交響詩篇エウレカセブン挿入歌 : STORY WRITER
震災から間もなく三ヶ月。思うところあって久しぶりに書いてみる。 改めて亡くなった多くの方々のご冥福を祈りたい。そして今もなお、数万人の方々が避難所や倒壊した(しかかった)家屋で不自由な生活をし、また原発事故で住み慣れた土地を離れた方もいる。福島第一原発の行方は未だ不透明。復興は長い道のりになるのだと改めて思う。 津波ですべてが流されてしまった町の写真や映像を見るたびに、自分ならば「一体、この町を、そして自分の生活をどうやって立て直すのか」と途方に暮れてしまうと思う。あるいは町の景色は以前とかわらないのに、目に見えない「放射能」という厄災で故郷を離れなくてはならない理不尽さ。 正直なところ、自分がその立場なら正気を保っていられたかわからない。その想像をするだけで、今いる自分の足下がぐにゃりと崩れてしまうような気持ちになる。 思うところは沢山ある。だけど僕がにわか仕込みの知識で震災復興や節電方
朝のNHKニュースで、8歳くらいの少年が、数日かけて全行程320km走る自転車ツアーに参加して完走したと紹介されていた。何でもすぐに諦めてしまって長続きしない性格を鍛える趣旨だそうだ。本人による、お兄さんのような---6歳のとき交通事故で亡くなられたとのことだが---優れた人格になりたいとの趣旨の発言もあった。 走行シーンをみて、かわいそうにと思った。自転車的に間違える可能性のあるポイントはすべて間違ってるんじゃなかろうかと思った。大きすぎるマウンテンバイクに乗せられ、映画のイージー・ライダーみたいな姿勢で走らされていた。タイヤはブロックタイヤで、チェーンやスプロケットはずいぶん黒く汚れているように見えた。ヘルメットは通気穴もなく重そうな通学用白ヘル、手袋は軍手だった。水筒を持っている様子もなかったが、リュックにハイドレーションシステムを仕込んでいたのだろうか。 あれでは自転車も重くて走ら
ブルベ入門 (再入門編)自転車で走る200キロ、300キロ、400キロ、600キロ、1000キロ、そして1200キロ。 スポーツであり、アドベンチャーであり、そして旅でもある「ブルベ」(オダックス)についてのブログです。 膝故障による4年のブランクを経て、2014年5月に自転車再開しました。 11日になった。 12日は仕事。帰宅できない予定。 13日も仕事。深夜帰宅。 14日に出発。 今日、準備を完了させねばならぬ。 ■荷物 自転車の箱詰めはおおむねできた。 が、輸送中の動きからリアエンドを護るもう一工夫をしたい。タオルぐるぐる巻きかなー。 最寄り駅と空港の間の電車が、ちょっと有り得ない感じなので、ヤマトで送ることにした。 夕方に集荷。 あと、持ち物を揃えてカバンに詰める。 ドロップバッグ用の荷物も揃えてカバンに詰めて、発送する。 用意してくれている仮眠所に寄るかどうかわからないから迷った
山肌を吹き下りて来る冷たい風が、僕の首根っこを掴んで坂道から引きずり降ろそうとしている。 ペダルが重い。目の前の斜度はおそらく6%程度。それほどきつい坂ではない。だけど僕はまるで不動峠ラストの10%看板の前を行くがごとく、左右の足を泥沼から引き抜かねばならなかった。物凄い風がヒルクライムの難度を上げているのだ。 気を抜くとサイコンには一桁の速度が表示される。ケイデンスは50以下。 なんてこった。インナーローが39-23Tじゃ重すぎだ。もうギアがないのは解っているのに何度も右手がシフターを押し込もうとしてしまう。 来年は25Tを付けてくるか。いや待て、おまえの目標は40分切りだろう。平均速度19キロ以上でこの道を駆け登ろうとしている奴が最初から敗北宣言に等しいギアを付けてどうする。 コースの半ば、殺生河原を過ぎるまではほぼ計算通りだった。渋滞を避けるため、最前列からスタートし早い人のトレイン
ことしもSRメダル申請の季節がやってきたわけだが、遅い時間に今年分のブルベカードを引っ張り出してきたら、なんだか当時の記憶がよみがえってきてしんみりしてしまった。サインとPCの場所、通過時刻が書いてあるだけなのだが、不思議なものだ。(AJ宇都宮は特製?シールが貼ってあってにぎやかだけれど) 今年は結局200km、300km、400kmをそれぞれ2回ずつ、600kmを1回走った。そのうち3回はAJ宇都宮にお世話になった。あと1回、600kmを走っていればいわゆるダブルSRだったことにになる(今年からメダルは一人一枚になったようだけど)。少々予定を入れすぎた感もある。最初の埼玉200kmなんて、もう遠い昔のことのようだ。路肩にまだ雪が積もっていた。今年は個人的にいろいろあった年だったので、その時々の記憶がブルベとバインドしているのだろうな。 過ぎてみればあっという間のようでもあり、そしてこの1
