「モノが豊かになって心が貧しくなった」を小さく実感 東京ドームシティの「おもちゃ王国」というところに行ってみた。基本的には「有料の児童館」といった趣の場所で、入場するとダイヤブロック、トミカ、プラレールなど代表的なメーカー別のおもちゃがワンサと並んだブースで遊び放題になる。 なーんか居心地の悪いところだなあ……と思った。普通の児童館とはどうも雰囲気が違うのだが、それは「おもちゃが多い」というところから来ているように感じられる。 場内全体に「順番に遊ぼうね」とか「分け合って一緒に遊ぼうね」といった空気がない。これは、おもちゃが多いので、そういったことが必要ないためだと思う。実際、年末年始でかなり混雑していたにもかかわらず、遊ぶおもちゃがない、ということはなかった(フロアのスペースが不足気味だったが)。 だから、おもちゃが多いから奪い合いでケンカになることが(あまり)ない。これはまあ良いことだ
mixiが時々、息苦しく感じられるのはなぜだろうか? 某有名ブロガーと昼飯を喰っていた時、こんなありふれたというか今更な話題になった。 いろいろ勉強している彼の説明を乱暴に一言で要約すると、「コミュニケーションが固定化されるから」だそうだ。 なるほど。で、この説明、何かと似ているなぁ…そうだ。 コミュニケーションは動的平衡(dynamic equilibrium)にある流れである。しかし、mixiではコミュニケーションが不動的非平衡となり、エントロピーが増大し、秩序は崩壊、コミュニケーションの構成員は乱れる、のだ。 エントロピー増大の法則に抗して、秩序を維持し得ることがコミュニケーションの特質である。 エントロピー増大の法則は容赦なくコミュニケーションにも降りかかる。時間や環境、距離その他もろもろの事情によりパートナーは変性し、傷つき、双方は疲れる。 先回りして、やがては相性が合わなく
昭和を騒がせた漢字たち―当用漢字の事件簿 (歴史文化ライブラリー 241) 作者: 円満字二郎出版社/メーカー: 吉川弘文館発売日: 2007/09/01メディア: 単行本購入: 1人 クリック: 28回この商品を含むブログ (20件) を見る本当の読み初めは『ささめきこと(1) 』だが、これは人から借りて読んですぐ返したので今手許に本がないから読み返して感想を書くことができない。面白いマンガだったので自分で買ってもいいかなという気もするのだが、2巻で失速するようだと馬鹿らしいので、しばらく様子見。 さて、『昭和を騒がせた漢字たち』の話。 名著『人名用漢字の戦後史』の著者があの吉川弘文館から出した本なのだから面白くないわけがない、と期待しつつ読んだのだが、事前の予想をはるかに上回る面白さだった。 福井県庁の掲示板に「福丼県」と書いてあるのを見た人が「フクドンブリケンとはけしからぬ!」と怒っ
[今日は最後に大切なお知らせがあります。ちょっと長くなりますが、ぜひ最後までお読みいただければと思います] 「元webプロデューサー」という名乗り方をしていた頃がもはや懐かしい、マイスターです。 マイスターは以前、企業のwebサイトを企画・制作するwebプロデューサーとして働いておりました。 しかし大学院生の時から教育機関の運営の在り方にずっと興味を持っていたこともあり、2004年11月、教育業界で生きたいという決意を固め、大学職員に転職しました。 その半年後に、「俺の職場は大学キャンパス」というタイトルで始めたのが、このブログです。 今日はまず、その辺りの経緯を、ちょっとだけ振り返らせてください。 * * * * * * * * * * 大学は言うまでもなく、私達の社会において非常に重要な役割を担っている組織です。教育、研究、地域貢献、いずれもより良い社会づくりには欠か
どう言ったらいいのかな……趣味に趣味以外の意味を付加されたくない。不純物をなるべく取り除きたい。ネガティブな意味でもポジティブな意味でも付加価値は無くていい。「教養になる」「人生が変わる」「承認欲求が満たされる」「逃げ場所になる」そんなもの全て、知ったことか! とか思う。 もちろん、他人にまでそうしろと言うつもりはないし、僕自身そこまで自由になれているとは思っていない。でも、方向としてはそっちに行きたいんだよね。 「付加価値はいらない。」 そうですね。そんな感じ。 早稲田大学の名物教授の講義をまとめた『ホラー小説でめぐる「現代文学論」』に、文学部に入る者の条件は「他人には絶対に言えないこと」をいくつ抱えているかだ、と述べている箇所があります。 さびしさ、むなしさ、無関心、嫌悪、憎悪、嫉妬、うそ、虚栄心、孤独感、性的関心、破壊欲、消滅願望――それらの「絶対に言えない」ことをたくさん抱えている
