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2013年5月23日のブックマーク (47件)

  • 再びウンベルト・サバの詩 : あ わ じ 農 事 日 誌

    先日、まゆみさんからのコメントに、 「無条件に愛情を注いでいる神に近い存在のおちびちゃん」(娘のこと)という表現がありました。 まゆみさんは、世間がそうするような形での「神」、という形容をされる方では決してなく、 まして「神(カミ)」という名詞・表現について語源まで遡って、重層的な考察をされているの方なので、 コメントのその表現に、とても感慨深いものがあって、 そういえば、最近また読み直しているウンベルト・サバの詩にも「カミ」という表現があった、 と思いだして、今回再び、サバの詩を引用したくなりました。 このサバの詩は、先日少し書いたけれど、私のなかで勝手に「フィッシュマンズ」と非常にリンクしています。 とくに昔、 知らないでいること・出来ないでいることに対して引け目なく生きているかに見える、 子供や犬のように生きることができたらどんなに良いだろう、というようなことばかり考えている最中、

    再びウンベルト・サバの詩 : あ わ じ 農 事 日 誌
  • 筑摩書房 マラルメ全集 全5巻

    フランス象徴主義を代表する詩人にして理論家、文学の根源へ秀徹した眼を注ぎ、二十世紀文学の行方に決定的な衝撃を与えた文人の、詩・批評書簡を初めて集大成。 A5判   JANコード9784480790002 定価:体92000円+税 詳細を見る 内容見 文学芸術作品の極北に煌めく詩、哲学的小話「イジチュール」、「賽の一振り」などを、 最高のスタッフによる翻訳に、詳細な註解を付しておくる。 A5判   800頁   刊行日2010/05/13発売 JANコード9784480790019 定価:体19000円+税 死の前年に刊行された、マラルメの壮麗な文学・演劇理論のエッセンスを集めた散文集 『ディヴァガシオン』を中心に、『ヴィリエ・ド・リラダン』『音楽と文芸』などの 生要散文作品を収める。 A5判   552頁   刊行日 JANコード9784480790026 定価:体19000円+税

  • ブレーズ・サンドラール - Wikipedia

    ブレーズ・サンドラール ブレーズ・サンドラール(Blaise Cendrars, 1887年9月1日 - 1961年1月21日)は、スイス出身でフランスに帰化した詩人、小説家、旅行家。名はフレデリック・ルイ・ソーゼル(Frédéric-Louis Sauser)。他にも複数のペンネームを持つ。 スイスのラ・ショー=ド=フォンに生まれる。10代半ばで学業を放棄して、ロシア中国、ブラジルなど世界各地を放浪、最終的にパリを活動の場所とし、創作活動の傍らマルク・シャガール、フェルナン・レジェ、アメデオ・モディリアーニなどの文化人と交流した。1912年にアメリカ合衆国で発表した長詩『ニューヨークの復活祭』は、アポリネールにも影響を与えたとされる。第一次世界大戦の際にはフランスの外人部隊に入隊するが、1915年に右手を失う重傷を負う。翌年フランス国籍を取得、1919年には処女詩集『全世界』を発表す

    ブレーズ・サンドラール - Wikipedia
    inmymemory
    inmymemory 2013/05/23
    1912年にアメリカ合衆国で発表した長詩『ニューヨークの復活祭』は、アポリネールにも影響を与えたとされる
  • オスカル・ミロシュ - Wikipedia

    オスカル・ミロシュ(フランス語:Oscar Vladislas de Lubicz Milosz, リトアニア語:Oskaras Milašius, 1877年5月28日 - 1939年3月2日)は、リトアニア系フランス人の作家。ただしリトアニアで生活したことはない。出身地でありまた幼年時代を過ごした地はベラルーシのマヒリョウ(Магілёў)近郊の町ツェレヤ(Черея)。パリの名門校リセ・ジャンソン・ド・サイイ(Lycée Janson de Sailly)を卒業。フランス政府がリトアニアの独立を承認した1920年に、ミロシュはパリのリトアニア大使館で文化アタシュに就任。リトアニアの民間伝承を収集し、小説、戯曲、エッセーをフランス語で書いた。詩人チェスワフ・ミウォシュの従兄である。 作品リスト[編集] Le Poème des Décadences, Paris, Girard et

