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ブックマーク / monado.hateblo.jp (7)

  • 杉浦康平「アジアの本・文字・デザイン」 - モナドの方へ

    主に書籍を手がけるグラフィック・デザイナー杉浦康平とアジアのデザイナーとによる対談集。 「とコンピュータ」に連載されていた対談が収録されているためもあろうか、デジタル技術を意識した発言が多い。コンピュータにおける文字をただのコードとせず、表情のあるひとつの生き物として語り合っている。一線のデザイナーがタイポグラフィ、カリグラフィ、さらにはイモティコン(顔文字)にも注目してブックデザインをしているというのは特に面白かった。 またアジアの思想がどのように文字やデザインに関わってくるか、「和而不同」「斑なす」といったキーワードでもって語られてゆく。漢字、ハングル、シッダム(梵字)の多様性とどう調和してゆくのか、またアジアの文字たちがアルファベット一辺倒のインターネット文化とどう関わってゆくのか、このへんが読み所である。 アルファベットの限界、それはイニシャルをつなげた用語、アクロニムに見られる

    杉浦康平「アジアの本・文字・デザイン」 - モナドの方へ
  • 萩原恭次郎「死刑宣告」 - モナドの方へ

    最近Wikisourceなるものの存在を知った。 青空文庫にくらべるとまだまだ量は少ないが、萩原恭次郎の「死刑宣告」がすべて電子化されているのに感激したので紹介しておく。 →死刑宣告 - Wikisource 私は詩はそれほど感心があるわけではない。というより「詩は原文で読まないと駄目だよね」主義でいくと日語しか使えないので、なかなか視野を広げられないところが壁になっている。なので、今のところ阿部日奈子、加藤郁乎、萩原恭次郎ぐらいしか押さえていない。 前にhttp://www.leibniz.co.jp/~monado/js/analyze.htmlで「装甲弾機」を使ったんだけど、「死刑宣告」は当にヤバイ詩集だ。 どの詩でもいいから一読、いや一見してもらえればそのヤバさがわかってもらえると思う。特にキテるやつを紹介しおこう。 ラスコーリニコフ - Wikisource 広告灯! - W

    萩原恭次郎「死刑宣告」 - モナドの方へ
  • 三橋順子「女装と日本人」 - モナドの方へ

    神話の時代から現代まで、日における女装の受容と様相を丹念につづった新書。 筆者自身が常日頃から女装をしている「女装家」であるだけに私小説のような生々しさがありながらも、同時に研究者としての手腕をふるった歴史的資料を背景の読解が併存している風変わりなだ。 絵巻物の読解は網野善彦「異形の王権」のようなスリリングさがあるし、ここ最近の状況としては作者自身がか関わってきた女装コミュニティの体験談が見事に生かされていて、思わず引き込まれる。男と女、考古学と考現学、セックスとジェンダー、自己と他者、多元的な軸が交錯するなかで描かれていくことは、大きな壁で仕切られている性別という境界を軽々と超えてゆくトランスジェンダーの存在だ。 それを手放しで賞賛するのは、フェミニストが陥ったアンドロギュヌス礼賛のようで、個人的には肩入れしないわけではないが納得できない部分がある。それでも二分法で排除するのではなく

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  • ニコラウス・クザーヌス「学識ある無知について」 - モナドの方へ

    反対物の一致(コインシデンティア・オポジトルム)で有名なクザーヌスの名著。 クザーヌスは15世紀に活躍した神学者・哲学者。ルネサンス哲学の代表格である。 ブルーノ、パスカル、ライプニッツ、ヘーゲルらに影響を与え、近・現代哲学のを読んでいてもちょくちょく出てきたりするので、気になっている人も多いだろう。 第一部は論理と用語の定義であり、数学や幾何学について語られる。第二部は世界観と宇宙論。第三部はキリスト教の玄義についての考察となっている。第三部はキリスト教に興味がないとつらいかもしれないが、第一部、第二部は必ず得るものがあるだろう。 徹底した理詰めの論議が行われるのだが、近代科学の論理とは少々違っている。よく言えば面白いが、悪く言えば甘い。 たとえば第一章では絶対原初の1に3性があることが結構強引に証明される。といっても三位一体だからという単純なものではなく、3性に何か直感を感じていたで

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  • ヴィクトル・ペレーヴィン「チャパーエフと空虚」 - モナドの方へ

    来ましたペレーヴィン邦訳最新作。相変わらず主人公が空虚とか意味わかんない。 すべてが空回りするスラップスティック哲学妄想漫談とでも言えばいいのだろうか。ナンセンスで空疎な会話の応酬と、緻密で哲学的な文章にノックダウンされる長編だ。 舞台は1920年代のロシア。出だしこそ、久しぶりに出会った旧友に刺し殺されそうになったりとサスペンスな展開から始まるのだが、途中からは精神病的な悪夢的世界へと行き来することになる。そして、自分自身を同定できない主人公が、チャパーエフに指導されるという内容。 ライプニッツのモナドを女性器(マンダー)とかけたり、文学、哲学をもちいたジョークが至る所にちりばめられ、話は進むにしたがって渾沌と化してゆく。颯爽とアーノルド・シュワルゼネッガーが登場する頃には、舞台が1920年代のロシアだという設定はぶっとんでいることだろう。 特に日企業が出てくるところは日人なら誰しも

  • 野矢茂樹「他者の声 実在の声」 - モナドの方へ

    「論理哲学論考」の新訳をものし、ウィトゲンシュタイン研究で知られる作者の哲学的エッセイ。 テーマは言語、論理、無限などであるが、実際の所キーワードは最後の「無限」に尽きる。 0.9999……が1と等しいことや、無限集合に関するカントールの対角線論法を、素直に受け入れてきた自分にとって、書の著者による「無限論の教室」の教室を読んだときに受けた衝撃は大きかった。 今の数学では無限というものを、とりあえずあるものとして考える「実無限」という立場をとっている。まあその方が何かと都合がよかったりするので。 しかし実際には0.9999……を数えきることは不可能だ。どこかで打ち切るべきであり、打ち切ってしまえば1と等しいなんてことはありえない。つまり永遠に9が続いてゆくという想定そのものがおかしいと言えばおかしいわけだ。こちらの立場を「可能無限」といい、古くはアリストテレスの時代にまで遡る考え方である

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  • アントニオ・R・ダマシオ「感じる脳」 - モナドの方へ

    前回が「考える皮膚」だったので、というわけではないんだけど、今回は「感じる脳」である。 原題は「Looking for Spinoza」。神経科学者である著者が感情の研究を進めるうちに、スピノザを再発見してしまったというストーリーになっている。 ダマシオの理論を簡単にまとめるとこうだ。 感情とは、特定の思考モードと、特定の主題を持つ思考の知覚とを伴う、特定の身体状態の知覚である。 つまり感情は知覚であり、それは人間が生きるホメオスタシスの結果、生じているものだと論じている。これがスピノザの言う、感情(アフェクトゥス)や自己保存力(コナトゥス)と見事に一致しているというわけだ。 このように感情と身体を結びつけているので、心身二元論というデカルト的発想に真っ向から反することになる。だからダマシオの処女作は「デカルトの誤り」(邦題:生存する脳)なわけだ。 この話をもう少し整理しよう、一般に我々は

    アントニオ・R・ダマシオ「感じる脳」 - モナドの方へ
    funaki_naoto
    funaki_naoto 2006/07/15
    「哲学をやりたければ、スピノザになれ」
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