「オタクの道」とは何か? 積極的にオタクであるということ。 このあたりを読んで色々と思ったことをつらつらと。まあTwitterでつぶやいてたことをまとめるだけですが。 自意識に結びつける論に常に違和感を感じ続けている者として、強く同意。もちろん自意識に結びついて悪いということはないけども、そうじゃない人もいることを忘れないで。 こんな感じのブクマコメント書いてますが、逆に「ためになる」とか「教養として」とかいう理由をつけられるのもあまり好きじゃないんですよね。 で、社会的評価が高い趣味ほどポジティヴ原因論で説明され、低い文化ほどネガティヴ原因論で説明されることが多い。 たとえば漱石の『こころ』を読んでいたからといって、「あいつ、恋愛で悩んでいるんじゃ?」と心配されることはないでしょう。作品本体の価値が周知されているからです。 ポジティブ/ネガティブという言い方をされていますが、ここを対立す
日立グローバルストレージテクノロジーズは7日、2.5インチHDDで業界最大容量となる500GB HDD「Travelstar 5K500」を発表した。出荷開始は2月を予定。 うわー、2.5インチHDDももう500GBな時代ですか。つい最近、MacBookのHDDを120GBから250GBのに交換したばかりですが、もう倍の容量のHDDが出てしまうとは。2.5インチのHDDはノートPCによく使われているサイズです。 自分で購入した一番最初のPCのHDD容量が500MBでした。500GBと言ったらその1000倍。たった10年ちょいで1000倍の容量になってしまうとは恐るべし。 PCをよく使うようになって10年ほど経ちますが、その間いろんな記憶媒体が出ては消えていくなか、HDDはずっと記憶媒体の中心で居続けました。数年で廃れてしまう記憶媒体に手を出すよりかは、容量が上がっていくHDDにデータを移し
先月にも行ったけど、また京都に行ってきた。 用事はどっちも大したことじゃないし、一回で済ますことも できなくはなかったんだけど、なんとなく2回行ってきた。 出かけるとなると、いろいろ予定を入れたくなるものだが、 あまり気が進まなかったので、ほとんど予定なしでだらだらしてた。 2003年くらいまでこの近くに住んでた。特に何ということもない景色だけど懐かしい。 鴨川。自転車で河川敷をよく走ったな。あの頃はまだシティサイクルか。 様々な情報が頭の中にある。ただ取り出しにくくなっているだけ。 そんなとき、見慣れた景色、聞き慣れた音、馴染んだ匂いに触れると 脳が刺激されていろいろと思い出す。これはタイムマシンなのかもしれない。 今目の前にある景色に、過去の景色がうっすらと重なり始めた。 過去に行くというのは、記憶をたどることではないのか。 過去の景色を呼び覚ます特定の刺激、すなわち懐かしい場所を求め
著者は分子生物学者。昨年6月に出たベストセラーで、すぐ買ったのだが、あまりにも忙しくて読了が遅れてしまった。高校生物の理解さえおぼつかない私の空気頭には難易度が高すぎたが、たいへん叙情的で美しい文章であるため、一気に読んでしまった。野口英世の業績で意味あるものが現代では皆無という話に始まって、分子生物学の歴史を無名のヒーローを軸に描いた部分は、生物学を知らない人でも面白く読めるだろう。 私は子供の頃、生物と無生物のどこか違うのかという点に関心があった。アリをじっと観察していると不思議な気分になる。こんな小さな身体でなぜこんなにも活発に動けるのか?生きているアリと、全く同じタンパク質を人工合成して組み立てたアリの模型との違いとは、一体何なのか?生命と無生物を隔てるものとは?多くの人が一度は考える命の不思議ではないだろうか。 ここで私の頭が良ければ著者のように分子生物学でも学ぶところだが、凡人
以下のエントリを見てすごくすごく悲しい気持ちになったので、感情でエントリを書きます。 モバイルサイトで年収4000万稼ぐ18歳のお話なんですが*ホームページを作る人のネタ帳 さて、4000万稼ぐ方法に対して『そんな紹介はゴミを増やすだけ』は正しいのか*ホームページを作る人のネタ帳 僕はその行為やビジネスが法律的に判例的に既成事実的に正しいかという話をするつもりもありません。ただ、やめて欲しいという気持ちを込めてエントリーを書きます。 それは、学生時代に父が僕に「授業をさぼるな」と言っていたようなもので、従う義務もないし、その言葉どおり行動しなければならないというものでもありません。 まず、「広告は選ぶべき」なんですよね? この言葉が正しいかどうかはビジネス音痴な僕にはわかりません。ただ、この言葉はあなたが Yamada さんが以前ブログに書いた言葉です。 やはり広告を選ぶべき 健全に努力し
