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ブックマーク / yamsway.hatenadiary.org (33)

  • 「断片化」する書物 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    書籍の電子化の話が喧しい。 また、実際に焦眉の課題になりつつあることもまちがいないだろう。 森銑三、柴田宵曲共著の「書物」は、こんな時期に読むのには、いかにものんびりしたかも知れない。 とくに希有の書誌学者であり、戦後の苦しい時期には、反町茂雄の古書肆弘文荘に勤務して口を糊したことさえある森銑三は、書物への慈愛に満ちていると思われている。 そして確かに、森はへの愛に満ちていただろうし、もし電子化に急速に流れを向けている現在にあったら、恐らく苦々しい思いを感じただろうことは想像に難くない。 しかし、森がこの「書物」の中に記している彼の読書法や書物に対する考え方は、単なる「愛書家」や、今、世に充満しに対する「フェティシズム」だけを根拠に、「はなくなりません」と言いつのる人々とはいささか異なるようである。 たとえば、森は、専門の著述家や出版社に対して、懐疑的である。 なおこの著述家という

    「断片化」する書物 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌
  • 読者・語り手・作者 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    「読者はどこにいるのか」というタイトルは、現在、多くの出版社の人間、編集者にとって、切実な問いに違いない。 むろん、石原千秋のこのタイトルの意味は、売れ行き不振に悩む出版社に対する指南ではない。 「文学理論」として、書物に対峙した時の「読者」の位置、あるいは「読む」という行為のポジショニングを問うているのである。 最先端の「文学理論」が、現在どのような位相にあるのかについて、詳らかではないし、興味もない。 あるいは今現在、大学の文学部のキャンパスにおいて、文学がどのように読まれているのかにも関心はない。 ただ「読む」という行為の、今日的意味に関しては、少なからず興味はある。 石原は、かつての読書を「作家論パラダイム」と呼ぶ。 いいかえれば、「教養主義」を基礎とするの読み方としてとらえている。 この間の事情は、竹内洋「教養主義の没落」に詳しいが、かつて、読書は「作者」のご託宣を聞くかのように

    読者・語り手・作者 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌
  • 未完のテクスト - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    ソーントン不破直子著の「ギリシアの神々とコピーライト」は、西欧における「作者」の概念の変遷を包括的にたどれる好著だ。 著者は、ギリシャ古典・聖書の時代から「作者」は、神の代理であったということから説く。 ルネッサンス期以降自立した「作者」が誕生したという著者の主張は、ペトラルカ他を論じながら、すでに見てきた。 ソーントン不破直子の主張の中で、注目したいのは、作品の中に書かれる「対象」についてである。 (ギリシア古典における「ミメシス」は、模倣し表現すべき何かが「作者」の外に存在していることを前提といていた。つまり「作者」自身には表現すべき「内面」などなかったのである。西欧において、個人の―――具体的には自己の―――「内面」が個別の新奇なものとして発見されるということは、アリストテレス以来の革命的な認識の変化である。             p58 神の代理人であれば、取り上げなければならな

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  • 印刷されたページの視覚的装置 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    永嶺重敏が指摘する「音読」の証拠は、列車内の他、新聞縦覧所・監獄・学校寄宿舎などである。 特に学校寄宿舎では「音読室」が設けられたり、「黙読時間」と「音読時間」を分離するなどの方策がとられている。 いずれにせよ、20世紀はじめまで、日読書空間は「音読」の声にあふれていたことは疑いようがない。 騒がしい国だったのである。 「音読」が、わが国で長く続いたのは、 近世以降、「読み聞かせ」という形態が根強く残ったこと 漢文の素読が、近世の学習法の基だったこと 近代に入っても、「暗記(暗誦)」の中心に取り入れられていたこと などが、思いつく。 永嶺は、明治30〜40年頃を、「音読」から「黙読」への移行の時期にあげている。 その理由として、公共の場で「音読」することへの人々の視線の変化などいくつかのことをあげられているが、最大の原因としているのは「活版印刷」の普及である。 永嶺が引用している、

