[サッカーJ1・アルビレックス新潟]MF松田詠太郎の期限付き移籍延長 横浜F・マリノスから2025年1月末まで「新潟のために戦う」
資生堂公式サイトに掲載された、シニアヘア&メーキャップアーティスト鈴木節子さんが手がけた、時代背景とともに美の変遷と未来の美についての解説が話題になっています。 なんと、モデルさんはすべて同一人物とのこと。メイク次第で、女性はこんなにも変わるんですね。 【1920年代/大正ロマンのモダンガール】 THE大正美女!という印象です。 【1930年代/銀幕女優への憧れ化粧】 「強い女性」を感じられるメイクです。 髪型が一瞬サザエさんのように見えました‥。 漫画サザエさんの連載開始は1946年だそうです。 【1950年代/アメリカンスタイルとヘップバーンがお手本】 オードリーヘップバーン等、往年の大女優を彷彿するメイクです。 【1960年代/欧米志向真っ盛り 西洋人形風】 60年代リバイバルで、2000年代以降もCMや雑誌など、ファッショナブルなテイストとして用いられるメイクですね。 【1970年
気どるな、力強くめしをくえ!「大衆食堂の詩人」といわれた、後期高齢ステージ4癌男、エンテツこと遠藤哲夫のブログ。 最近のニュースにあったが、イオンの完全子会社になったダイエーは、ついに上場を廃止、店名も消えることになった。 中内功が「主婦の店ダイエー薬局」(ダイエー1号店)を立ち上げたのは、1957年のことで、それからダイエーと中内功は、当時の「流通革命」の先駆、旗手として注目をあびた。 この流通革命を担った店舗は、一般に「スーパーマーケット」として認識されているけど、その中核となるノウハウは、「チェーンオペレーション」と「セルフ・サービス」だった。 そして、セルフ・サービスということなら、青山の「紀ノ国屋」がダイエーより早く、1953年に導入していた。 紀ノ国屋のサイトの「紀ノ国屋の歴史」によると、「紀ノ国屋は1910年(明治43年)、青山の地で、果物商としてスタート」、1953年には「
戦国時代の城として一般的に思い浮かべられる、壮麗な天守、堅固な石垣、張り巡らされた水掘・・・などの城の姿は実は江戸時代のものだ。天守も石垣もなく、水掘ではなく空堀で、土塁や地形を利用して削られた斜面、河川などに守られ、一時的ではなく恒常的に武士が住まう施設としての要害が戦国時代に一般的な城の姿ではある。しかし、この城もその登場は十五世紀半ば頃からのことで、地域や状況によって多種多様な姿を取る。 では「中世武士の城」とはどのようなものであったか、本書では主に東国の様々な城の姿から、特に武士たちが本拠とした本城について、十六世紀に本格化した要害としての城以前、十三世紀から十五世紀末頃までの城の一つのモデル化が試みられており、中世の城を理解したい人には格好の一冊となっている。 本書で描かれる中世武士の城について、戦時体制を前提とした恒常的な城館の登場は十五世紀中頃で、それ以前は、平時から戦時に移
古墳というものがある。簡単に説明すれば権力者のお墓のことで、世界最大級の墳墓である「大仙陵古墳」や、卑弥呼の墓と言われている「箸墓古墳」などが有名だろう。 ただし、有名な古墳はほんの一部で、多くは名も知れぬ古墳だ。日本には15万を越える古墳が存在する。そんな数ある古墳の中から、雑に扱われている古墳を巡ってみようと思う。
どうも、服部です。昭和30年代を舞台にした映画「ALWAYS 三丁目の夕日」や、その続編「ALWAYS 続・三丁目の夕日」の頃は本当に良い時代だったのか、当時のニュース映像で検証した前回記事「『これ本当に日本?』と驚く昭和30年代の日常まとめ1」の続きです。 前回記事では、鉄道事情・道路事情・タクシーやトラックの運転マナー事情を見て、交通事情に関していえば、昭和30年代は良い時代ではなかったかもしれないと結びました。 今回の記事では昭和30年代の住宅事情、治安、衛生面について書きたいと思います。 ●【住宅事情】引っ越したいけど引っ越せない、超格差な住宅事情(昭和31年) 「大都会を空から眺めますと、立て込んだ家の間にアパートの集団住宅が目立つようになりました」というナレーションでニュース映像は始まります。田んぼや畑が広がっていて、現代に生きる者には、ちょっと大都会には思えませんが……。 団
