昨年に「システムと個人」というのを書いている。学校がいかに狡猾なシステムか、という内容だ。(そういえば、この内容は、内田先生が、教育とは、共同体を形成する大人のためののものだ、と、根幹で重複している。)もともと、学校というところには、「個性」が入り込みやすいところだったということも書いた。 今回は、もう少し、広く、学校に個性が入り込んできた理由を書く。(単純な内容です。) システムは、完成度が高いほど、その中に存在する「個」の特性を抹殺する。どんな分子が入り込もうと、システムは何事もないかのように回り続ける。村上春樹がイスラエルで行ったスピーチで、強固な壁、壊れやすい卵と表現した理由も同じだと思う。我々は、すべてが「こわれやすい卵」である。だから、卵に寄り添ってくれるものは善であるととみなされる。だって、私たちの「味方」なんだもの。対する、「システム」は悪者である。だって、私たちの存在を認
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