『シロクマ日報』でも書きましたが、昨日の日経新聞で、デジタルガレージが Twitter と提携・日本語版+モバイル版開発に乗り出すというニュースがありました: ■ デジタルガレージ、「ミニブログ」最大手の米社に出資 (IT-PLUS) で、シロクマ日報では「これまでのユーザーと新しいユーザーの間に衝突が起きるかもしれない」と書いたのですが、上記記事に対するはてなブックマークのコメントを見ると、その可能性は大きそうです: ■ はてなブックマーク > デジタルガレージ、「ミニブログ」最大手の米社に出資 インターネット-最新ニュース:IT-PLUS 否定的な意見には2つの傾向があり、無理やりまとめてしまうと「デジタルガレージという会社が問題だ」と「現状でうまく行っているものに手を入れないで欲しい」という感じでしょうか。前者についてはまぁ、コメントは詳しい方に期待するとして、後者の意見は心情的に理
あの「はてな村」があるという、はてなダイアリーについてはてな以外のブロガーに説明してみる。 「はてな村」と一言でいっても、その周辺には膨大な「はてな明るい農村」が存在し、各所にはモヒカン砦や非モテロリスト訓練キャンプなどが散在しているので、探検にはそれなりの準備が必要となる。 というわけで今回は「そもそも『はてなダイアリー』ってなに?」みたいなひとのためのガイド。 外見 まず見た目から。 一番上にバーがあって、いろいろ書いてありますが。 非はてなユーザーが見ると、一般的にはこういうふうに見えます。 あるいはこんな感じ。 設定により太いもの、細めのものの二種類があります。これはユーザーが選択しています。 タイトルもしくはタイトル画像がトップページ(最新の日記)にリンクしている場合もありますが、これもユーザーの選択によるもので、とくに意味はありません。 それぞれのボタン類の説明は以下になります
アウトプットとインプットのバランスについて 2008-01-07-1 [仕事] ユニークなことや世の中に認められるようなことをアウトプットする場合は、 必ず「アウトプット<インプット」になると思います。 そうではなくて(職種によりますが)日々の仕事のような どちらかといえば定常的なアウトプットならば、 「アウトプット>インプット」でなければ インプットが無駄になっていると思います。 現在のトレンドや様々なウェブ上のサービスをじっくり研究して 何か新サービスを公開するのは前者(アウトプット<インプット)。 ライフハック本の内容を実行し仕事の効率を上げるのは後者 (アウトプット>インプット)。 それ以外の考え方としては、 インプットは少なくとも、頭の中で熟成し、かつ、 増殖させることによって大量アウトプットする、ってのもありますね。 昔の哲学者とかかな。 インプットの種類と in と out
ホームページを作る人の品格 - IT戦記 あなたが、スパムサイトをこっそりやるのは勝手です。しかし、それを良い事のようにブログに書く理由はなんですか? あなたは、若者が有害なコンテンツを見る事をどう考えているのですか? そのブログの書き方から見て、スパムサイトの存在に警鐘を鳴らす目的だったとは到底思えません。 コメントをありがとう。 そうしたサイトを作ることへの懸念などもブクマコメントで確認できます。 はてブコメント 携帯ユーザーのお問合せ mixiからのリンクが非常に多いため、私のブログには携帯ユーザーが結構います。 彼らからの質問は以下。 『アフィリエイトって何ですか?』 これが現状です。 そもそもお金の流れがわからなければ、それがゴミサイトかどうかなんてわからないと思う。 AdSenseというものを知っている人はAdSenseを知らない人よりもクリック率は低い。 私のブログのコンテン
