俺を常用漢字に入れろ!…と俺様が吠えております。ワタクシも賛成です。なにしろ「俺様」ですから。むか〜し、記事にしましたっけ、新明解国語辞典の「俺様」の項。久しぶりにまた引用してみましょう。 おれさま【俺様】(代)〔口頭〕偉大な力を持っているおれ。 う〜ん、いつ味わっても絶品ですなあ。素晴らしすぎます新解さん。で、その偉大な俺様でさえ、自らを「おれ」と仮名書きしなければならないのは、「俺」が常用漢字に入っていないからでしょうか(違うかな?)。まあいずれにせよ、こんな大切な言葉を漢字で書けないなんて、とんでもないことです。なにしろ自分が一番大切に決まってますからね。神より天皇より自分ですよ。 こういうとんでもないことを決めるのが政治の力です。この場合、どういう政治力が働いているかと申しますと、民主主義が行きすぎまして、国民それぞれが「俺様」を主張しすぎますと、これはもう国の政治が立ち行かなくな
歴史的、画期的名著です。本当に面白くて面白くて、二度繰り返して読みました。 西洋音楽一辺倒の日本の音楽研究、音楽教育界に疑問を持ち、世界各国の民族音楽をベースに、日本古来の旋律や音楽的技法、さらにはそれらの影響下にある現代の(当時の)歌謡曲をも研究対象にしてしまった小泉文夫さん。今でこそ、東京芸大に「小泉文夫記念資料室」なんかができていますが、当初周囲の嘲笑や反発はものすごかったようです。それはそうでしょう。たとえばこんなこと言い出したんですから。本書の冒頭にあるインタビューから抜粋します。 (小泉)…音の数で五音、七音というと何となく五の方が数が足りないから未発達で、七の方が数が多いから発達した音楽だと、非常に大勢の日本人が漠然と考えていますけど、これは大間違いなんです。 −すると日本は音楽の先進国ということになりますね。自信が湧いてきました。 (小泉)歴史的にはそうなんです。 −では西
昨日の続きです。「きれいだ」の「だ」や、古語の「あはれなり」の「なり」はいったい何者なんでしょう。 「なり」や「だ」が形容動詞というものの語尾でないとしたら、基本そっくり同じ活用をする断定の助動詞ではないか…いやいや、本当にそうなんでしょうか。 ここでことわっておきますが、現代語の「だ」は「にてある=である」の進化形(ポケモンかい!)…じゃなくて変化形、「です」は「にてさうらふ=でそうろう」の変化形ですので、いずれも「なり(にあり)」から変化したものですから、これからの話は全て古語の「なり」、あといちおう「たり」ですかね、こちらを中心にお話します。 今書きましたように、一般に断定の「なり」と言われるものは「にあり」が縮まったものと解釈されています。実はこの「にあり」の「あり」、これが鍵を握っていると思っているんです。ここが肝心なところです。 私は、「あり」というラ変動詞(私はこれにも異論が
形容動詞ってなんですか?私は国語の先生なんですけど、この形容動詞というやつを教えるのが一番いやです。百歩譲ってもその存在を認めたくありません。だいいちネーミングのセンスが悪い。 この前書いた接続詞「なので」はあり??という記事で、「形容動詞の存在に疑問を持っている」と書きましたところ、説明してほしいとのコメントをいただきましたので、ほんの一端ではありますが愚説を紹介します。まずは、グチから。 今学校で教えられてる、というか、半世紀以上にわたって教えられてきた、いわゆる「学校文法」は、この方の文法です。橋本進吉。このおっさん(失礼)がむか〜し唱えたことが、今まで正しいとされて、無思慮無反省な学校の先生方によって、なかば強制的に教えられ、テストにまで出され…。 なんとなく、このおっさん好きになれないんだよなあ。橋本文法もあんまり好きになれないし、上代特殊仮名遣いも認めたくないし、第一このおっさ
フジファブリックの『Sugar!!』が届きました。CDも充分良かったのですが、なんと言っても、あの「市民会館(地元民はそう呼ぶ)」ライヴのDVDがねえ…。もう、また泣いちゃいましたよ。そして、私自身も何ヶ所か映ってるし、これは家宝ですね。 とにかく、改めて「茜色の夕日」は名曲だと痛感しました。 うむ、山梨県は、「3月9日」と「茜色の夕日」と、あといちおう(?)「島唄」を生んだだけでも、もう充分音楽の歴史に貢献していますよ。世界に誇る、100年後に残る名曲たちですから。クラシックになります。素晴らしい。 ところで、あの志村正彦君の感動的なMCに水を差すようで申し訳ないのですが、日頃気になっていることを書かせていただきます。 いや、私は志村君の日本語のセンスが大好きですからね。今回も「茜色の夕日」のモノ・コト論と同様に、御本人は決して意識していないであろう、しかし、日本語の大切な本質をついた、