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  • 公共の場所での音読 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    永嶺重敏が『雑誌と読者の近代』で引用している、明治期の汽車の車内での音読に関する新聞・雑誌記事は、現在と異質の「読書空間」が日にあったことを教えてくれる。 「汽車の中に入れば、必ず二三の少年は、一二の雑誌を手にして、物識り貌に之を朗唱するを見るべく」(明治二五年の記事 以下同) 「今尚ほ田舎の汽車中にて新聞雑誌抔を独り高声に誦読するもの少なからず」(明治二八年) 「書を携ふるもの僅に一人、東大の紀章をつけたる一青年が内田魯庵氏の『社会百面相』を繙けるのみ。しかも、渠、文学的趣味を以てこの書を読むにあらざるが如く、書に対するやつねに朗々として音誦し、三四ページを読了したりと思はるるや忽ち横さまに偃臥せし」(明治三五年 一部表記を変更) (44〜45p) 等々。 もっとも驚いたのは「平民新聞」の投稿で、新聞を読んでいると隣に座った乗客がのぞき込んで「声高く」音読することがよくあるが、社会主義

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  • 声に出して読みたい日本語 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    「現代では小説は他人を交えずひとりで黙読するものと考えられているが、たまたま高齢の老人が一種異様な節回しで新聞を音読する光景に接したりすると、この黙読による読書の習慣が一般化したのは、ごく近年、それも二世代か三世代の間に過ぎないのではないかと思われてくる。『近代読者の成立』(167p) 前田愛の論文『音読から黙読へ―――近代読者の成立』の初出は、昭和37年(1962)。 そこから2・3世代前というと、どのくらいの時期をイメージしていたのだろうか? この後に続く一連の日記の引用から考えると、明治20年代(1887年)以前を考えていたように読み取れる。 しかし永嶺重敏は、『雑誌と読者の近代』の中で、現在の私たちからすると異様とも思える明治の日の「音読」の光景を明らかにしている。 我々は一般に「音読」という言葉に対して読書能力の未成熟な状態を連想しがちであるが、明治期には読者層の中核をなす学生

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  • 『浮世床』の「音読」 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    落語の話から始めたい。 『浮世床』という話がある。 江戸後期とおぼしき時代(おそらく文化文政以降)、髪結床に集っている庶民の滑稽譚が語られる落語である。 その中に、軍記物のを音読する場面がある。 六代目三遊亭圓生が演じたその場面は、『古典落語 圓生集(下)』によると以下のとおりである。 髪結床の隅でを読んでいるやつを見つけ、そのが姉川の合戦の戦記(太閤記か? )と知ったみんなが、「読み聞かせ」るように頼む。 「面白いところだねェ。読んで聞かしてくださいよ」 「(首を横に振り)だめ」 「どうして?」 「てェものは黙って読むところが面白い」 「そんな皮肉なこと言わずにさァ、みんなここにいるやつァ退屈をしてェるんだから……読(や)ってもらえませんか?……だめ? どうしても」(203p) こうして「読み聞かせ」始めるのだが、つっかえたり読み間違えたりで、話がとんでもない方向に行くという落語

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  • 無聊について - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    私は基的に時間に対してとてもケチなのです。ですから、時間を投資したものについては、何らかの形で回収しようとします。についても同じで、「読み終わっておしまい」では、代も時間も、もったいないと思うのです。 勝間和代 『読書進化論」』p21 勝間和代読書法について、とやかく言うことはない。 基的に読書自体は、現在では個人の行為であり(口誦が中心であった時代については、すでに論じてきた)、その限り、いかなる読み方も許容されるはずである。実際、勝間和代自身、「楽しむために読むエッセイや小説などは別です。」(p73)に書いていることを付記しておく。 私に関心があるのは、この「ためになる読書」が、いつどのように、成立したかの手がかりを知ることである。 ガブリエーレ・シュトゥンプは「読書行為と憩い」という論文の中でJ・A・ベルクの『書物を読む技術』(1799年)を引用している。 「単に時間を潰す