「ブログを書く際に意識してること - technophobia」を読んで。 ブログを長く続けていると、自分なりのスタイルができてくるものです。 そろそろ1200日になるし、かなりの分量を書いてることになるけど、 それは、これまで少しずつ書いてきたからで、積み重ねのなせる技。 好きなときに好きなところから好きなだけ読めるというスタイルもいい。 ふと、自分がいままで書いてきたブログを振り返ってみると、いつのまにこんなに書いてたんだろう?って驚きます。 雑誌の連載記事なんかとは違って、自分が好きなときに好きなだけ書けるのがブログを使っていて便利なところ。毎日こつこつ続けるようなマメさがなかった私でも、好きなときに好きなように更新できるおかげでブログを続けられています。 読むときにも、記事タイトルにタグ付けしていて関連記事を遡って読むことができるため、気に入ってもらった記事の関連記事をタグで辿って
初めて梅干しを作ってみた話 今年の夏、初めて梅干しを作りました。 私梅干し大好きなんですが、自分で作るという発想がなくて…同僚が梅シロップを作っているのに影響されて去年から梅仕事を始めてみたんですが、そのときの説明書に「梅干しの作り方」というのも入っていて、えーー梅干しって自分…
< 2024年08月 | 12345678910111213141516171819202122232425262728293031 > パソコンに文字を入力すると,画面に文字が表示される。 正直,去年くらいまであまりフォントを意識してこなかった。意識するとしても印刷するときであって,画面に表示されるフォントを気にするのは,ブログタイトルのフォントをどれにしようか迷うとき程度。これは「表示」ではあるけれど,自分以外の人に見せるためにフォントを検討しているという面では,印刷と似たような気持ちが働いているんだと思う。 去年は仕事の関係上,使うフォントが制限されるようになり(文字セットの問題でMSゴシック等では足りなかった),今はIPAフォントをメインに使っている。 →一般利用者向けIPAフォントのダウンロード || OSS iPedia ちょっとかわいげがあって,なかなかいいですよ。 さて。夏
おそらく敏感な臭覚を持っている人なら、容易にそれを嗅ぎ取るにちがいない。登山客が押し寄せる山には死の臭いが立ちこめている。一昨日、中高年登山者の事故に出会ったと書いた丹沢・大倉尾根は普通の登山客が日帰りで上り下りする場所で、決して危ないところではないのだが、それでも事故は起こる。一昨日出会った方も、まさか自分があんな場所で命の危険に遭遇するとは夢にも思っていなかったはずだが、体力や判断力を問われる山という空間、あるいは山登りという行為は、ときに取り返しのつかない気づきを人に与える装置になる。 僕のようにたまにしか登らない者でも事故に出会う機会は少なくないのだから、日本中の山でどれほど多くの事故が起こっているのか推して知るべしだと思う。個人的にも思い出す出来事がいくつかある。 高校2年生のときに山岳部の夏の合宿で飯豊連峰を一週間かけて歩いた。福島、山形、新潟の三県にまたがる飯豊は、標高は2千
はてなブックマークもほとんど使わなくなってしまいました。 ひとつのほうが楽だし、メモ用にはTumblrはぴったり過ぎる。 後は、タグと検索機能さえ備われば、Tumblrはもっとよくなると思う! tumblrはツールとしても使いやすい。bookmarkletですぐにポストできるし(多少読み込みに時間がかかってしまうが)そのbookmarkletですべてのポスト機能にアクセスできる。 気に入ったサイトを見つけた!、気に入った文章を見つけた!、メモしたい! これらはすべてひとつのbookmarkletで作業できる。 blogみたいにいちいち管理画面を開いてポストするよりずっと早い。でも長文をまとめるのはblogが一番よい。あくまでtumblrは情報をメモする場所であると思う。 (読み込みに時間がかかるのがなんとも悔しいところだけど、見た感じだと仕方がないのかもしれない) そういえばTumblrに
スタジオで写真を撮る人にとっては光源をどうするか、どんなライトをどのように配置するかが写真の醍醐味であり、技術が宿るもっとも大きな部分だと思うのですが、私のような素人カメラマンがお散歩写真を撮る際に出来ることの最たるものは構図を決めるという行為です。些細なことには違いありませんが、その瞬間には小さな全能感とある種の責任感が自分自身に宿るような気分になります。大げさに言えば。 さらに思うのは、芸術は自然を模倣もすれば、その過程は人生をも模倣するなということです。何の話かと言えば、私の場合、優柔不断さが写真を作る作業のなかでしばしば顔を出すと感じる事実を指しています。もっともそれを感じるのは撮った写真を選び取る作業の際でしょうか。「この写真はこのフレームだ!」と一発で決まったものは別として、何枚かは似たようなカットのオンパレードという状況になります。そのときになかなか「よし、これだっ!」と決め