  • 青土社

  • ガイウス・ウァレリウス・カトゥルス - Wikipedia

    ガイウス・ウァレリウス・カトゥルス(ラテン語: Gaius Valerius Catullus, 紀元前84年頃 - 紀元前54年頃) は、共和政ローマ期の抒情詩人。恋愛詩に優れた。『歌集』(Carmina) が残る。 カトゥルスの恋愛詩は多くはレスビアという女性にあてられているが、これは仮名であり、実名はクローディア・メテッリという貴婦人であると広く信じられてきた。カトゥルスはギリシア詩壇の影響を受け、精緻な修辞を用い、遊戯的な手法により軽妙な筆致で恋情を歌う詩風により、初期ラテン文学における恋愛詩の分野を開拓した。「私のレスビア、共に生きよう、そして愛し合おう」で始まる『歌集』の第5歌はとりわけ有名である。 文献[編集] 『ローマ恋愛詩人集』(中山恒夫訳、国文社、1985年) 画像[編集]

    ガイウス・ウァレリウス・カトゥルス - Wikipedia
  • Haizara-Cho::Suigara-yama 383[Akiko Takata] :: イタリアの詩人たち    須賀敦子

  • イタリア現代詩の部屋

    V わたしは甘美に燃える 灯りだ! より孤独で、より遅い時間に、 より悲しい、重苦しく、 より善良な影で、兄弟よ! わたしが、もの思う 子供の上に、 祈る母、泣く揺りかご おしゃべりする卓 沈黙する石棺の上につらされた灯りであれかし。 わたしの純潔な炎は 遠くから、大地を踏みしめて 夜進み、心で泣いている放浪者に 人生の青白い道を照らす。 彼は立ち止る。が、私の光線が、 優しいたましいの中に燃えるのを見て、 暗い旅路を再開した、 歌いながら。 (訳者妄言) パスコリの詩の最終連。人生を行く旅人を照らす灯りとして「詩」は描かれている。パスコリは、詩の果たす役割に強い自負心を持っていたことがうかがえる。 原文は、 Io sono la lampada ch'arde soave! nell'ore più sole e più tarde, nell'ombra più mesta, più

    イタリア現代詩の部屋
  • 翻訳詩

    翻訳(イタリア現代詩選集) 佐藤三夫氏が現代詩フォーラムに発表された「イタリア現代詩選集」の1~75までを収めました。 イタリア現代詩選集(1) 97/02/07 02:21 イタリア現代詩選集(1)/ 佐藤 三夫訳 [たそがれ派(Crepuscolarismo)] グイード・ゴッザーノ:相違 (Guido Gozzano: La differenza) ぼくは思いまた思い返す---いったい 川岸に鳴く鵞鳥は何を思うか 幸せそうに見える 冬の夕暮に 頚をのばし しゃがれた歓声をあげて 跳びはね羽ばたきをしもぐりたわぬれる 死ぬべき身の上を夢みたりしないし 近いクリスマスのことも料理人の きらめく包丁のことも夢想しない ああ鵞鳥 ぼくの純真な妹よ 死が存在せぬことを教えてくれる ひとは思ったことにより死ぬだけだと だがおまえは考えない その運命(さだめ)は すてきだ 料理されるのは悲しくなく

    inmymemory
    inmymemory 2013/05/23
    佐藤三夫氏が現代詩フォーラムに発表された「イタリア現代詩選集」の1~75までを収めた
  • Literary Republic UTOPIA

  • http://homepage3.nifty.com/UTOPIA/Archive/Utopia3/Criticism3.html

    わが国の近代詩が西洋の詩の模倣によって出発して以来、われわれは西 洋における詩の流行変遷に対して実に敏感に反応してきた、たとえその反応 がつねに末梢神経的であり、歪曲されたものでしかないとしても。しかしわ れわれは西洋の詩の枝葉を見て、その根や幹を等閑に付してきたと言えない であろうか。いく世紀ものながい伝統を通して鍛えられてきた言語芸術を、 われわれはその伝統を無視して安易にその皮相のみを受けいれてきたのでは ないであろうか。しかもわれわれは言語の決定的相違を飛びこえて、詩の意 味や思想のみを問題にしてきたのではなかろうか。しかしかかることこそは 詩において許されえない撞着的理解である。しかもわが国の近代詩をして、 散文と詩との混同、詩の観念のあいまいさ、狂気じみた言語の混乱、散文へ の隷従という道を歩ませたことなのである。 実際、現代詩は散文芸術に圧迫されて瀕死の状

  • フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ - Wikipedia

    フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ(イタリア語: Filippo Tommaso Marinetti、 1876年12月22日 - 1944年12月2日)は、イタリアの詩人、作家、批評家、未来派のオーガナイザー。 生涯[編集] エジプトのアレクサンドリアで生まれる。最初はフランスで活躍する象徴主義の詩人だったが、アルトゥーロ・ラブリオーラ、フィリッポ・トゥラーティ、ワルテル・モッチ、アンナ・クリショフなどの社会主義者と親交を持ってから政治に関わりだし[1]、イタリア社会党の群像劇を描いたLe Roi Bombanceではラブリオーラから称賛を受ける。1908年に出版されたジョルジュ・ソレルの「暴力論」と自動車事故の体験に影響を受け、翌年の1909年、フィガロ紙にフランス語の「未来派宣言」[2]を発表した。1910年の公演で「世界で唯一つの健康法ー戦争よ永遠なれ!」と観衆を挑発して逮捕され

    フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ - Wikipedia
  • コレスポンダンス

    〈 CORRESPONDANCES(フランス語、コレスポンダンス)〉などと言うと、 「文通」のことかと思われる方が多いのではないだろうか。確かに、そ れで間違いはないのだが、私がこれからお話ししようとしている〈コレ スポンダンス〉とは、色彩と音響と香気との間の呼応のことなのである。 さよう、〈コレスポンダンス〉には「照応、呼応、調和」の意味もある のだ。 ここで、察しのよい方は、シャルル・ボードレール(1821〜67)やア ルチュール・ランボー(1854〜91)の詩を思い浮かべるにちがいない。 ボードレールは、詩集『悪の華』の中で次のようにうたっている。 《夜のごと、光のごとく、底ひなき、/暗くも深き冥合の奥所なる、 /聲長き遠つ木魂の、とけ合ふとさながらに、/匂ひと、色と、もの の音と、相呼び合ふよ》(堀口大學訳)。 しかし、これだけでは何のことやら一向にわからぬ

  • 黄昏派とは 読書の人気・最新記事を集めました - はてな

  • 想い人 - かぐやの月語り

    好きな作家は誰ですか? 時にそう訪ねられたりします 好きな詩人は誰ですか? そんな風に訪ねられたりもします さて・・ 三好達治氏 中原中也氏 立原道造氏 大手拓次氏 この辺りまでは・・順当 正当派でしょうか ここからです・・ 銀色夏生氏の処女作品の頃 とか 梅田みか氏のコメント 片岡義男氏の角川書店で出ているラインナップとか それと・・・ 偶然の出会い 一生の出会い たった一冊しか手に入らなかった詩集 河崎征俊氏 『夜へむかう陰影のオード』 1944年生まれ 今は何処かの大学の教授をなさっているのか・・よくわからない人・・ でも ある日私を呼び止めるかのごとくこのは 私の手中に届いた 他の作品も読みたいのに もう 私の手に落ちることが無い 私の想いひと・・ 一節を・・ 『変わりゆくものより』  から 昨日失った想いでに ただ生きるものの 限りある抵抗の つぶやきの。 あの娘が消えた あの

    想い人 - かぐやの月語り
  • 河崎征俊とは 読書の人気・最新記事を集めました - はてな

  • エレジー - Wikipedia

    エレジー(英語: elegy)は、悲しみを歌った詩などの文学作品、楽曲。日語では悲歌(ひか)、哀歌(あいか)、挽歌(ばんか)などと訳される。 古代ギリシアのエレゲイア(ἐλεγεία / elegeia)に由来するが、エレゲイアは特定の韻律を持った二行連で笛による伴奏とともに歌われるものを指し、必ずしも悲しい内容を歌ったわけではない[1]。 古典詩[編集] 古代ギリシア語のエレゲイアはエレゴス(ἔλεγος)という歌と関係し、古代ギリシア人はこの歌の起源が死者に対する哀悼歌であると考えていた。しかしながら現存するエレゲイアの主題にはさまざまなものがあるにもかかわらず、哀悼を内容とするものは存在しない[2]。哀悼歌としてはトレーノス(θρῆνος)などの別のジャンルがあり、ピンダロスやシモーニデースの作品が知られる。 古典詩のエレゲイアの詩形、つまりエレゲイオン(elegeion, Ele

    エレジー - Wikipedia
  • 現代詩花椿賞 - Wikipedia

    現代詩花椿賞(げんだいしはなつばきしょう)は、資生堂がメセナの一環として主催していた、現代詩の詩集を対象とした文学賞。毎年その年度(前年9月1日~当年8月31日)に発行されたすべての詩集の中から最も優れた詩集一冊に贈られる。発表は資生堂発行の月刊誌「花椿」にて行われる。全35回で終了。 受賞作[編集] 第1回(1983年)安西均『暗喩の夏』 第2回(1984年)吉増剛造『オシリス、石ノ神』 第3回(1985年)谷川俊太郎『よしなしうた 』 第4回(1986年)嵯峨信之『土地の名-人間の名』 第5回(1987年)木坂涼『ツッツッと』 第6回(1988年)安藤元雄『夜の音』 第7回(1989年)大岡信『故郷の水へのメッセージ』 第8回(1990年)高橋順子『幸福な葉っぱ』 第9回(1991年)稲川方人『2000光年のコノテーション』 第10回(1992年)財部鳥子『中庭幻灯片』 第11回(19

