とびらの@ずたぼろ6巻発売中!! @tobiranoizumi こーゆー誤字報告はやめてくだちい? 一話ごと二十件くらいこの調子で送ってきてるひとが一人だけいるんだけど、漢字変換は作者が自分で判断の上、法則性をもたせて統一してたり、逆に何か理由があって他とは変えてたりするんやで。 変換できる字ぜんぶ漢字にすりゃ「ちゃんとした文」てわけじゃない。 pic.twitter.com/zt6Jd2xDXM

6月に出す新著についての作業工程がだいたい終わって、脱力状態になった。新しい本が発売される前の一か月ほどは、いつもこんな感じだ。少し憂鬱にもなる。 そうしたなか、手斧アイコンの方のはてなブログで「何者かという問いは呪いである。」という文章を読んだ。 何者かという問いは呪いである。 - てのひらを、かえして 「何者か」という問いは、たいてい「何者でもない」という答えを導く。「いや、自分は何者かである」と答えられたとしても、どこか土台がグラリとする感覚はなくならない。四十年以上生きてきて、いくつかの点では何者かになったはずなのに、まだリンク先の文章を読んでグラリとしている。そんな自分自身を、自嘲せずにはいられない。 今の私にとっての「何者か」は欲の残骸、未練、そんな感じのものだろうか。 "何者にもなっていない若者の焦り"みたいなものでなく、"もう選べない可能性への未練"と、"できあがってしまっ
もう20年くらい、ずっと文章を書いている。最初は趣味で、ウェブ上の日記に思ったことを書いたりしていただけで、読むのは知り合いくらいだったのだけど、いつの間にか顔も知らない人に読まれることが増えて、書くことでお金をもらうようにもなった。 だけど、文章を誰かに褒められたり、文章でお金をもらえたりするとうれしいのはうれしいけれど、それはあくまで二次的なものだという意識がある。 僕が文章を書くのは自分のためだ。自分が何かを考えたいから書くし、自分が何かに納得したいから書く。書かないといつまでも同じところを堂々巡りしてしまうけれど、書くと思考や人生が前に進むような気がする。 生物というものが食べ物を摂取して排泄するように、自分にとって何かを読んで何かを書くことは、生きることと一体化しているような感じがある。 いや、もっと大きい理由は、書くことに圧倒的な快楽があるからだ。どんな快楽よりも文章を書くこと
Thaver2637 @Thaver2637 日々の生活と、政治的な発言が多くなります。たまに、創作的なことや、TRPGの話題なども話します。 「準備は物凄く大切だが、結局人生の選択のほとんどは出たとこ勝負なんだ。そこで、何を成し遂げるかで決まるんだ」という某西部劇の台詞を改変した言葉が好きです。 Thaver2637 @Thaver2637 個人的な感想として。 明治大正の文豪ならともかく、ラノベ作家の文章なんて絵師さんどころか、そこらの中学生でも書けるものだと思うんだ。 実際、売れてる本を見ても文章自体は……と。 それで喜べと言われても、絵師さんが困っちゃうと思う。 twitter.com/HizenHumitoshi… 2020-04-23 20:36:52
増田歴10年。下手な鉄砲数うちゃ当たるってわけで今まで何度かホッテントリ入りしてきたが、文章力があるねってコメントが一度たりともついたことがない。 文章力があるってどういうことなの? ホッテントリ入りしてる増田に「文章力がすごい」というブコメがついていることがあるけど、「これのどこが文章力があるの???」というものから「たしかにこれはプロレベルの文章力だ」と感じるものまで幅広くて、もう訳がわからないよ。 構成力の問題なのかな。それなら自分にはないよ。だって構成とか一切考えずに書いてるから。 一時期、悩みに悩んで「自分には文章力がない」という増田を書いて、それがたまたまホッテントリ入りしたことがあるのね。 そしたら今は亡きhagex氏から「釣り」判定されたの。いやお前書けてんじゃん、みたいな。 じゃあなんで10年も増田やってて一度も文章力を褒められたことがないわけ? 読めないほど酷い文章力で