写真を撮って「こんなきれいな風景が撮れた」と自分自身がびっくりしてしまい、たわいもなく小さな感動を味わう。写真ブログをやり始めたおかげで毎週末写真を撮りに歩くようになり、そんな日々が続く。この感動は、今の自分の日常をしっかりと支えてくれている大きな要素なので馬鹿にはできない。生き延びるためには、あるいはもっと積極的によく生きるためには、どうしたって日々の小さなゲリラ戦をうまく戦っていかなければならないのだから。 そこでである。最近分かってきたことは、写真においてはうまく撮れたことにはあまり意味がないのではないかということだ。ここが僕自身の感じ方としては絵画と写真の決定的に違うところだという気がしている。絵画の場合、そこにフォルムを定着させる技それ自体に個性、つまり自分自身が大きく宿る。絵を完成させて、うまく描けたときには、だから自分自身の中にある未知の力を引き出せたような気がして感動する。
一般論としてではなく、私のような書き方をしていると、という話ですが、ブログを始めて文章が荒れたなあと実感するところがあります。 その理由は、 ・書き殴る:短い時間にぱぱっと。その癖が付くと気持ちの中に「文章はじっくり推敲して書くもの」という意識が薄れてくる。 ・書き殴る:短い時間にぱぱっと。何かを書こうとパソコンに向かってからテーマやトピックを考えることしばしば。書きたいことがなくても惰性で書く。 ・書き殴る:短い時間にぱぱっと。推敲しない。→ 漢字の間違い、てにをはの間違い頻出。 ・書き殴る:起承転結、それに類する文章の構造を意識しなくなってきた。これは公の文章か、それともプライベートなメモか、日記か。 ・書き殴る:書かなくてよいことを書く。「書かなくてよいことって何だ」ということも、「書かなければならないことは何だ」ということもあまり考えない。これを書き殴ると言わずして何と呼びましょう
フルトヴェングラーだの、ブルーノ・タウトだの、浮き世とまるで縁のないことにこだわってここに書き付けてはいるが、私の実際の日常はタウトを考えることで成立しているわけではない。しかしブログに現れる自分は自分とは思えないような浮世離れな仕方で生きている風情があり、その意味では、本名をさらして書いてはいてもブログに表れる私は作り物の私である。 そして私は嘘つきである。だから、控えめに見ても、このブログに書いていることの何パーセントかは嘘に違いない。さらに言えば、(今現在、少々舵を切り直しているところだけれど)これまで多くのエントリーを「ブログの上でエッセイを書く実験」として綴ってきた。エッセイは、日記とは異なり、日常を素材にした創作の世界である。事実を書き連ねることそれ自体に意味はない。私が書いてきた「僕」はブログのこちら側にいる私ではないということだ。 先日東京大学で行われたワークショップ『ME
先日、関東在住のブロガーの方が訪ねてくださって、一晩色々と語り合った。もちろん、実際に会うのは初めてだった。しかしそれまでのブログを介してのコミュニケーションですでに大きな信頼関係が出来上がっていた。これは体験してみなければ分からないことだと思う。会ってすぐに打ち解けて旧知の仲のごとく話が弾む。そしてお互いのブログ裏話に話は及ぶ。いくら話しても話足りないほどの話題が芋づる式に次から次へと出てくる。当然、会話はお互いのプライベートな話題にまで及ぶ。 考えてみれば、不思議なことだ。『横浜逍遥亭』の中山さん(id:taknakayama)との出会い以来、少なくとも私の場合には数年前には想像だにしなかった出会いがこうしてまた生まれた。その中山さんはあるエントリーで、ブログとはネット上の「井戸端会議」みたいな面があって、そこでの有形無形のコミュニケーションが人生の活力源にもなると書いていた。その通り
CNET Japanの佐々木俊尚さんのコラムで「ブログ限界論」をめぐって集まりがあり、当日の会合もそれに前後するブログ界隈でもそれなりに盛り上がったのを知る。佐々木さんの文章や徳力基彦さんのブログなどでその様子を想像することができる。そもそもの発端は、ここにあるRTCカンファレンスの案内 にある一文「最近ブログつまらなくないですか?」のようだ。 片や米国などに目を向けると、従来型メディアを凌駕する勢いでユーザーを集め続けるブログが多数存在し、ブログメディアを媒体とする広告市場なども日本の数百倍の規模にまで膨れ上がっています。この差はいったいどこにあるのでしょう。 そもそもブログをマスメディアの文脈で理解しようとするこの問題設定は、問題設定自体がブログの発展を考える姿勢としては違っていると思う。僕も自分がブログを始める前、始めた当初は1対多のマス媒体を個人で始めたつもりが強かった。しかし、し
