■ケース3、Simon Ndeulyatele の場合 朝から強い雨。今日はやめておこうかと思っていた昼過ぎに、雨はあがった。 Simonとは、国道沿いの小さな街で待ち合わせをしていた。 生徒の家の経済状況もしくは金銭への寛容度を見るにあたって、事前の連絡や待ち合わせの際に向こうから連絡をくれるか、というのが一つの指標となる。経済的に困窮していたりする場合、携帯電話の電源が入っていなかったり、あるいはワンコールしか残さないという状況が非常に多い。 今回はSimonの方からメールをくれ、その後、待ち合わせ場所に着くまで何度かメールのやり取りをした。 やはりここから2時間ぐらい歩くのかな、と思っていたら、車が通りがかるのを待つのだと言う。果たして1時間後、通りがかった車は偶然にも同僚教員だった。彼らは「お隣さん」同士なのだ。 偶然歩いていたSimonの祖母を含め、何人かと荷台に乗り合わせた。
こうして教師をやってみると、まったく違った角度から、自分の思い出を改めて観直しているように思えることがある。 自分たちは通常、小学校から中学校、高校までを教師とともに過ごす。学校生活の思い出というのは、なんだかんだでやっぱり自分の基礎的なものになっていて、その中でも、教師というのは「学校」において欠かせないピースの1つだ。 生徒として学校に通っていると、「学校」という場は、常に「生徒」という立場からしか見えない。自分が中学生や高校生の頃、友人との会話で教師が話題に上がるのは、必ず「うぜえ」という文脈の中でしかなかった。 生徒にとって「教師」というのは、ある種、記号的な存在だったといえる。 色んな教師がいた。いつも笑っている人、すぐ生徒を殴る人、熱心な人、とても熱心そうに見えない人。笑える授業をする人、黙々と板書だけで終える人。…。 しかし生徒である自分には、彼ら教師がどんな人生を歩み、どん
「アフリカ人」は、どこにいるのだろう? 「アフリカ」って、どこにあるんだっけ。 ということを、以前書いた(アフリカンリズム...&ブルース)。 この国に来て、1年が経った。 すると、こういうところで、こういう家に住み、こういう家族に育てられ、こういうものを食べ、こういう学校で、こういう友人とともに、こういう教師に教えられていけば、まあ、こうなるんだろうな、というのが、うっかり、自分の中で腑に落ちてしまったのだった。 つまり、彼らと自分は、本質的に同じなのだ、と。 これは言葉にしてみれば当たり前のことだけれども、それを身体化するまで、自分は1年近くかかった。「ああ、こんなに同じなのか」と、最近は思う。 むしろ、「日本」という、つい最近できたばかりの“国民国家”という得体の知れない枠組みにすがって、「日本人」という出来合いのアイデンティティをいつの間にか身に纏い、挙げ句に「アフリカ人と比べ〜が
どこからか飛んできた新聞紙が風と砂に叩かれながら道ばたでしなびている。 最初に家庭訪問した生徒であるHelenaは、そうした新聞紙の特に広告面や、古雑誌を拾ってきては読んでいた。(家庭訪問:ケース1、Helena Lungameni Tomas の場合) その紙面に展開されている「情報」というのは、彼女にとって何なのだろう。 ・・・ 最近、東トルキスタンについての本を読んだ。 東トルキスタンというのは、中国の西域、新彊ウイグル自治区を中心とする地域を指す。学生の頃、自分は3週間ほど、この辺りをぶらついたことがある。 本は、東トルキスタンに居住する少数民族(ウイグル人)に対する中国共産党の苛烈な弾圧について、ウイグル人活動家らのインタビューをもとに構成されている。 この本を読んで、中国の裏の顔、共産党の欺瞞について激しい憤りを覚えるのは簡単だ。ウイグル人活動家に対する拷問の烈しさ。これが今ま
art-i-fact アフリカ、教育、コミュニケーション、デザイン。 Art と Fact を結ぶ、“わたし”。 日本を発って、アフリカのさらに辺境に腰を落ち着けてから、すでに半年以上が過ぎた。 日本を発つ際には、「無ければ無いなりに」と思いながらも何かと持ってきてしまうもので、さらに首都でも、色々買い揃えてしまったりするものだ。しかし、生活が軌道に乗ってだいぶ経ってくると、そろそろ、そうした物たちを「実はいらない」と結論づけることができるようになってきた。 で、整理したら、段ボール1つ半のスペースが空いた。 ・・・ 環境問題について、いつも取りあげられるのは「ゴミをどうするか」という視点である。 もう一度使い、量を減らし、資源として再加工する。 しかし、すべてのアウトプットはインプットの成れの果てであるのだから、ゴミを減らす最も決定的かつシンプルな対策というのは、インプットを減らすこと