  • セクストゥス・プロペルティウス - Wikipedia

    Auguste Jean Baptiste Vinchon, Propertius & Cynthia セクストゥス・アウレリウス・プロペルティウス(Sextus Aurelius Propertius, 紀元前50年頃 - 紀元前15年頃)はラテン語のエレギア詩人。 プロペルティウスについて知られていることは、その著作を除けばほとんどない。その詩の中に多く言及されていることから、ウンブリアで生まれ育ったようである。アッシジが、自分の町こそプロペルティウスの出生地であると主張している。現存する作品の中には、4巻の『エレギア』詩集が含まれている。 プロペルティウスの詩[編集] プロペルティウスの名声の基盤となっているのは、4巻の『エレギア』詩集である。プロペルティウスのエレギア詩はすべて、紀元前1世紀にローマの社交界で流行していた「エレゲイオン」という詩形(エレジー#古典詩参照)で書かれてい

    セクストゥス・プロペルティウス - Wikipedia
  • ウィリアム・バトラー・イェイツ - Wikipedia

    ウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats、1865年6月13日 - 1939年1月28日)は、アイルランドの詩人・劇作家・散文(prose)作家[1]、批評家・思想家[2]。民俗学の方面でも優れた業績を残した[2]。ケルト復興運動(英語版)の立役者の一人であり、幼少の頃から親しんだアイルランドの妖精譚などを題材とする抒情詩で注目されたのち、民族演劇運動を通じてアイルランド文芸復興(英語版)の担い手となった[3]。現代詩の世界に新境地を切りひらき、20世紀の英語文学、現代詩において最も重要な詩人の一人とも評される[4][1]。 1922年から6年間、アイルランド上院議員も務めた[5]。1923年にはノーベル文学賞を受賞[6]。英詩としては、現実と対峙し唯美主義を脱した後期の詩集『塔』(1928年)、『螺旋階段』(1933年)等が最も高く評価されており[7][8

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  • ジョン・ダン - Wikipedia

    ジョン・ダン(John Donne, 1572年 - 1631年3月31日)は、イングランドの詩人、著作家、後半生はイングランド国教会の司祭。 カトリックの家の生まれで、イングランド国教会に改宗するまで宗教的迫害を経験した。優れた教養と詩の才能にもかかわらず、長く貧困の中で生き、富裕な友人たちに頼らざるを得なかった。1615年に国教会の司祭になり、1621年にセント・ポール大聖堂の首席司祭(Dean of St Paul's)に任ぜられた。そういった背景がダンの文学作品(初期の恋愛詩・風刺詩から晩年の宗教的講話に至るまで)に反映しているという意見がある。 大胆な機知と複雑な言語を駆使し、恋愛詩、宗教詩、講話を書く。形而上詩人の先駆者とされる。代表作に『蚤』、『日の出』といった唄とソネット、「死よ驕るなかれ」の一節で知られる『聖なるソネット10番』や『冠』といった宗教詩がある。T・S・エリオ

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  • アレキサンダー・ポープ - Wikipedia

    アレキサンダー・ポープ アレキサンダー・ポープ(Alexander Pope,1688年5月21日 - 1744年5月30日)は、イギリスの詩人。父はカトリック教徒のリネン商[1]。 生来虚弱で学校教育を受けず、独学で古典に親しみ、幼少の頃から詩作を試みた[2]。16歳のときに書いた『田園詩(牧歌)』(Pastorals, 1709年)は5年後に出版され好評を博し、続いて『ウィンザーの森』、1711年には『批評論』を発表した[3]。『批評論』(An essay on criticism, 1711年)は簡潔な格言風の韻文で書かれた詩論で、当時の上流階級には好評を博した。 ホメロスの『イーリアス』を1715年から1720年に、『オデュッセイア』を1725年から1726年にかけて翻訳刊行し、予約者が訳者に6ギニーずつを支払って、出版業者が無償でを作者に提供し、作者がそれを予約者に渡すという販

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  • 古代ギリシアの詩

    「踊り、音楽および詩の三つの芸術は一つの芸術として出発したものである。その起源は集団の労働に従事する人体の律動的運動であった」――これが、ジョージ・トムソンの結論であった(『ギリシャ古代社会研究――先史時代のエーゲ海――』下、p.188)。 この一つの芸術から、先ずは踊りが脱落し、次いで音楽が脱落して、詩が成立したと彼は言う。とはいえ、古代ギリシアにあっては、詩は音楽とつねに結合していた。もっとも美しい詩の中の多くのものは、音楽の伴奏で歌うために作られたものであった。 古代ギリシアの詩が、音節を最小単位とすることは、英詩と軌を一にしている。しかし、古代ギリシア人は、音節の強弱ではなく、その長短に韻律(rhythmos)を見出していた点で、英詩とは大きく異なる。 短い音節は(音楽でいえば)1/8音符に相当し、これを拍と呼ぶ。長い音節はその2倍すなわち1/4音符に相当する。そして、これら長短の

