タグ

inmymemoryのブックマーク (10,335)

  • 内堀弘 - Wikipedia

    内堀 弘(うちぼり ひろし、1954年 - )は、日の古書店主、エッセイスト。 兵庫県神戸市出身。青山学院大学中退。神保町の友愛書房で勤務した後に独立。1980年に詩歌専門・目録販売の古書店「石神井書林」を開業。 山口昌男を学長、坪内祐三を教授とする「東京外骨語大学」の生徒でもある(他の生徒は『彷書月刊』編集長・田村治芳、月の輪書店店主・高橋徹)。

  • 古本の時間 | 晶文社

    内堀弘著 四六判 272頁 定価:2,420円(体2,200円) 978-4-7949-6911-8 C0095 〔2013年〕 装幀 平野甲賀 数知れない古との出会いと別れ。 多くの作家やファンとの交流の歴史。 古の醍醐味と業界の仲間たちを温かい 眼差しで描く、珠玉の古エッセイ集。 振り返ってみると、東京の郊外で詩歌専門の古書店を開いたのは三十年以上も前のことになる。最近は若い人たちから「古屋になりたい」。こんな相談がもちこまれるようになった。自分の年齢を感じるようになり、同時に、店にたどり着いた古の数々、落札できなかった多くの古の顔も浮かんでくる。テラヤマを買った日。山口昌男と歩いた神保町の夜。夭折の詩人・塩寺はるよの足跡を追った日々……。そして、やさしかった同業者の死を悼む夜が少し多くなっている。 伝説の古屋「石神井書林」の日録、第2弾!! 〈書評掲載〉 図書新聞 2

    古本の時間 | 晶文社
  • 戦争と平和の詩 | 10min.ボックス  現代文 | NHK for School

    今から60年あまり前、日は、アジア各地で戦闘を繰り広げていました。その太平洋戦争の時代を振り返り、詩につづった、二人の詩人がいます。一人は、茨木(いばらぎ)のり子。「わたしが一番きれいだったとき/わたしの頭はからっぽで/わたしの心はかたくなで/手足ばかりが栗色に光った」。もう一人は、原民喜(はら・たみき)です。「アノ日 トツゼン/空ニ マヒアガツタ/竜巻ノナカノ火箭(カセン)/ミドリイロノ空ニ樹ハトビチツタ」。 力強くしなやかな感性で共感を呼んできた詩人、茨木のり子は、10代後半の日々を、太平洋戦争のさなかに過ごしました。軍国主義教育を一身に受けた、いわゆる軍国少女でした。戦争に勝つためには身も心も捧げなければいけない、そんな空気に国じゅうが染まっていました。茨木のり子も、学校の勉強を中断し、同級生とともに海軍の薬品工場で働きました。空襲の恐怖や空腹との闘い。工場が爆撃され、命を落とした

    戦争と平和の詩 | 10min.ボックス  現代文 | NHK for School
    inmymemory
    inmymemory 2023/03/02
    茨木のり子 わたしがいちばんきれいだったとき
  • 河野裕子 - Wikipedia

    角川短歌賞(1969) 現代歌人協会賞(1976) 現代短歌女流賞(1980) コスモス賞(1987) 短歌研究賞(1997) 河野愛子賞(1998) 京都府文化賞・功労賞(2001) 若山牧水賞(2002) 紫式部文学賞(2002) 斎藤茂吉短歌文学賞(2009) 迢空賞(2009) 小野市詩歌文学賞(2010) 日一行詩大賞(2012) 河野 裕子(かわの ゆうこ、1946年7月24日 - 2010年8月12日[1])は、日の歌人。「塔」選者。夫は歌人の永田和宏。長男永田淳、長女永田紅も歌人。 宮柊二に師事。瑞々しい言葉で心情をのびやかに表現した。晩年は乳がんに苦しみ、生と死に対峙する歌を詠んだ。歌集に『ひるがほ』(1976年)、『桜森』(1981年)、『母系』(2008年)などがある。 人物[編集] 熊県上益城郡御船町に生まれ、滋賀県石部町(現湖南市)に育つ。京都女子高等学校を

    inmymemory
    inmymemory 2022/10/30
    夫永田和宏が、死後、押し入れから日記を発見。二人の男性の間で揺れ動く切ない恋心が短歌と共に瑞々しい筆致で綴られていた。夫は日記を頼りに青春の日々を追想する旅に出る
  • 『あなたの子どもはあなたのものではない』

