかっているようなときには。」(池田晶子『考える人』) 池田にとってはベルクソンの思想には考えることに伴う「狂」が欠けているのだろう。だから、哲学ではなく「生命の叙事詩」だとうつるのだ。私には池田のその「狂」がときには「凶」に変じたのではないかと、その著作を読んで感じられることがあった。たしかに、小林秀雄の若年期の文章には己の自意識のすさまじさに苦悩する青春の噴出とそれに伴う「狂」があった。だが、その一方、志賀直哉論にうかがわれるような清澄でかつ和やかな精神への希求も激しかった