  • ホメーロス - Wikipedia

    ホメーロス(古代ギリシャ語: Ὅμηρος、Hómēros、羅: Homerus、英: Homer)は、紀元前8世紀末のアオイドス(吟遊詩人)であったとされる人物を指す。ホメロス、あるいは現代語式の発音でオミロスとも。西洋文学最初期の2つの作品、『イーリアス』と『オデュッセイア』の作者と考えられている。「ホメーロス」という語は「人質」、もしくは「付き従うことを義務付けられた者」を意味する[1]。現在のギリシアではオミロスと発音されている。古代人はホメーロスを「詩人」(ὁ Ποιητής、ho Poiêtếs)というシンプルな異名で呼んでいた。 今日でもなお、ホメーロスが実在したのかそれとも作り上げられた人物だったのか、また当に2つの叙事詩の作者であったのかを断ずるのは難しい。それでも、イオニアの多くの都市(キオス、スミルナ、コロポーンなど)がこのアオイドスの出身地の座を争っており、また伝

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  • エレゲイアとは 読書の人気・最新記事を集めました - はてな

  • アイスキュロス - Wikipedia

    Αἰσχύλον Εὐφορίωνος Ἀθηναῖον τόδε κεύθει μνῆμα καταφθίμενον πυροφόροιο Γέλας· ἀλκὴν δ' εὐδόκιμον Μαραθώνιον ἄλσος ἂν εἴποι καὶ βαθυχαιτήεις Μῆδος ἐπιστάμενος[1] サラミスの海戦については、自作『ペルシア人』にて見事に描かれている。この作品は紀元前472年のディオニュシア祭において初演されたが、紀元前470年頃にアイスキュロスが訪れたシラクサのヒエロン1世の宮殿でも再演されている。それからアテナイに戻り、『テーバイ攻めの七将』『オレステイア』などを上演したのち、再びシチリア島へ渡って同島のゲラで没した。『「頭に物が落下する」という神託を受けて屋外に出たところ、カメを岩へ落としてべるヒゲワシに、頭を岩と間違えられカメを落とされた』とい

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  • ソポクレス - Wikipedia

    ソポクレス(ギリシャ語: Σοφοκλῆς, Sophoklēs, ギリシア語発音: [so.pʰo.klɛ̂ːs]; ソポクレース、紀元前497/6年ごろ – 406/5年ごろの冬[1])は、現代まで作品が伝わる古代ギリシアの三大悲劇詩人の一人。ソポクレスは生涯で120編もの戯曲を制作したが、殆どが散逸し、完全な形で残っているものは7作品にすぎない。 また、ソポクレスは、脇役を加えることにより、プロットを説明するにあたってコロスが担っていた重要性を低下させたという点で、作劇法の発展に影響を与えた。また、アイスキュロスなどの先行する詩人たちから、登場人物を大きく発展させた[2]。 ソポクレスは、ソフォクレスとも表記する場合がある。 概要[編集] 三大悲劇詩人の残りの二人はアイスキュロスとエウリーピデースであるが、ソポクレスの処女作はアイスキュロスのそれよりも遅くに書かれ、エウリーピデースの

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  • エウリピデス - Wikipedia

    晩年のエウリピデスが「バッコスの信女」を上演したとされるディオン劇場 エウリピデス(古代ギリシャ語: Εὐριπίδης、Eurīpídēs、 紀元前480年頃 - 紀元前406年頃)は、古代アテナイのギリシア悲劇における三大悲劇詩人の1人である。エウリーピデースと長母音で表記されることもある。現代にも大きな影響を及ぼしている。代表作は『メデイア』、『アンドロマケ』など。 生涯[編集] エウリピデス像。 アッティカのプリュア区(デーモス)に裕福な父親ムネサルコスと母親クレイトの間に生まれる。両親に関して、アリストパネスを始めとする喜劇作家たちからは貧しい商人や野菜売りであると言われているが、ビザンツ時代には既に研究者によって否定されている。エウリピデスが当時としては稀な蔵書家であり、哲学者アナクサゴラスによる高度な教育を受けていることも、中傷を否定する根拠の一つになる。 紀元前455年に『