    私から始めよう Let It Begin With Me パートナーがいても孤独感 結婚生活ずっとこのままなのかな… 頭では分かっていても実践できなかったパートナーシップ論 解決のカギは【私から始める】ことでした どん底だった夫婦仲を「やっぱりこの人でよかった!」と 思えるほど改善したパートナーシップの秘訣を配信 こんにちは。 プリームみどりです。 このブログにお越しいただき、 ありがとうございます。 初めましての方へ プリームみどりのプロフィール ⇨ 読む場合はこちら ⇨ 観る場合はこちら 一昨日の夜は 日人学校補習校にて卒業式があり、 3ヶ月半遅れで 卒業証書をいただきました。 小学校6年生と 中学3年生の合同で。 うちは中学には進まなかったので これで当に最後の登校となります。 急遽決まった卒業式に 「歌忘れちゃったー」 「行くのめんどくさい〜」 とブツブツうるさかった息子も、

    『あなたの子どもはあなたのものではない』
  • 倫敦橋の隠れ里 カーリル・ギブラン詩集より

    [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 あなたの子どもは あなたの子どもではない 子どもは「生命」の渇望からの子どもである 子どもは あなたを通ってくる しかし あなたからではない 子どもは あなたと共にある しかし 子どもは あなたのものではない あなたは 子どもに愛を与えることが出来る しかし 考えを与えることは出来ない 子どもは 自分の考えをもっているのだから あなたは 子どもの体を 動かしてやれる しかし 子どもの心は 動かせない 子どもは 明日の家に生きている あなたは それを訪ねることも 見ることもできない あなたは あなたの子どもを 思い通りにしようとしてはいけない 人生は 後ろに退き 昨日にとどまるものではないのだから あなたは 弓である そして あなたの子どもらは 生きた矢としてあなたの手から放たれる

  • 鈴木漠 - Wikipedia

    この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "鈴木漠" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2022年2月) 徳島県徳島市に生まれ、戦時疎開により剣山の麓、かずら橋と落人伝説で知られる祖谷郷に幼少年時を過ごす。1957年(昭和32年)に神戸市に移り海運会社に奉職した。1959年(昭和34年)に岡田兆功、平岡史郎、藤村壮と共に詩誌「海」を創刊。 1980年(昭和55年)に詩集『投影風雅』で第14回日詩人クラブ賞を受賞し、1989年(平成元年)に連句集『海市帖』で第2回連句協会推薦図書表彰、1994年(平成6年)に第18回井植文化賞受賞、2002年(平成14年)に第28回徳島県

  • なべて世は事もなし、世はなべてこともなし。 - かやのみ日記帳

    世の中はなんてことなく、ただ過ぎていく。 たまーに嫌なことがあったり、ふてくされているとそんなことを思ったりする。 世はなべて事も無し。いや、なべて世は事もなし?どちらが正しいのだろう? 洒落た言葉で気に入っていたけど、さて原典はなんだろうか。 調べてみるとこれはどうやら海外の詩の翻訳だったらしい。 となるとどちらでも解釈として正しいという感じだろうか。 上田敏の訳詩集『海潮音』(1905年)の中で愛誦される詩の一つに、ブラウニング「春の朝」(はるのあした)がある。 時は春、 日は朝(あした)、 朝は七時(ななとき)、 片岡に露みちて、 揚雲雀(あげひばり)なのりいで、 蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、 神、そらに知ろしめす。 すべて世は事も無し。 8行の平易な詩句とのびやかで肯定的な主題は、上田敏の心地よい韻律の名訳とあいまって、広く親しまれてきた。 ロバート・ブラウニング - Wikipe