『対論 プロレスが輝いていた時代』 ジャイアント馬場・アントニオ猪木 (名古屋タイムズ社)…不謹慎にもマジでこんな本が思い浮かんでしまった。鈴木先生ごめんなさい。そしてお会いしたことありませんが田中先生ごめんなさい。 お分かりになる方はお分かりになると思います、この私の比喩。実に大真面目なんです(ただし一般的ではないかもしれない…パロール世界であります…笑)。いやあ、時代は変わりましたね。というか、あの頃はここでも遠くなってしまいましたね。ここのところそういう記事ばかりで辟易気味の方も多いのでは。蘊恥庵庵主も老けたなと。 でも、しかたありません。事実は事実なんですから。決して過去を美化しているわけでは…いや、してるかな。それにしても、「今」があまりにダメなために、こうして不倶戴天の二人が呉越同舟するというのは、ちょっと嬉しい反面、ちょっと哀しいかも。複雑な心境です。 そうそう、この前書いた
今日は国立の2次試験の日です。教え子たちは我が校の伝統「勉強は楽しく、受験はもっと楽しく」を貫き、ホントにノリノリで試験に臨んでいるようです。すごいやつらだ。あの乗りで結果出すからなあ。 で、担任は何をやっているかというと、いちおう古文のお勉強です(笑)。 昨日予告しました「萌え=をかし」論です。今日は本質的なことを書いちゃいましょう。 「萌え=をかし」は、私のオリジナル説ではありません(たぶん)。私のほかにも、そして、私より先に同様の実感を持たれていた方もいらっしゃるでしょう。しかし、本気度で言いますと、私はかなり高い方だと思います。自分の実感というか予感をなんとなく学問のステージまで持っていきたいのです(気持ちはね)。もちろん「物語論」の一部として、また日本文化史、日本精神史の一部として。 さてさて、「萌え」と等号で結ばれている「をかし」ですけれど、「をかし」の語源にはいくつかの説があ
な、なんと…本日発売の『國文學 2008年11月号』の特集は、「『萌え』の正体」!よくぞやってくれました、學燈社さん。そして、なぜか私に原稿依頼が…。 面白いものですね。ネット社会の一つの可能性を示す事例でしょう。昔だったらいきなり「國文學」から、どこの馬の骨とも分からヤツに原稿依頼なんて来ませんよ。 そういう意味では、たしかにネット社会は庶民の味方ですね。梅田望夫さんが言う通りだ。以前、プロとアマの間に厳然としてあった壁は取り払われつつあります。それがいいことかどうか、文化の醸成の過程として正しいのかどうかは、これはまだ分かりませんけどね。 ま、まずはこの特集の内容をご覧いただきましょう。ちょっと面白そうですよ。 「萌え」の本質とその生成について 斎藤環 「萌え」と「萌えフォビア」 伊藤剛 「萌え」の行く先――文学は敗北したのか 本田透 「キャラ萌え」とは何か 高田明典
「日本語」・「インド=ヨーロッパ語」同一起源説 昨日、秋田弁はフランス語に似ているなどと半分冗談で書きましたが、この本の著者である工藤さんは、秋田県の出身、そしてフランス語・フランス文学の専門家でいらっしゃいます。そして、東京弁が外国語に感じられるとどこかでおっしゃっておりました。 そう言えば、秋田人(いやむしろロシア人か?)であるウチのカミさんも、標準語でしゃべっていると疲れる、あるいは本当に疲れ切ると標準語が話せなくなると言っています。私なんか見事に方言(母語)を持っていない超標準日本語話者なので、その感じがどうしてもわかりません。 さてさて、そんな日本在住秋田人(?)である工藤先生の本、日本語と印欧語の起源を同一とするなどと言いますと、どうしてもその筋の(名前とnameみたいな)トンデモ系を想起してしまいますが、それこそトンデモありません、ほとんど学術論文と言って良い内容の本でした。
昨日の寺山での「虚構」と「現実」についての考察、自分でもよくわからないことになってますね。そう、そんな雰囲気が寺山的で心地よいわけですけど。寺山的というのは、つまり「コト」的なんですね。妄想も形にする(語る)と「コト」になるわけですよ。 昨日の私は兼好だったわけです。ものぐるほし。なんだかわからん外部のモノからの影響で、思わぬコトが脳内にひらめいちゃう。多くのクリエイティブな偉人たちが経験したことでしょう。それを、ちょっとだけ体験した。低レベルだけれども。 で、そんな「ものぐるほしき」体験が、また別の偉人の「御言葉」に結びついた。かの大明神の「言霊」です。 この鈴木孝夫大明神の最新刊については、もちろんいち早くおススメしたかったわけですが、あまりに正しいことをあまりに直截的におっしゃってしまっているので、ちょっとこちらが怖じ気づいてしまっていたのでした。畏れ多いというか…。 昨年初秋、ワタ
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