“受け継がれる意志”“時代のうねり”“人の夢” これらは止めることのできないものだ 人々が自由の答えを求める限りそれらは決して――止まらない というのは有名な漫画のロマンあふれる語り文句なのであるが、 なぜこんな旅行をするのかと言われるとそこにロマンがあるからである。 自転車で世界一周というのは自転車乗りの、旅行者のロマンなのだ。 宗教と言ってもいいかもしれない。僕にとっての宗教はいつの間にか自転車で世界を走ることになっていた。 昔から一人で海外旅行していたが、何回か回数を重ねるうちに「こんなもんか」と思い始めていた。 もちろんわくわくするんだけども、バスで世界遺産を見に行くような旅行は僕にとって冒険ではなくなってしまっていた。 それは社会生活も同じで、何年か忙しく働いていたら「まあこんなもんか」というラインができていた。 目の前の忙しさをずっと追っていると他の何もかもが半端になり、出世し
僕が「あー走りてー」とかき立てられたブログのエントリーはこちら。 4つのサイクリングロードをつないで日本海へ - Blue-Periodさんの日記 ツーリング日記を書く人は多いけれど、これほどブクマされたエントリーはそうそうないんじゃないだろうか。うまく言葉に出来ないけれど、このエントリーには「オレも走りたい」とかき立てるものがあった。自慢(自虐?)じゃないけど、ロングライドに関して僕はすれっからしだ。大抵のツーリング日記は「ほー」と思う程度だ。でもこのエントリーにはかき立てられた。「あーオレも走りてー」と。なんでだろう? ブクマした多くの人もきっとそう感じたはず。写真もステキだ。 Blue-Periodさんのブログは、数ヶ月前にはてなの自転車ブログをあれこれ見ていて辿り着いた。そこで彼が初めてロードで走った時のエントリーを読んだ。少し引用させていただく。 使い方を覚えたサイコンのボタンを
2023-12-18【お詫びとお知らせ】 2023年10月30日発売の「情熱のロードレース vol.9 SHIN MORIWAKI BOOK(ヤエスメディアムック841)」におきまして、編集上の不備が複数確認されました。 それに伴いまして、「情熱のロードレース vol.9 改訂版 SHIN MORIWAKI BOOK(ヤエスメディアムック866)」を2024年1月13日に発売いたします。本ムックは、修正を加えた「改訂版」となります。すでに「情熱のロードレース vol.9 SHIN MORIWAKI BOOK(ヤエスメディアムック841)」をお買い上げの方は、訂正版と交換いたします。お手数ですが問い合わせフォームよりご連絡ください。読者の皆様、関係各位には大変ご迷惑をお掛けしました。謹んでお詫び申し上げます。
昨日、関西地方は梅雨明けした途端、猛烈な暑さだ。 帰宅後、軽くロードバイクで夜ポタをする。猪名川堤防道路周回ばかりでは飽きるので、今宵は仁川住宅街坂道、上ケ原浄水場などを走る。適度な上りで、街の灯りも見えて夜風が気持ちよい。 ふらっと走って18.99Km 今日でBASSO Viperに出会って2年が経過する。 2007年8月4日から乗り始め、 2007年8月4日〜2008年8月3日の全走行距離 6308.5Km 2008年8月4日~2009年8月3日の全走行距離 8853km クロスバイクTREK7300での1年間の走行距離が約2500Kmほどだったことと比べると、ロードバイクに乗り始めてやはり距離が伸びている。エンジンは相変わらずポンコツなので、ロードバイクは私のようなロートルでも「道の向こうへ」誘ってくれるツールなのだろう。 54歳でロードバイクに出会い、遅れてきたロードバイク乗りとし
1948(昭和23)年、県内で開かれた第1回自転車早回り競走の優勝者、内山昭二さん(79)=前橋市昭和町=にお会いすることができた。 当時の記事で膨らんだ疑問を内山さんに聞いてみた。団体よりも個人がなぜ速かったのか。 60年近く前の大会を、内山さんはしっかりと記憶していた。大会には、当時の北野重雄知事が出席。スタートは県庁前、ゴールは県庁前通りの当時の上毛新聞社本社だったことなど―。 内山さんの乗った自転車は、競輪選手が乗るピスト。「全速力を出すと60キロくらいは出た」という。実家が自転車店だった内山さんは、競技用だった。一方、団体チームは実用車。車体の重さ、性能が大きく違った。 内山さんは46(昭和21)年、群馬師範(現群馬大教育学部)の学生の時、奈良で初めて開かれた第1回国体に出場、自転車競技3種目で2種目で2位、1種目3位の好成績を残した。翌年の金沢での国体では2種目で1位と大活躍し
