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ブックマーク / blog.goo.ne.jp/aowls (7)

  • 福岡正信氏の自然農法 - 夕暮れのフクロウ

    ―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ) オクラの花 福岡正信氏の自然農法 福岡正信氏は「自然農法」と呼ばれる独自の農法の実践者、主唱者として知られている。自然農法とは、「耕さず、田植えをせず、直接モミや種を蒔いて、米と麦の二毛作をし、化学肥料も施さず、除草作業もせず、農薬も使わない」という極めて簡単な農法である。肥料の代わりにワラを敷き、耕作する代わりにクローバーの種を蒔く。 もちろん福岡正信氏もはじめから自然農法の実践家であったわけではない。氏は岐阜の高等農業学校を卒業し、植物病理の研究から出発して、税関で植物防疫に従事している。だから福岡氏の自然農法にはその前提に植物学という近代科学の素養があるといえる。しかし、若いころ自身の病気をきっかけに現代の科学について根的な不審を抱くようになった。 おそらくこの頃に、福岡氏は、荘

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  • 「神の国」とヘーゲルの「概念」 - 夕暮れのフクロウ

    ―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ) 「神の国」とヘーゲルの「概念」 キリスト教神学でも、とくに根的に重要な概念である「神の国」については、その核心的な根拠として、先の記事でもマタイ書第六章とルカ書第十一章から二個所を取り上げた。それは「主の祈り」としてその伝統の中にも要約され織り込まれている。 それを、あらためてヘーゲルの概念論を研究するこのブログおいて取り上げたのも、このキリスト教の中心的な概念がヘーゲルの概念論の核心と無関係ではないからである。 ヘーゲルの概念論については、かって青年マルクスも『経済哲学手稿』のなかに論及したことがあったが、しかし、以前にもそのことに触れたように(『薔薇の名前』と普遍論争 )、そこでの理解はきわめて浅薄なものであった。講壇哲学者であれ在野の哲学者であれ、それを的確に把握しているものは少

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  • 日々の聖書(15)――神の裁き - 夕暮れのフクロウ

    ―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ) 日々の聖書(15)――神の裁き 猟師が籠を小鳥で満たすように、 彼らは家を偽りで満たしている。 そうして、彼らは強大になり、 金を蓄える。 彼らはますます太り、 脂ぎっている。 こんな悪人どもの行いを、 私は見過ごすことができるか。 孤児の訴えも取り上げず、 それでも、彼は栄え、 貧しき者たちの権利を正しく裁くこともない。 どうして、この民に報いて、 主は言われる、 罰せずにおられようか。 驚くべきおぞましいことが、 この地に起きている。 (エレミア書第五章第27節~第30節) 神の裁きは、哲学においては必然性として捉えなおされる。哲学は必然性を追求するのものであり、そこに神の意思を探求しようとするからである。論理学が「神の叙述」であり、ロゴスの把握であり、その意味で、哲学が神を対象とし

    日々の聖書(15)――神の裁き - 夕暮れのフクロウ
    funaki_naoto
    funaki_naoto 2007/06/13
    エレミア書第五章第27節〜第30節
  • 個別・特殊・普遍の論理① - 夕暮れのフクロウ

    ―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ) 概念論の研究 個別・特殊・普遍の論理① ヘーゲルの概念論については、日においてはもちろん、あるいは世界においてもほとんど研究されていないといってよいのではないだろうか。おそらくこの日においても、ヘーゲルの概念論について研究しようと志すような「篤志家」はおそらく十指にも満たないのではあるまいか。 またマルクスなどが誤解したように、多くの唯物論者たちがヘーゲル哲学に難破して悲喜劇を演じるのは、とくに、ヘーゲルの概念論の理解において挫折しているためであると思われる。 私たちも決してヘーゲルの概念論を正しく捉えることができると自惚れるわけではなく、また、それにどのような意義があるのか、現在のところは分からない。エベレストの山塊の頂上からどのような景色を俯瞰できるのか、それは登攀して頂上を極め

    個別・特殊・普遍の論理① - 夕暮れのフクロウ
  • セザンヌのりんご  - 夕暮れのフクロウ

    ―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ) セザンヌのりんご        拡大図 人間はなぜ絵を描くのか。絵や景色などは、ただ楽しめばよいものを、こうした不粋な問いでしらけさせてしまうのも、哲学愛好者の悪い癖なのかもしれない。 それにしても、なぜ人間は絵を描くのだろう。いや、単に絵だけではなく、音楽を作曲し、詩や小説などの文学を創作する。芸術を創作し、楽しむ。猿などの動物たちがそんなことを楽しんでいるとは考えられないから、それは人間だけの特性であり、特権であると言える。 人間はなぜ芸術にかかわるのか。それは根源的な問いでもある。この問いには、さまざまな答えが用意されるだろう。そこに、回答者の数だけの人間観が現われる。あなたならどのように答えられるだろう。 それは人間が神の子であるからだ。あるいは少なくとも、人間が精神的に神に似せ

    セザンヌのりんご  - 夕暮れのフクロウ
  • ビッグバンとヘーゲルの世界像 - 夕暮れのフクロウ

    ―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ) 現代の物理学の成果から、ビッグバンによって宇宙の膨張が始まったという現代の宇宙像を多くの人が肯定するようになっているという。とすれば、聖書などに記述されている、天地創造の神話もあながち単なる神話に済ませられない可能性もある。 人間の宇宙像は、科学の進歩によって変化し、進展するものである。私たちは、科学という「眼鏡」を通じて世界をのぞき見ているのであって、科学という眼鏡を新しく取り替えるごとに、世界が異なって見えるというわけである。しかし、とくに天文学者などは、望遠鏡をもって現象としての世界を眺めるから、かえって質が見えず騙されやすくある。 私たちはビッグバンも一つの仮説であるとみなしている。つまり、この現代物理学と天文学とが見出した世界像も、人間の立場から世界という現象を合理的に説明し

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  • ビッグバンと世界の二律背反――物理学者の世界観と哲学者の世界観 - 夕暮れのフクロウ

    ―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ) ビッグバンと世界の二律背反――物理学者の世界観と哲学者の世界観 ビッグバンの理論というのは、宇宙が爆発によって起きたにせよ、あるいは、無から物質が生じたにせよ、要するにこの説によれば、宇宙には始元があることを前提とする説である。果たして当にそうなのだろうか。現代の物理学者たちのなかには、このビッグバンの世界観に異を唱えるものは一人もいないのだろうか。 もしビッグバンが事実であるなら、宇宙は時間と空間上の始まりを持つことになる。しかし、この見解は哲学史上は比較的に新しいのではないだろうか。古代ギリシャなどでは、むしろ、世界には始めも終わりもないという考え方が支配的ではなかったろうか。 世界は時間の始まりを持つと仮定すれば、時間の始まり以前の無時間の世界の状態をどのように考えるべきか。そこ

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