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  • 江戸の禁書目録 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    今田洋三「江戸の禁書」の中に、明和八年の禁書目録が掲載されている。 これは、京都の書物屋仲間がまとめたもので、今田はその背景について以下のようにまとめている。 出版界では江戸根生いの書物屋が急速に力を伸ばしていた。それに圧倒されて、元禄以来、江戸の出版界を牛耳っていた京都の屋の出店が、つぎつぎと閉店のやむなきに至っていた。 京都屋仲間としては、このあたりで結束をかため、守成の実をあげるためにも、さまざまな話合いがおこなわれたであろう。この際、業界の混乱や権力の介入をさけるため、あらためて『禁書目録』が作られたのであろう。それはまた、江戸出版界に対する一つの牽制策でもあったにちがいない。 『江戸の禁書』p2 明和八年(1771)、幕政は田沼が握り、江戸を中心とした文化が花開こうとしている時期である。 4年後の安永四年には、恋川春町「金々先生栄花夢」が出版され、黄表紙が一世を風靡するし、1

    江戸の禁書目録 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌
  • 禁書目録 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    ポルノグラフィの専門家のだれでもが―――そしてその後継者の多くが―――近代的なポルノグラフィの祖とするのは、一六世紀のイタリアのピエトロ・アレティーノである。 『ポルノグラフィの発明』p22 『ポルノグラフィの発明』の編者であるリン・ハントは、そう書いている。 ここで、「近代的な」という語が、重要になる。 いうまでもなく、古代ローマの古典文学には、猥雑なものがたくさんあった。 ルネサンス期の人文主義者は、古典を再発見していく過程で、これらの「猥褻な」もの、キリスト教的に「スキャンダラス」のものも発見してしまう。 上記のの中の論者のひとりポーラ・フィンドレンは次のように指摘する。 キリスト教以前の文化に関してもっとも誘惑的で、不安を生じさせる二つの要素は、セクシュアリティにたいする態度とその描写であった。人文主義者たちは古典を模範とする文化を作り上げようと試みるさい、キリスト教社会の目標に

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  • 20年を経て - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    先日、必要があって「リクルート事件」の記事を読むために、朝日新聞の縮刷版を繰っていた。 1989年2月13日の月曜、江副逮捕の記事を探している時、その前日の日曜の読書欄に目が止まった。 まず「パソコンで『の情報』速く広く」という記事。 初期のパソコン通信の紹介記事なのだが、ニフティの会議室や、パソコン通信でが買えることなどが書かれている。 さらに、紙面下段には「書物の現在」吉隆明・蓮実重彦・清水徹・浅沼圭司共著という広告があり、「活字文化の衰退という俗説を排し、グーテンベルクから電子出版に至る書物の歴史と現在を検証しつつ、今日の出版の問題をするどく剔抉する。」とある。 文体はともかくとして、コピーの内容は「二十年一日」という感じがした。 書物は、あるいは電子メディアは、この20年で実際にどれほど変化したのだろうか。 そのことを確かめたくて、早速、この「書物の現在」を、インターネット経

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  • 円本と新聞宣伝 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    「出版と社会」は、大部の書である。触れられる「昭和出版史」のエピソードは、それぞれ興味深いにせよ、読み上げるのに相当な時間を要した。 まず、私は、著者が「序 出版のパラダイム」で述べている「出版現象の成層構造」などの所論に与しない。 書30Pに掲載された図によれば、最下層に「4 日常生活」があり、その上に「3 情報」、さらにその上に「2 知識」さらに上に「1 知恵」があるとされる。(円錐として図示されている・また文中の数字はローマ数字、以下同) 「知」をこの上昇過程と捉え、出版や編集者を、この上昇過程の啓蒙的な導き手のように考えているのがうかがえる。 「知識人と大衆」といった形での捉えかたが、高度に情報化した「資主義社会」(これを正確になんと呼ぶのかは知らないが)は、こうした考えを無化してきたことは、私には自明のことに思える。 その自覚の上で、現在の編集・出版という営みは、行われてい