陰陽師安倍晴明というと、様々な伝説に彩られた日本史上のスターの一人である。死後の平安時代後期から様々な伝承が語られ始め、現代でも小説、映画、マンガなど様々な創作作品に登場して人を魅きつけている。僕は丁度世代的に八十年代後半、荒俣宏の「帝都物語」で知り夢枕獏の「陰陽師」や菊池秀行作品など伝記小説で認識した感じだ。 実在の安倍晴明は様々な伝承や創作で語られるような呪術妖術に長けた超能力者ではなく、地味な、しかし政治力に長けた遅咲きの官僚である。平安時代、中国から伝わった陰陽五行思想や道教・密教、修験道などを総合して登場した陰陽道を統括する部署として陰陽寮という組織があった。晴明も陰陽寮に所属していたが陰陽道の能力的にもそれほど秀でていたわけではなく、長らく出世コースから外れていたらしい。彼が歴史の表舞台に登場するのは四十代に入ってからで、丁度藤原道長が権力を掌握していく過程で藤原氏や花山・一条
第一章 江戸の貨幣経済と知識人の台頭、蘭学の登場十七世紀、戦国乱世の終結による政治的安定は人口増大と経済成長を促した。貨幣経済・商品経済の浸透は競争を喚起し、農民層の分解と格差の拡大、新たな都市富裕層の登場を促す。『俗姓筋目にもかまはず、只金銀が町人の氏系図になるぞかし。』(井原西鶴「日本永代蔵」)と、旧来の身分制度に変わりカネが全ての世の中の到来だ。元禄時代の豪商河村瑞賢は「金銀が天下を馳駆する」と語った。それは同時に、自身の知恵と才覚によって成り上がる世の中でもある。伝統的な紐帯の弱体化は多くの人々を不安にする一方で、人々に独立の気風を与え、学ぶ意欲を大いに促す。 十八世紀に入ると、幕政の行き詰まり、貨幣経済のさらなる進展、飢饉や疫病などによる社会秩序の動揺はより加速、流動化する社会を背景として、新たに登場してきた知識人層はまず漢詩や狂歌などの文化芸術の世界に興味を持ちはじめて三々五々
BS歴史館 NHKの番組「BS歴史館」第50回「信長27歳 桶狭間に立つ」(2012年9月20日初回放送)に出させていただきました。桶狭間を専門に研究してきたわけではないので、むしろ信長の位置づけについて、といった趣旨で参加したのですが※、合戦自体についても、いろいろと考えさせられました。討論番組の性格上、言い尽くせなかったことも多く、私見を少しまとめておきたいと思います。 否定された通説 永禄3年(1560)5月19日(グレゴリオ暦だと6月22日)に起こった桶狭間の戦いは、かつては流布していた戦記物、小瀬甫庵の『信長記』などによって、上洛を目指して尾張に侵入した今川義元を、織田信長が奇襲によって倒した戦争、と考えられていました。しかし今日では、より信頼が置ける、信長の側近くに仕えた太田牛一『信長公記』などの史料の見直しによって、こうした見方は否定されています(藤本正行『信長の戦争』講談社
「自分さえ良ければ良い」「マイペース」「自己中心的」「ワガママ」…。血液型の話題となると、決まって蔑まれるのが、B型の人間だ。もし、血液型が本当に性格を決定づけているとしても、他の血液型にだって欠点はあるだろう。それなのに、なぜB型だけが世間から虐げられているか。B型は世間から日頃どんな目に遭っているというのだろうか。 関連情報を含む記事はこちら 『B型ですが何か?』(シバキヨ/イースト・プレス)は、B型代表、主婦兼マンガ家のシバキヨ氏がB型の実態を描き出したコミックエッセイだ。シバキヨ氏に言わせれば、世の中はB型差別で溢れている。血液型の話題で毎度悪口を言われて気まずい思いをすることもしばしばだ。おまけに某質問サイトでは、当たり前のように、こんな質問が投稿されていたりする。 「理不尽な隣人に悩んでます。ゴミの出し方ひとつでも自分のやり方と違うと言ってどなりこんできます。どうしたら、このB