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  • ウェルギリウス - Wikipedia

    プーブリウス・ウェルギリウス・マロー(ラテン語: Publius Vergilius Maro、紀元前70年10月15日[1] - 紀元前19年9月21日[2][3])は、ラテン文学の黄金期を現出させたラテン語詩人の一人である。共和政ローマ末の内乱の時代からオクタウィアヌス(アウグストゥス)の台頭に伴う帝政の確立期にその生涯を過ごした(#生涯)。『牧歌』、『農耕詩』、『アエネーイス』の三作品によって知られる(#作品)。ヨーロッパ文学史上、ラテン文学において最も重視される人物である(#受容)。ヴェルギリウスと表記されることもある。 生涯[編集] 出自[編集] マントヴァに立てられたウェルギリウス像 彼の前のウェルギリウス氏族では、紀元前87年にルキウス・コルネリウス・スッラを訴追した護民官マルクス・ウェルギリウスや[4]、クィントゥス・トゥッリウス・キケロと共にアエディリス・プレビス(平民按

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  • ホラティウス - Wikipedia

    クィントゥス・ホラティウス・フラックス クィントゥス・ホラティウス・フラックス(ラテン語: Quintus Horatius Flaccus, 紀元前65年12月8日 - 紀元前8年11月27日[nb 1])は、古代ローマ時代の南イタリアの詩人。一般には単にホラティウスと呼ばれる。 概要[編集] アウグストゥスと同時代に生きたラテン文学黄金期の詩人で、ウェルギリウスと並んで評価される。 書簡詩『詩について』(Ars poetica)はアリストテレスの『詩学』と並んで、古典主義詩論で重要視された。このなかの一節「詩は絵のように(ut pictura poesis)」は、のちに絵画にも拡大され、近世詩論および絵画論に影響を与えた。 また「征服されたギリシア人は、猛きローマを征服した(Graecia capta ferum victorem cepit)」という、有名な言葉を残した。 作品[編集

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  • ホラティウス - Wikiquote

    クィントゥス・ホラティウス・フラックス (Quintus Horatius Flaccus, 紀元前65年 - 紀元前8年)は古代ローマの詩人。 引用[編集] Saturae, 1577 「詩について」Ars poetica[編集] 詩は絵のように。 "ut pictura poesis." 山が産気づいた。お笑い種のネズミが一匹生まれた。 "parturient montes, nascetur ridiculus mus" ギリシアの諺に基づく。アイソポスの童話(イソップ童話)にもとりあげられる。これが日の戦国時代に伝えられ「大山鳴動鼠一匹」(泰山鳴動鼠一匹)という諺になった。 『頌歌』Odes[編集] 絶望してはならぬ。 "Nil desperandum..." --Odes I, vii, 27 美しい母から[生まれた]、さらに美しい娘よ。 "O matre pulchra fi

    ホラティウス - Wikiquote
  • 頌歌 - Wikipedia

    この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2017年12月) 独自研究が含まれているおそれがあります。(2017年12月) 出典検索?: "頌歌" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL 頌歌(しょうか)(オード、ode, 古代ギリシア語:ὠδή、または頌詩(しょうし)、賦(ふ))は壮麗で手の込んだ抒情詩(韻律)の形式。古典的な頌歌は、ストロペー、アンティストロペー、エポードスの3つの部分から構成される。また、homostrophic odeや不規則な頌歌(irregular ode)といった異なる形式も存在する。 ギリシアの頌歌[編集] ギリシアのメロス(melos)つまり「

  • エクローグ - Wikipedia

    エクローグ(英語: eclogue, フランス語: églogue エグログ, ラテン語: ecloga エクロガ)は、パストラル(田園、羊飼い)をテーマとした古典的形式の詩。田園詩、牧歌のこと。このジャンルの詩は、ブコリック(英語: bucolic, ラテン語: bucolicum, bucolica ブコリカ)と呼ばれることもある。 語源はギリシャ語の εκλεγη(eklegē、「選ぶ」)がローマ化したもの。元々はこの語は、あらゆるジャンルの短い詩、または、詩のから精選されたものを表すものだった。古代人はウェルギリウスの詩『牧歌』を表すのにこの語を使い、さらに後のラテン語詩人たちは自分たちの作る田園的・牧歌的な詩(多くはウェルギリウスの模倣だった)を表すのにこの語を使った。ルネサンス期を通してのウェルギリウスの著名さと田園的・牧歌的な詩の永続性との結合が、「エクローグ」を特定のジャ

  • Call For Articles:日本語版ウィキペディアに欲しいブリテン文学関係記事一覧(6)第二次世界大戦まで - Commentarius Saevus