戦時下の「動員ポエム」を思い起こさずには…… 実質的には動員の呼びかけなのだが、自発的な参加をたくみに偽装している。筆者は、これで戦時下の「動員ポエム」を思い起こさずにはおれなかった。 ◇ 敵アメリカの戦意と戦力は頂上に達してきたぞ 我々はどうだ 今年こそは生やさしい年ではない 坐して戦ひに勝てようか 心も物もなほ一層締めてかゝるのだ 誰が それは僕なのだ、君なのだ、あなたなのだ ◇ 「それは僕なのだ、君なのだ、あなたなのだ」。『写真週報』1943年1月6日号より(アジア歴史資料センター所蔵)。 政府広報誌と「動員ポエム」 上掲の「動員ポエム」は、『写真週報』1943年1月6日号の「時の立札」に掲載されている。 『写真週報』は、日本政府が発行した週刊のグラフ誌である。日中戦争下に創刊され、アジア太平洋戦争時には平均約30万の部数を数えた。 その狙いは、1938年2月23日号の「映画
日英のバイリンガルが気づかないはずないんだが、一応書いておく。 結論を言うと日本語にはアクセントがほとんどないから。 文章を耳で聞いた場合、日本語のような抑揚のない音だとほとんど頭に入ってこない。 対して、英語はアクセントがはっきりしているし、抑揚も音韻もあるから音楽を聴くようにして聞ける。 この違いは両方のオーディオブックを試したことあれば一目瞭然。いや、一耳か。 これはおそらく日本に文学の朗読会がほとんど行われない理由も同じ。 英語の小説を朗読で聞いたとき、抑揚も音韻もあるので詩の一部分を聞いてるかのような心地よさがある。 日本語だとそれがないから、ただ文章を声にしているだけで何も楽しくない(国語の授業を思い出してよ)。 日本でオーディオブックが流行らない理由は日本語の文章が音で聞いても楽しくないからで、それ以上でもそれ以下でもないと思う。 (追記) 「話し言葉」と、「書き言葉を音声で
現在私は工場勤務で、昼勤夜勤を繰り返す部署にいる。工場の御多分に洩れず、最寄り駅に各駅停車しか止まらないような田舎に職場があり、住んでいるのも各駅停車しか止まらない安さだけが売りのアパートである。夜勤の場合、いつ終わっても30分は電車を待つ必要がある。 私は、かつてこの30分が嫌いで仕方がなかった。 工場勤務は退屈である。ただ同じ作業を繰り返すのみ。作業をしながら考え事をするか、うるさい環境を利用してそこそこの音量で歌うくらいしか退屈しのぎがない。そんな退屈が終わった後に30分も無為な時間を過ごしたくない、早く帰って飯食って酒飲んで寝たい、以外の感情がなかった。 去年の今頃、勤務中退屈しのぎに考えていたことを、30分の退屈しのぎに文章に起こすことを始めた。工場勤務者の御多分に洩れず、私は頭が良くない。私がそれまでに書いた文章なんて、2ページと1行の読書感想文が恐らく最長だろう。四苦八苦しな
文章の最後に「文章が下手ですみません」とか書いてあることがある。これにいらっとする。下手だとわかっているなら書き直すべきだ。下手な文章を読ませるのは失礼な行為であり、読み手の時間を奪う行為でもある。最低でも書き直すべきだし、もっと言えば、上手な文章が書けるよう、日頃から練習すべきだ。 そして、日頃十分に文章の修練をし、当該の文章を十分回数推敲して丁寧に書き上げたならば、「文章が下手ですみません」などという弁明は要らないし、そもそもそんな言葉は出てこないはずだ。自信と責任をもって、堂々と相手に読ませられるはずだ。 要は、「文章が下手ですみません」にいらっとするのは、 日ごろ鍛錬を怠っていて その文章も明瞭に書く努力を怠っていて、 つまり、「文章が下手ですみません」とは本心から思っているわけではないのに、 文章の最後に取ってつけたように「文章が下手ですみません」と書いて許してもらおうというさも