平安時代後期に物語が作られ、その後、中盤や末尾の大部分が失われたことから、「幻の物語」とも呼ばれる作品、「夜の寝覚」の失われた部分の一部が見つかり、平安時代の傑作の全容を知る手がかりになるとして研究者が期待を寄せています。 「夜の寝覚」は、女性の主人公「寝覚の上」がさまざまな男性に愛される波乱の生涯を描いた物語で、11世紀後半に「更級日記」の作者としても知られる菅原孝標女が書いたとする説が有力です。 原本はなく、その写本が残されているものの、時代を経るうちに、物語の中盤と末尾が大きく失われ、詳しい内容や結末が分からなくなり、「幻の物語」とも呼ばれていました。 こうしたなか、このほど、京都の古書店が持っていた古い掛け軸の書1枚について、平安時代の文学に詳しい実践女子大学の横井孝教授が鑑定したところ、「夜の寝覚」の中で詠まれていたとされる和歌だったということです。 「夜の寝覚」を巡っては、今回
2016年のNHK大河ドラマが真田幸村の生涯を描いた「真田丸」という作品になるそうだ。よく知られているように幸村は後世、創作作品で名付けられた通称で、存命中幸村と名乗ったことはなく信繁が正しい。しかし、江戸時代の軍記物や講談から文学作品、映画・ドラマ、さらに最近ではゲームまで繰り返し真田幸村として登場しており、戦国武将の中でも屈指の知名度を誇る人物だろう。僕も子供のころから様々な作品を通して真田幸村になじんできた。 幸村と信繁、創作上の悲劇の英雄と歴史上の一人の戦国武将との間には少なからぬ違いがある。このイメージと実態との差は信繁に限らず、真田一族全体にいえるもので、その違いを丁寧に解きほぐし、あるいは切り分ける作業が、戦国時代の真田氏研究の大きなテーマとなってきた。本書はその真田氏研究の代表的な研究者である著者による真田幸綱(一徳斎幸隆)・昌幸・信繁の三代記である。本来であれば三代目は信
石井良助が注目したのは、表の「冒頭部分」という項目です。表記の移り変わりがあることに気づきますね。年代順にしてみると、ここは三つに分けることができるようです。石井良助はこれを、第一期(表中1~5)・二期(6~21)・三期(22~26)に分けました。 まず「前右大将政所下文」という表記が続くのが、第一期(表中1~5)です。これは当時、頼朝の称号が前右近衛大将(前任の右近衛大将〔通称、右大将〕の意)であったことによります。 それでは第一期から第二期(表中6~21)に移りかわる原因は何なのでしょうか。これは、頼朝たちがきまぐれに書式を変更したわけではありません。第一期と二期の境目にあたる1192年6月~8月ごろに何があったか―それこそがまさに、頼朝の征夷大将軍就任なのです。 1192年7月12日、朝廷は、征夷大将軍に頼朝を任じる正式決定をします。その命令が鎌倉に届けられたのが、7月26日。そし
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Comment by ASexualWalrus 祖父の屋根裏で見つけた医療箱 上に文字が書かれてる パカッと 上に挟んでた紙 一層目 点滴静脈注射っぽいもの 懐中電灯 二層目 最後の層 imgur.com/gallery/1RtHn reddit.com/r/pics/comments/1vgnt9/medical_chest_i_found_in_my_grandfathers_attic/ ※1日で50万回以上閲覧されていました。 Comment by Hindulovecowboy 1 ポイント 誰かこれを翻訳してくれる日本人はいませんかー Comment by odoroustobacco 416 ポイント スレ主の健康状態がこれで全て回復したか。 Comment by ASexualWalrus[S] 459 ポイント ↑あと8時間継続するスタミナ(+20)の補正も受けた。 C
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