  • 田園詩 - Wikipedia

    田園詩(でんえんし) Pastoral。田園生活を扱った文学・詩・美術・音楽・ドラマ。→パストラル 西洋の詩 Eclogue。古典形式の詩。ブコリクス、ブコリックともいう。→エクローグ idyll(idyl)。 短い詩。→アイディル villanelle。中世・ルネサンス期の詩。→ヴィラネル このページは曖昧さ回避のためのページです。一つの語句が複数の意味・職能を有する場合の水先案内のために、異なる用法を一覧にしてあります。お探しの用語に一番近い記事を選んで下さい。このページへリンクしているページを見つけたら、リンクを適切な項目に張り替えて下さい。

  • http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~kuroda/bib8.html

  • ティブッルスとは 読書の人気・最新記事を集めました - はてな

  • ルネサンスの脳内彼女について - Commentarius Saevus

    最近、シェイクスピアの『ソネット集』に出てくる「麗しき若者」(Fair Youth)と「黒い女」(Dark Lady)のモデル探しに関する論文をたくさん読んでいるのだが、そこで大変気になることがひとつあるので、今日はそれについて書く。 シェイクスピアの『ソネット集』は、前半は通称「麗しき若者」とか呼ばれている、若く高貴な匿名の独身男性パトロンに捧げられている。あからさまな描写はないのだが、このパトロンの美貌を褒める詩には、庇護者に対するお世辞にしてはあまりにも強烈なただごとでない熱情がこもっているということで、シェイクスピアと匿名のパトロンは同性愛関係にあったという説もある。 後半は「黒い女」という、これまた匿名の既婚女性についてのものなのだが、この黒い女は大変なbitchで、書き手である詩人を猛烈な色香でとりこにした上(このあたりの書き方は前半部分よりも多少あからさまで、泥沼の腐れ縁風に

  • ジョヴァンニ・ボッカッチョ - Wikipedia

    ジョヴァンニ・ボッカッチョ(伊: Giovanni Boccaccio, 1313年6月16日 - 1375年12月21日)は、中世イタリア、フィレンツェの詩人、散文作家、イタリアルネサンス期のヒューマニスト(人文主義者)。 生涯[編集] フィレンツェ商人の父と名もなきフランス人女性との間に私生児として生まれたとされるが、出生地は不明であり、チェルタルドやパリとする説もある。なお、ボッカッチョの父はすぐに彼を認知する。 ボッカッチョはフィレンツェで成長し、家庭教師であるジョヴァンニ・ディ・ドメニコ・マッツオーリ・ダ・ストゥラーダによって早くからダンテの作品を学んでいたと言われている。 代表作は1349年から1351年に書かれた『デカメロン』(十日物語)。初期の作品には『女神ディアーナの狩り』(1334年頃)、『フィローストラト』(1335年頃)、『フィローコロ』(1336年頃)などがあり、

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  • 秋の詩人ルイ・マクニース | ナオコガイドのアイルランド日記

    読書の秋とはよく言ったもので、この時期になるといつも、お気に入りの小説や詩を再び読み返したくなるから不思議。 今私が再読している小説には、秋にぴったりなロマンチックな詩が引用されています。 九月が、彼女の月がきた 彼女のうちに息づく生命は、 この月にこそ弾む 彼女は葉を落とした木々を、 炉に燃える火を愛する。 だからぼくは一年のうちで、 この九月と十月とを 彼女に帰するのだ ぼくの一年のすべての日々は彼女のもの 彼女はその多くの日々を すでにぼくにとって耐えがたくし あるいは謎多きものとしているが それよりもはるかに数多くの日々を、 えもいわず、幸せなものとしてくれている。 彼女はぼくの毎日に一抹の香りをのこし、 ぼくがめぐらした壁には 彼女の影が軽やかにおどっている。 彼女の丈なす髪は、 ぼくのすべての滝にまつわり ロンドンのすべての街路は、 思い出のくちづけをちりばめている。 (中村妙

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  • 詩に詳しい人に質問です。

    詳しいわけではありません。ご参考程度に。 ボードレールのどのあたりに、ということで回答も微妙に異なってくると思います。 ボードレールはフランス近代の詩人たち、なかんずくヴェルレーヌ、ランボー、マラルメ、ヴァレリーに決定的影響を与えたばかりでなく、日の近代の詩人、作家の多くにも有形無形の影響を及ぼしました。痕跡はいたるところに見つかると思います。 日のボードレールとも言うべきはまずは萩原朔太郎で、この近代日における最大級の詩人を逸するわけにいきません。殊に『月に吠える』『青』はボードレールなど西欧近代文芸の影響のもと、独自のイメージと日語の特性を生かした画期的な詩集と言われています。このほか、散文詩・アフォリズムなども多く、この点でも『悪の華』『パリの憂』『火箭』などに対応します。幻想的な短篇小説町』などもつけ加えておきましょう。 時代を少しさかのぼって、蒲原有明の文語定型詩

