神。魂(の永続性)。 この二つの概念を扱う分野を、私は宗教と呼ぶ。哲学ではない。自称「哲学」がこれらの概念を取り扱っていた時代は確かにあった。ヨーロッパ中世の神学である(いわゆる「神学の婢女としての哲学」)。カント以降、この傾向は――私が知り得る限り――極端に減少する。 現在、この二つの概念を真剣に取り上げる哲学(研究)者は少ない。 私自身、この二つの概念には関わらないであろう――存在論的観点では――。しかし、意味論的観点では扱う価値が大いにある。 すなわち、これらの概念がどのように人々の間で機能していたのかという考察。これはニーチェの系譜学的考察およびフーコーの考古学的考察とも深い親縁性がある。
傷を癒す医師とは、自分自身、傷を負っている者である。それはギリシア神話の登場人物、ケイロンに象徴化されている。 ――― 『これがニーチェだ』(永井均著)から、ケイロンのモチーフと関連する文章を引用。哲学をよく知らない人は、しばしば哲学者の仕事を、時代の病の的確な診断とそのすぐれた治療プランのように理解し、哲学者をそれを編み出した医師のように捉える。そうではない。逆なのだ。彼らはみな、他に例のないほどの重病人であり、それゆえに自分の病と格闘せざるを得なかったにすぎない。歴史に残るような思想は、多分どれも他になすすべがなかった人によって、苦し紛れに、どうしようもなく作られてしまったものなのである(217ページ)。東京での大学生時代、哲学を専攻している友人がいた。彼の口癖はこうだった、「ぼくは、人々を助けるために哲学を始めた」。私はもともと、引用文に表れているような考えを、たとえ永井氏の明確な定
「言語活動」という表現が意味することは次のこと。すなわち、他者との利害関係を調整するための道具としての言葉による活動のこと。従って、ここでは韻文もしくは散文を用いた文学的言語表現を主とする活動は関っていない。 ドイツ生活では必然的に、「他者との利害関係を調整する道具としての言語活動」に頻繁に携わなければならないし、従って自然とこの種の活動への執着が出てくる。 ドイツ社会は、個と個の対立が日本社会に比較すると先鋭化されているように見える。しかし、これはドイツのほうが実際に日本よりも個々人の間の対立点が多いということを意味するのではない。おそらく日本もドイツと変わらぬくらい、個々人の間の対立は存在するであろう。要は、その対立が目に見える形で顕在化しているか否かという点に還元される。 それではどういう形式で顕在化しているのか?それは言語活動が 1.対立点を明確にし、なお且つ 2.それを解決する手
先日、あるドイツ人女性とお話しをした。彼女はフェミニズム論者である。さて、この会話から一つだけ関心を引いたテーマがあった。それはフェミニズム的観点から見た、ドイツ語改良運動であった。ご存知の通り、ドイツ語の冠詞類には、男性、女性、中性、複数の区別があるが、彼女曰く、「男女の区別なく人間一般を現わすものに、どうしてこうも男性名詞が多いのか、これを改良していかねばならぬ」ということである。 例えばMensch(人間)。これは男性名詞なので、冠詞は男性名詞derを使うことになっている。従って、der Menschとなる。しかし、彼女によれば、人間には女性も含まれているから、従って、中性冠詞で次のようにあらわすのが好ましいということである――das Mensch。 これはかなり無理がある。これは――ドイツ語の破壊である。このような無理をするくらいなら、せめて別の言い方にすればよいのでは。例えば、d
こんなことを言うと辛気くさいく思われるであろう、つまり、今よりも若い頃、私は様々なことで悩みとおしたと。生は多くの謎と問題を投げかけて、私はその前に答えきれぬまま、ただひたすら悩みとおしていたこと、このことを、ふと思い出した。 今思えば、当時は今よりもエネルギーに満ちていたせいかもしれない。なぜなら、 悩むにも体力と知力がいるものである。結局のところ、私が散々悩みとおした挙句気付いたことは次のことであった。つまり、悩みに用いるそのエネルギーを いわば昇華させることが生そのものだということである。 嘆きであれ苦悩であれ、それらの思いに安直に判断を加えることなく、己の課題にひたすら打ち込むこと――あたかも石工が無言に己自身をひたすら、そして無関心に石の中に打ち込むように――。このことが肝要だということがわかった。 ――ここで書き込んだ命題は、哲学的なものではない、単なる俗っぽい「処世訓」の一
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