反博 ――反戦運動の試行錯誤 (『現代の眼』 69年10月号より) 針生一郎 ハンパク、つまり、「反戦のための万国博」の計画を、わたしが最初にきいたのは、ことしの二月ごろだったと思う。もともと、反戦運動を文化創造の一環としてとらえ、フォーク・ソング、詩、演劇、絵画、映画などをふくむ、「反戦フェスティヴァル」を何度かもよおしてきた南大阪ベ平通の若者たちが、七〇年に大阪でおこなわれる万国博にたいして、反戦の立場からの真の文化を対置しよう、と考えたのが発端だった。この提案が関西ベ平連や東京ベ平連で検討されて、哲学者山田宗睦を代表とする反戦万国博協会、略称反博協会がつくられたとき、全体の構想はほぼさだまったらしい。 とりわけ、万国博協賛の名目で、八月七日から五日間、大阪城公園の一万坪の敷地を、大阪市から借りることに成功したのが、ヒョウタンからでた駒のように、具体化のきっかけとなっ