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2015年5月1日のブックマーク (1件)

  • 江藤淳と大江健三郎 戦後日本の政治と文学(小谷野敦) その2 - KAZUO NAKAJIMA 間奏

    繰り返せば、その時「政治と文学」の二項を媒介したのが、「人民戦線=青春」だった。ここにおいては、中野重治が転向して私小説を書くことも、小林秀雄が「私小説論」において、私小説をマルクス主義のタームで捉えることも、すべて「同心円」の中で矛盾なく捉えられることになるだろう。この時、私小説は、「純粋性のシンボル」として、マルクス主義=政治からの「転向」としてではなく、それと等号で結ばれるもの(「代補」と言うべきか)となったのである。 「いまでも私には小林多喜二の『党生活者』と嘉村磯多の『途上』とは、ほぼ同質のものとして残像している。というより、党に殉じた小林多喜二の生涯と純文学に礒じた嘉村磯多の生涯とほぼ等価で結びたい気持がつよいのである。」(「私小説共産党」) 話を戻せば、書評に書いたように、書から読まれる江藤の像は、『成熟と喪失』以降、私小説から遠く離れて(小谷野は、『成熟と喪失』を江藤の

    江藤淳と大江健三郎 戦後日本の政治と文学(小谷野敦) その2 - KAZUO NAKAJIMA 間奏
    hhasegawa
    hhasegawa 2015/05/01
    青春と等置される人民戦線の実態がすでに「サブカルと戯れるゆるふわな日常」(『暗い絵』や『死霊』)であったと考えることはできないだろうか。『サブカルチャー文学論』の起点は平野謙でもよかった、ともいえる。