WAIS-何とかって書いてある検査を受けた。 向き不向きを判断したり、知能を見ると言われた。平均値が低いかどうかじゃなく、ばらつきが問題なんだと。 俺は高くて108、低くて94。まぁ正常な範囲だった。 動作性が低くて94、認知力も低めだが、概ね標準らしい。 じゃあ俺は何故困ってるんだ?何が起きてたんだ? 二十歳そこそこまで靴紐が結べなかった。 メモを取りつつ話を聞けない。 そもそも口頭で手順を説明されても理解できない。 できたつもりでいても、とんでもなく雑だったりしてる。 あと地図が読めない。ゲームなんかのちっこいマップもよくわからんし、Googleマップはもっての他だ。グルグル回ると到着かどうか知らせてくれるから、そこが裏口でも有難いが。 俺はアッパー系のコミュ障だから、電話取ることも、かけることも殆ど苦じゃない。ただ、雑に話をされると全く聞き取れなくなる。 俺の感覚的統計によると、七割
“僕のような一介のお笑い芸人でも、自分の生い立ちを深掘りされるトーク番組に出演することはある。そこでは今までの人生を面白おかしく話さなくてはならない。僕は正直それが苦手だ。 厳密に言うと、話すこと自体が苦手という訳ではない。そういう番組に出演した際、さも自分の人生は山あり谷あり、波乱万丈です、と言わんばかりに誇張させられるのが苦手なのだ。なぜなら、僕の人生を振り返ると、全くもって"波乱万丈ではない"からである。” (『僕の人生には事件が起きない』「自分の生い立ちを話せない訳」より引用) ラノベみたいなタイトル ――初のエッセイ集『僕の人生には事件が起きない』が、売れていますね。本屋に行っても品切れ続きで、本の入手が困難でした。 最初に刷った数が少ないんじゃないんですか? 新潮社が俺のことを過小評価しているのだと思いますね。 (同席していた編集者):予想以上だったんです! ――すごく面白く拝
日記と身体つらいとき、日記をつけるだけで落ちつくような気がします。具体的な出来事でも、理由のない不安でも、書き出すだけで違ってきます。頭のなかでもやもやと考えているだけのときよりは、気持ちが楽になるように感じるのです。どうしてでしょうか。 得体の知れない、太刀打ちできない地獄のように感じていたものが、箇条書きにしてみれば、たかだか数行に過ぎないということに、ホッとするのかもしれません。渦中にいるときはわけの分からなかった事態が、後日読み返してみて、ああ、そういうことだったのか、と腑に落ちることもあるように思います。 書くことで問題が具体化され、不安の脱出への道すじがつく、という効果もあるのでしょうか。まとめること、物語として理解することで、気がすむという心の働きも、年齢を問わずあるようです。 生活していると、ままならない理不尽な事態は、定期的にやってきます。経済、健康、他者のほうからやって
モデルやタレントとして活躍する滝沢カレンさんが11月21日、Instagramに自作した唐揚げとそのレシピを公開しました。今回のレシピも個性と独創性が突っ走った文章となっており、Twitterではプロのシェフが「滝沢カレンの唐揚げレシピと比べると何て自分は文章のセンスがないのだろうと落ち込む」と投稿するほど事態になっています。恐るべし、カレンの台所……! 滝沢さんが投稿した唐揚げ(画像は滝沢カレンInstagramから) 滝沢カレンさん(画像は滝沢カレンInstagramから) 滝沢さんのレシピの前に膝を折ったのは、フランスでレストランを営む神谷隆幸さん。神谷さんが見てしまった滝沢さんの今回の献立は和食で、唐揚げと炊き込みご飯、みそ汁、えのき茸に鰹節が入った梅を混ぜただけの苦労知らずの一品(本人談)、ニンジンとほうれん草の誰だって知ってる胡麻和え(本人談)の5品。最後に謎めいたメニューが2