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  • 寛政の改革 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    寛政三年、山東京伝・蔦屋重三郎は、幕府から処罰される。京伝著の洒落三部作『錦之裏』『仕懸文庫』『娼妓絹籭』が処罰の対象で、京伝は手鎖五十日、板元の蔦屋重三郎は身上半減になった。 寛政の改革は、この「筆禍」によって、勃興し始めた江戸の町人文化に冷水をあびせるる出版弾圧であったことが、従来、強調されてきたと思う。 確かに、田沼時代の自由を謳歌する風潮に対し、松平定信の思想弾圧・出版弾圧であったことはまちがいない。 「文武二道万石通」の朋誠堂喜三二(秋田藩留守居役筆頭)は、天明八年(この年、寛政の改革はじまる)に止筆。 「鸚鵡返文武二道」の恋川春町(駿河・小島藩江戸詰用人)は、寛政元年、幕府から召喚されたが出頭せず、まもなく死去(自死か?)。 同じく寛政元年、「黒白水鏡」(石部琴好作京伝画)によって、琴好は手鎖の上、江戸払い、京伝は過料に処せられている。 一連の流れの中での、寛政三年の「筆禍」

    寛政の改革 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌
  • 世界をリスト化する - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    「声の文化」の特徴の第一にJ・オングがあげているのは、それが累加的(additive)であるという点である。 16世紀のドゥエー版聖書に、「声の文化」の残存を見ている。 なかなか興味深いので、引用する。 はじめに神は天と地を創造された。[そして]地は形なく、むなしく、[そして]やみが淵のおもてにあり、[そして]神の霊が水のおもてをおおっていた。[そして]神は「光あれ」といわれた。すると[そして]光があった。[そして]神はその光を見て良しとされた。[そして]神は光とやみとを分けられた。[そして]神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。[そして]夕となりまた朝となった。 声の文化と文字の文化 84〜85 訳者によれば、[そして]は、原文のandである。 「声の文化」では、分析手語り口(思考)ができず、えんえんと時系列に沿った話を積み重ねていくのがわかる。 また、一方で、「声の文化」では、「

    世界をリスト化する - 「書物」の誕生・覚え書き日誌
  • 野性の精神は全体化する - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    相当に刺激的なである。 私たちが自明に考えている「思考のパターン」やそもそも「思考する」こと自体が、文字あるいは「書くと言う技術」に根ざしていると、「声の文化」との対比の中で明かされて行く。 「書くと言う技術」を持っていることは、かなり特別なことらしい。 これまでに、人間の歴史のなかで人の口にのぼったことのある何千という――ひょっとして何万かもしれないが――言語すべてのうちで、文学をうみだすほど書くことに憂き身をやつした言語は、わずかに百六にすぎないほどである。今日実際に話されているおよそ三千の言語のうち、文学をもっている言語はたったの七十八である。(Edmonson 1971,pp.323,332)いったいいくつの言語が、書かれるようになるまえに、消滅したり、変質して他言語になったりしたか、いまのところ数えようがない。活発に用いられていながら全然書かれることのない言語が、現在でも何百と

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  • 後白河法皇 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    絵巻の読者を考える場合、いうまでもなく時代的変遷を考慮に入れなくてはならない。 その発生期、一〇世紀末といわれている時点では、前回引用した武者小路穣の指摘によれば、『後宮や高位の貴族の邸内奥深くのごく限られたもの』であった。 この時期、『伊勢物語絵巻』『竹取物語絵巻』『宇津保物語絵巻』などが存在したと『源氏物語』に書かれている。 しかし、これらはおそらく、後の『信貴山縁起』『伴大納言絵巻』などとは、趣が異なっていたのではないだろうか? 『竹取物語』ぐらいの長さになれば、もうすべての場面を絵画化することは考えられない。まして『宇津保物語』のような大長編の全編絵画化は、物質的にもむりな話である。 (「絵巻の歴史」 20p ) つまり、後の説話絵巻が絵巻を見ていくことで、物語を「読む」形式であるのに対し、発生期の絵巻は読者の側に共通認識として「物語が先ずあって、その中の一場面が、物語絵として描か