2005年11月3日。今日みたいな曇り空で寒い日とは違い、その日は抜けるような青空が広がる、絶好の自転車日和でした。その前日に生まれて初めて買ったスポーツ自転車、スペシャライズドのシラスに乗って、10時頃に天神橋5丁目の自宅をスタートした僕は、淀川の河川敷へ出て、一路枚方方面に向かって走り始めました。 散歩やジョギング、草野球にサッカー、アメフト、ラグビー、釣り、ピクニックなどなど、思い思いに休日を楽しんでいる人たちを眺めながら、見晴らしの良い景色の中をスポーツ自転車で軽快に走るのは最高の気分で、すぐに「これは俺、一生の趣味を見つけたぞ」と思い始めました。 そのままどこまでも走っていきたい気持ちになり、けっきょくお尻はかなり痛くなったものの、大学時代に住んでいた枚方の牧野まで、初日にしては上出来の往復50km以上を、ほとんど無理なく(それまで2カ月間、週3~4回はジムに通っていたのが大きい
今朝、ランドナーを捨てました。 19歳の時に出会ったあいつは、僕を新しい世界へと誘ってくれた。 キャンプ道具を積み込んで時速20㌔で走る旅のよろこび。 憧れの峠まで自分の足で高度を稼いでゆく高揚感、その先にある見たことない景色。 時に雨に打たれ、空腹に倒れながら、旅先で触れた人のやさしさ。 今でもあの美しいシルエットの向こうに友人たちと紡いだ数々の思い出が蘇ってくる。 山登りへの道を拓いてくれたのもランドナー。砂利道を行けども着かぬ登山口。 でも、そのしんどさ以上の興奮があの頃の「山」には確かにあった。 就職してから暫くは自転車に乗ることも無く、一時期通勤に使ったくらいでここ数年は部屋の外に置き去りにしていた。 再びあいつに乗ることも無いだろうと思い、今朝ごみ置き場にそっと置いてきた。 夕刻、仕事からの帰り道、ひょっとしてまだ残っていないかと気になってごみ置き場を回ってみたが、そこにはもう
シゴト上の嫌な事が最近多い。 取引先との関係ではなく、経営者との関係だ。 今の職場に移ってきて12年半。 今まで何人もの同僚や上司が去った。 自分も2度ほど・・・。 シゴト内容には異存はない。 収入が低すぎる事と、経営者の考え方との 隔たりが大き過ぎるのだ。納得出来ない。 でも外に移る充てもないので動けないという 情けない状況なのだ。良いようにされ続けて はや12年。先の見通しが暗すぎて不安だ。 ある事情があるので良いようにされる方が 幸せなのかもしれない。大して苦に思わなければ 時間は流れなるようになるものだ。 様は自分をごまかして上手に生きれば良いのだろう。 そうする為にも休日は貴重な時間なのだ。 自分らしく生きる為に精神浄化を計らねばいけないのだ。 走れる限りボロボロでも行くしかない。そう思うのだ。 26日はよしさん達9名で淡路島を走るのだが どんな時間を過ごせるか楽しみだ。 うむ~
高校のときも10kmぐらいの距離を自転車通学していたり、昔からママチャリで結構な距離を走ってましたが、スポーティな自転車に毎日乗るようになってから生活の質があきらかに変わってきています。たとえばこんな感じ。スカートでは乗れないので、服装は基本的にカジュアルになる 服にお金がかからなくなる年相応の落ち着きがなくなるので若く見られるでもあまりうれしくはない終電情報に疎くなる これは昔から深夜の外出が苦にならない これも昔からだけど通勤に電車を使わないので携帯ゲームをしなくなる本や新聞もあまり読まなくなる 本に関しては意識して自宅で読むようにはしているそのかわり、あるテーマについて突き詰めて考えることが増える街中に自転車で行くのに抵抗がなくなった フォルムのきれいな自転車ならオシャレ圧力にも負けない単にカッコつけているだけかも単独行動が増える 待ち合わせせずに現地で合流、というパターンが身に付く
2007/09/30 3回忌 (10) テーマ:自転車(13031) カテゴリ:自転車の話とか 今日は実家で父の3回忌法要でした。 父が亡くなったのは2年前の10月11日ですが、実は僕にとって、父の死と自転車を始めたこととは大きなつながりがあります。僕が自転車を始めた理由は健康とダイエットのためですが、それは父を亡くしてからまだ1カ月も経っていない、2005年11月3日のことでした。(自転車を買ったのはその前日) その年の6月に僕と母は病院に呼ばれ、父が末期ガンで、もうあまり長くないことを知らされたのですが(その時父は66歳)、実はその時、僕の体重は今より10kg以上重く、体脂肪にいたっては30%を超える完全なデブだったんですよね。 そのころの僕は暴飲暴食の毎日で、どちらかといえば健康のために何かするなんてカッコ悪いとすら思っていたところがあったんですが、さすがに自分の父親が確実に死に向か
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