松本健太郎 @matsuken0716 データサイエンティスト/マーケター/ラジオDJ/作家。大阪府出身。ツールベンダ→分析コンサル→報道Tech→EdTech執行役員。マーケティング/データ/消費者理解/行動経済学/心理学/ジャーナリズムが2割、犬が13割。ビジネス書作家で国内18冊海外5冊(紙+電子10万部)出しました。取材の連絡先はDMかウェブサイトへ https://t.co/vMn9oIberU 松本健太郎 @matsuken0716 いま、若手の文章添削しているんですが、 ①「こと」を使うな。 ②「という」を使うな。 ③「もの」を使うな。 例)~ということならば、~というものを、 この3つだけでも、文章はシンプルになる。 2019-11-20 13:40:55
自分はとある二次創作の小説を書いてる人間なんだけど、最近「小説は誰でも書けるよねw」って言われてちょっと凹んでる。 もう15年くらい同人活動してる。二次で書き続けてて、作品が好きとか文章が好きとか言ってもらえたんだけど、その言葉を聞いてから一気に書けなくなってしまった。 確かに誰でも書けるかもしれないし、自分の書いた文章は100人並みだったのかもしれない。 もしかしたら、その発言をした人は本当に誰でも書ける(から気軽に始めてみようよ)って言っただけなのかもしれない。 だけど、自分の心を折るには十分すぎた。 なんでこんなの書いてるんだろうと書きかけのものを全て消した。 誰でも書けるんなら自分が書かなくてもいいんじゃないのか?と思った。 同じジャンルの小説書きのフォロワーが楽しく会話してるのが悔しくなった。 『小説は誰でも書けるよ』と言われるたびに、それでも書きたいから書いてるんだと言い聞かせ
「文章の推敲は、自分一人でやるものだ」と思いこんでいないだろうか? しかし、グループウェアなどのコラボレーションツールを使って「みんなで推敲」すると、文章は、驚くほどよくなる。 「Googleドキュメントを文章推敲プラットフォームとして使う」という、誰でも思いつきそうな、しごく単純なアイデアだが、実際にやってみると、驚くほどの威力があり、新鮮な感動を覚える。これは、集合知を使った文章推敲のイノベーションだ。 この「みんなで推敲」の体験談の発表会が8月30日に開催された。具体的に、どのように「みんなで推敲」が行われ、文章が改良されていくのか、そのプロセスが分かる、たいへん興味深い内容だったので、この記事でまとめる。 今回発表を行ったのは、ふろむださん主催の[面白文章力クラブ]のメンバーの3人。このクラブは、ライティングの初心者からプロまでが集まって「みんなで推敲」を行う場所だ。 わたし自身、
「手紙の書き方」本とは 手紙のやりとりをしなくなって久しい。 いま、家に送られてくる手紙といえば、クレジットカードの明細だとか、税金の通知といった、ペリッと剥がすハガキばかりになってしまったが、ぼくが子供の頃(今から30年ほど前)は、それでもまだ手紙でのやり取りは多少あったように思う。 家の書類がつまっている引き出しを開けると、親がやり取りした手紙がドサッと入っていたりした。 昭和時代の中ごろから平成の初めごろまで、「手紙文の書き方」という本(以降「手紙本」と記述)が盛んに出版されていた。 手紙文の書き方の本 冠婚葬祭における手紙のやり取りの定番フレーズや、各種祝いごと、お見舞いや、近況を知らせる手紙、借金の申込みや催促など、具体的な文章の例文などが一通り載っている。 これらの例文はたいてい、架空の人物の架空のやり取りで構成されているのだけれど、改めて読んでみると、なかなか滋味深い、グッと
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く