家の周りには、ヤギと牛とロバが半ば放牧のような形で飼われていて、同時に数頭ほどの犬も見る。 しかし、ここの人たちはゴミを漁って散らかす犬にはだいぶ辛く当たるようで、同居人も犬を見つけると直ちに空き瓶を投げつけて追い払うので、どの犬も、人を見ると速やかに立ち去るようになっている。 とはいえ、ペットという概念も当然あるので、飼われている犬もいれば、何故か職員室にいた子猫を清掃員が持ち帰るなんて場面もある。まあ、待遇はあまり期待できないが。 あるいは、自分の住む地域には、古来より犬も猫も食べると云う部族がいて、同居人も、家畜として飼育した犬を食べる、ということを言う。 ペットとしての犬は可愛がられ、食用として育てられた犬は食べられるのである。 ちなみにペットといえば、家ではネズミを(事実上)飼っていて、ふと、台所に出るとばったりはち合わせすることがある。するとネズミは猛ダッシュで逃げ去ろうとする
将来何になりたいか、という質問において、理工系クラスの生徒でもっとも人気が高かったのは医者や看護士というもので、商業系クラスの生徒では、会計士や銀行員であった。( 信じられる世界 ) 彼らの中から医者になれる人はきっと1人もいないだろうし、会計士になれる人も皆無だろう。 こうした職に就くには長く教育を受ける必要があるし、長く教育を受けるためにはお金が必要で、そして十分にお金があれば、もっといい学校に通っているはずだからだ。 ある時、同僚の一人に子どもの頃の夢を聞くと、「仕事に就くこと」だったと話してくれた。 仕事に就くために高等教育を受けたい、そうして国内外幾つかの大学を受験し、唯一パスしたところが教員養成の学校だった。だから、教師をしている。 教員というのは、比較的現実的でステータスも給料も高い職業の一つだ。他に街を歩いていて自分が目にする職業といえば、衣食住の基本に関わるものばかりで、
art-i-fact アフリカ、教育、コミュニケーション、デザイン。 Art と Fact を結ぶ、“わたし”。 アフリカの人たちは、写真に撮ってもらうことをやたら熱望する。アフリカに限らず、途上国の田舎に住む人は軒並みそうなのかもしれない。 町を歩いてるといつの間にかついてきて、妙な世間話を始めたかと思うと、唐突に「カメラ持ってる?」と聞いてくる。小さなバッグを脇に抱えていると、真っ先に、「それカメラ?」と聞いてくる。 カメラを見ると、「写真撮って」。写真を撮ったら、「プリントして」。この要求は、数日を経てなおも続く。 日本人=カメラなどという前時代的なステレオタイプがこんなアフリカの片田舎にまで浸透しているとは考えにくい、けど、学校の行事など、大勢が集まっているところでカメラを取り出そうものなら、命が危ない。 なので、今のところ学校の中でカメラを構えることはほとんどしていない。 彼ら
アフリカの学校一般では生徒みんなが電卓を使う。というか使うどころの話ではなく、「電卓の使い方」というのは一つの単元として教えられ、試験でも当然電卓使用可である。しかも一般的でシンプルな電卓ではなく関数電卓(大抵CASIOの)だ。 日本ではまず普段の生活で触ることは無い関数電卓だが、彼らは中学校からその使い方を教え込まれる。そんな彼らからすれば円周率が3だろうと3.14だろうと大した問題ではない。 一方で答案の根拠を聞くと、大体みんな揃って「電卓でそういう答えが出た」と言う。特に関数電卓だとかなり高度な計算が可能なので、理屈が分からなくても答えが出せてしまう。 当然これでは数学にならない。 しかし、この「電卓を使わせるか否か」というのは、「どういう人間をつくりたいか」という教育の根本に関わってくる大きな問題であり、ついでにアフリカにとっての発展とは一体何なのかを考えさせてくれる。 電卓OKの
慣れるということは、諦めるということかもしれない、と前に書いた。 最近、自分は、諦めたくない自分に気付き始めた。 毎日の授業を諦めたくない、アフリカに住む自分の時間を諦めたくない。言葉としてはおかしいが、それはつまり、この生活に慣れたくないということでもある。 海外に住むとか、異文化体験とか言うと、そこに溶け込んで、そこの人たちと同じように生活する、ということはとても良い事として語られる。 もし、ここの生活に溶け込むとすれば、それは、昼過ぎに仕事を終えて、大音量でステレオを震わせながら昼寝をするか、目の前を通り過ぎる牛とヤギを見送りながら太陽に灼かれるか、つまり、そういう生活をぼんやり送るということだ。 最近、生徒に問題を解かせ、解かせた問題を採点していく中で、逆に自分が解くべき問題というのを、生徒から提出されている気がしている。 それは、数学をどう教えるか、というのを突き抜けて、自分は何
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