このブログを始めた最初の最初のきっかけが何だったのかは忘れてしまったが、「誰彼もすなるブログといふものを、我もしてみむとてするなり」と思ったことは確か。しかし、いったいどんなものか、やってみなければ分からないこともあるだろうからと書いてみる気にはなったものの、さて、さっぱり作法が分からない。「はてなダイアリー」を選んだこともあるだろう、最初は非公開にしてときどきほんとに日記を書いていた。誰に見せるつもりもなくである。 途中からとりあえず「公開」にして、「小エッセイを短い時間で書く練習」と目的をそんな風に定め、書き続けた。ところが最近は、エッセイやコラムのような様式に書くものをはめる意識が少々後ろに下がり気味で、ここしばらくは、むしろまた日記を書くような気分で綴り始めている。出来てくる文章には無駄も破綻も間延びもあるかもしれないが、形式を整えようとする意識妨げる別の何かがひっかかってくる時も
佐藤優の著作は多くの人が褒め、ブログでも「面白い」というコメントを多数見るが、これといった理由もなく一冊も手にしたことがなかった。『国家の罠ー外務省のラスプーチンと呼ばれて』が文庫化されたのを横浜の有隣堂で見つけてようやく読むことになった。 “外務省のラスプーチン"と呼ばれていた佐藤優が、同省をめぐる一連のトラブルに連座するかたちで役所を追われ、鈴木宗男とともに逮捕された一件は新聞が伝える範囲である程度の知識がある。その後、釈放された彼が『国家の罠』以降の著作を発表し、なんだか悪者扱いされていたはずなのに、オセロの駒をひっくり返すようにマスコミ、インテリの支持が広がっている様子もなんとなく見聞きしていた。『アエラ』に特集されているのも読んだし、この1、2年の間に、この人の書いたものが書店の棚で増殖を続けているのも知っていた。 それだけ気になっていながらも今まで読む気にならなかったのは、なん
「専門性」というのは重要な要素です。 しかし、その「専門性」というのは意思次第で途中変更が可能なのではないかと思います。 世の中にいる「専門家」の「専門性」は、いつ身につけたものなのでしょうか? 例えば、大学の4年間でたまたま所属していた学部や研究室で得た「専門性」が基礎になっているかも知れません。 または、最初に入った会社での最初の3年間に得た知識が「専門性」の基礎になっているのかも知れません。 その後の「経験」による「専門性の深さ」というのは最初に習得した「専門性の基礎」に対する肉付けである気がします。 そう考えると、2年ぐらい本気で取り組めば全く異なる分野に対する「専門性」は習得できるのではないかと思われます。 例えば、0の状態からどこかの大学院に入学して2年間苦労すれば、その分野の「専門性」に対する基礎は身に付くと思います。 例えば、全く違う業界に転職したとしても、2年ぐらい頑張れ
YouTubeの心霊動画&心霊写真 http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/occult/1182077841/ YouTubeの心霊動画&心霊写真 part2 http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/occult/1185952749/1 YouTubeの心霊動画&心霊写真 part3 http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/occult/1188322086/l50 セミナー・キャンプ http://www.youtube.com/watch?v=31N8klrGUB8 廃屋の住人 http://www.youtube.com/watch?v=f9mgk1JjJrY 湯灌(ゆかん) http://www.youtube.com/watch?v=oK3mhxXCDsA シー
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