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  • 『信貴山縁起』・読者についての疑問 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    中世の日の文学に関して、あるいは美術に関しても、さらには社会史・歴史に関しても、通り一遍の知識しか持っていない。 この稿で覚え書きとして記しておきたいのは、このところ気にかかってしかたない疑問に関してである。 追々解決して行ければといい、という目論見にすぎない。 最初に疑問がわいたのは、『信貴山縁起』に関してである。 言うまでもなく説話絵巻の代表作であり、その絵画の素晴らしさと独自性は、群を抜いている。 無論、国宝である。 しかしながら、この絵巻は、誰に、どのように読まれてきたのだろうか? まず、『絵巻』一般の読まれ方を考えてみなくてはならない。 武者小路穣は、『絵巻の歴史』の中で『信貴山縁起』について以下のように述べている。 紙を横につないだ巻子の長さと、それを少しずつくりひろげていくという観賞法をこれほどまでに効果的に利用して、しだいに転換していく舞台の上で自由に登場人物を活動させ、

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  • 古代ローマの書物事情 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    WOWOWで放送中の『ローマ』を見ている。 それなりに面白いのだが、見ている自分に古代ローマ史の基礎知識が欠けているのが、よくわかった。 幸いなことに、ローマの通史に関しては、私たちは『ローマ人の物語』(塩野七生著)という、わかりやすくしかも面白い、優れたを持っている。 カエサルからアウグストゥスにいたる『ローマ人の物語』の数巻を読み、基礎知識を持った上で、『ガリア戦記』・『内乱記』・『プルターク英雄伝』・キケロの著作や書簡、さらにはタキトゥスの『ゲルマニア』・『同時代史』・『年代記』まで、読み進もうと思っている。 これが、結構面白く、ついつい『書物史』のを読むのも、なおざりになりがちだ。 で、『ガリア戦記』である。 紀元前1世紀に書かれたの翻訳を、寝転がって文庫で読めるということ自体が、不思議な気がする。 この書物の写を作り続けたヨーロッパ中世に恩沢を十分に受けている。 ちなみに

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  • 福沢屋諭吉誕生 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    福沢が考えたのは、書林の機能であった「出版業と書籍販売業」のうち、出版業を分化して、福沢の手元で行なってしまうというプランだった。 そのためには、版木師や製師などと福沢が直に交渉し、その職人を押さえてしまう必要があった。 といっても、福沢の言い方をすれば「取付端(とっつきは)がない」(福翁自伝)。 「生涯の中で大きな投機」(前掲書)を行なったのは、この時である。 福沢は、紙を押さえてしまったのだ。 数寄屋町の鹿島という大きな紙問屋に人を遣って、紙の話をして、土佐半紙を百何十俵、代金千両余りの品を一度に買う約束をした。その時に千両の紙というものは実に耳目を驚かす。如何なる大書林といえども、百五十両か二百両の紙を買うのがヤットの話で、ソコへもって来て千両現金、直ぐに渡してやるというのだから、値も安くする、品物も宜い物を寄越すにきまってる。 (「福翁自伝」 274p) こうして、大量の紙を土蔵

    福沢屋諭吉誕生 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌
  • 書林支配形態 - 「書物」の誕生・覚え書き日誌

    福沢は、何が不満だったのか? 江戸時代の書籍商の形態・権利が、現代の感覚では分かりにくい。 書林支配に関しては、前回、引用した。 再度、検討する。 江戸時代の書籍商=書物問屋は販売だけではなく出版をふつう営んだので、かれらのあいだには、権利概念として、屋仲間株(営業権)とともに版株・留板株(出版権)があった。 (「福沢屋諭吉の研究」 262p) つまり、出版業と書籍販売業が未分化のまま、権利として書物問屋に合ったというわけである。 さて、江戸期の出版権である。 屋仲間が公認された最初は、京都においてである。正徳六年(一七一六=享保元年)のことであった。当時の仲間員数は約二百軒であった。京都の屋たち、出版物が増加し、屋商売を営むものがふえてくると、いきおい、すでに他人が出している書物と同じものを印刷して売ったり、一部だけを変えて売り出したりする者が多くなった。寛永以来の京都出版業は、

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