    詩に詳しい人に質問です。
  • 八木重吉 - Wikipedia

    八木 重吉(やぎ じゅうきち、1898年2月9日 - 1927年10月26日)は、日の詩人、英語科教師。 学生時代にキリスト教の洗礼を受け、信仰と詩作に励む[1]。詩集『秋の瞳』(1925年)を刊行したが、結核により29歳で死去した[2]。没後、生前に編纂した詩集『貧しき信徒』(1928年)が刊行された[1]。自作の詩では信仰の中の生活を短いフレーズでうたい[1]、没後に評価を高めた[2]。 生涯[編集] 学生時代まで[編集] 学生時代の八木重吉 東京府南多摩郡堺村相原大戸(現在の東京都町田市相原町)に生まれる[3][4]。父八木藤三郎、母つた。生家は代々農業を営み、重吉は三男二女の中の次男。父の代には雇人もある自作農であり[5]、村でも暮らし向きは良い方であった[6][7][4]。1904年(明治37年)大戸尋常小学校に入学[8]。1908年(明治41年)隣村である神奈川県津久井郡川尻

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  • ジェラール・ド・ネルヴァル - Wikipedia

    ジェラール・ド・ネルヴァル(Gérard de Nerval, 1808年5月22日 - 1855年1月26日)は、19世紀に活躍したフランスのロマン主義詩人。 その詩作品には、象徴派・シュルレアリスムの要素が認められ、20世紀後半より再評価が進んだ。ゲーテ『ファウスト』の紹介・翻訳や、『ドイツ詩選』の執筆など、新しいドイツ文学の紹介者としても活躍した。1855年、首を吊って自殺。主な作品に『火の娘』、『オーレリア、あるいは夢と人生』、『ローレライ』、『幻想詩集』がある。 生涯[編集] ジェラール・ド・ネルヴァルは1808年5月22日(日曜日)、現在のパリ4区サン・マルタン通り(フランス語版)168番地 (168 Rue Saint-Martin) に生まれた。父はナポレオンの大陸軍の軍医であった。ジェラールが2歳の時、父と共に赴いたシレジアで母が亡くなり、母方の大叔父アントワーヌ・ブーシ

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  • 草野心平 - Wikipedia

    草野 心平(くさの しんぺい、1903年(明治36年)5月12日 - 1988年(昭和63年)11月12日)は、日の詩人。福島県石城郡上小川村(現・いわき市田中小川町)出身。日芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 慶應義塾普通部を中退、中国広東の嶺南大学芸術科に学んだ。1928年に『第百階級』を刊行。1935年に逸見猶吉創刊の詩誌「歴程」に参加。その後、日の傀儡政権である南京の汪兆銘政府の宣伝部顧問となった。南京でできた『富士山』(1943年)に体制的思想の影響を指摘する評もある。戦後、「歴程」を復刊して多くの詩人を育て、蛙を愛した。 経歴[編集] 生い立ち[編集] 1903年(明治36年)5月12日、福島県石城郡上小川村に、父・草野馨、母・トメヨの次男として生まれる[1]。1907年(明治40年)5月に妹が生まれ、その後一家は上京するが心平のみ生家の祖父母の元で育てられる[1]

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  • 石原吉郎 - Wikipedia

    石原 吉郎(いしはら よしろう、1915年(大正4年)11月11日 - 1977年(昭和52年)11月14日)は、日の詩人・エッセイスト・歌人・俳人。シベリア抑留の経験を文学的テーマに昇華した、戦後詩の代表的詩人として知られる。シベリア抑留経験者の中では特異な存在である[1]。 第1詩集『サンチョ・パンサの帰郷』(1963年)でH氏賞を受賞した。作品に詩集『水準原点』(1972年)のほか、エッセイ『望郷と海』(1972年)など。 生涯[編集] 幼少期から就職まで[編集] 石原は1915年(大正4年)静岡県田方郡の港町、土肥(とい)村(現:伊豆市)に生まれた[2]。 1928年(昭和3年)、13歳の時に攻玉社中学校に入学、1933年(昭和8年)同中学校を卒業し、その年と1934年(昭和9年)に続けて東京高等師範学校を受験したが共に失敗、1934年に東京外国語学校(後の東京外国語大学)へ入学

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    inmymemory
    inmymemory 2013/05/23
    サカナクションの山口一郎は、子供の頃から抱えていた霧のように漠然とした不安の答えを探していたが、中1の時に父の勧めで読んだ石原吉郎の詩「竹の槍」がヒントになり、そこから不安や葛藤を詩に綴るようになった