    なべて世は事もなし、世はなべてこともなし。 - かやのみ日記帳
    inmymemory
    inmymemory 2022/07/09
    世は事も無し
  • ジョン・ベリーマン (詩人) - Wikipedia

    ジョン・ベリーマン(John Berryman、1914年10月25日 - 1972年1月7日)はアメリカ合衆国の詩人。 経歴[編集] オクラホマ州マッカリスターに生まれる。父親をピストル自殺で亡くす。コロンビア大学を経て、1936年に奨学金を得てケンブリッジ大学に入学。デトロイトのウェイン州立大学で教えた後に、ハーバード大学とプリンストン大学でポストを得る。1955年から1972年の死去までミネソタ大学の教授を務めた[1]。 1965年に「77 Dream Songs」でピューリッツァー賞 詩部門を、1969年に「His Toy, His Dream, His Rest」で全米図書賞を受賞。ロバート・ローウェルやW・D・スノッドグラス、シルヴィア・プラス、アン・セクストンなどとともに「告白派」と称された[2]。アルコール中毒を患い[3]、父親をなぞるようにミネアポリスで飛び降り自殺により

    inmymemory
    inmymemory 2022/07/09
    ヌーラ・ニー・ゴーノル『狐』
  • ゴットフリート・ベン - Wikipedia

    ゴットフリート・ベンのスケッチ ゴットフリート・ベン(Gottfried Benn, 1886年5月2日 - 1956年7月7日)は、ドイツ・表現主義文学の代表的な詩人。 ブランデンブルク州ヴェストプリーグニッツ郡(ドイツ語版)マンスフェルト(現プートリッツ(ドイツ語版)の一部)の牧師の息子として生まれる。母はフランス系スイス人。当初は父の意向に随って、神学・文献学をマールブルク大学、フリードリヒ・ヴィルヘルム大学(現ベルリン大学)で学んだが、その後志望を変更し、ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム大学軍医養成大学で医学、生物学を学んだ。 1912年に卒業して軍医となり、同年に最初の詩集『モルグ』を発表。医学・生物的知識を活用したグロテスクな表現でセンセーションを起こした。第一次大戦中、1915年から17年まで軍医としてブリュッセルに滞在、ここで格的に詩作を開始し、小説集『医師レンネ』(19

    ゴットフリート・ベン - Wikipedia
    inmymemory
    inmymemory 2022/07/09
    ヌーラ・ニー・ゴーノル『狐』
  • 日本ケルト協会

    2020年ヨーロッパ文化首都・ゴールウェイで4月開催予定の展覧会に招聘されていた大坪美穂氏の作品展「海界」(うなさか)が新型コロナウイルスの影響で中止になりました。 大坪美穂氏は大野光子氏の訳によるヌーラ・ニー・ゴーノルの詩集に触発されて作品を制作されています。4月の展覧会は中止になりましたが、EU・ジャパンフェスト日委員会の助成で、小高雄平氏(ビデオグラファー)編集の映像「ヌーラ・ニー・ゴーノルに捧げる大坪美穂作品集」が紹介されています。 妖精の棲む島アイルランド ~自然・歴史・物語と旅する 渡辺洋子 著 三弥井書店 前半はアイルランド南部マンスター地方のガイドブック、後半はアイルランドの民間伝承の中から妖精伝説を紹介。でアイルランドを旅してみませんか? (著者は2017年4月23日のケルトセミナーで「フィンとフィアナ戦士団の伝承と多様性」について講演) 司馬遼太郎 旅する感性 桑島

    日本ケルト協会
    inmymemory
    inmymemory 2022/07/07
    佐々木幹郎 アイルランド ゲール語
  • 村上鬼城 - Wikipedia

    村上 鬼城(むらかみ きじょう、1865年6月10日(慶応元年5月17日) - 1938年(昭和13年)9月17日)は日の俳人、司法代書人。名は村上 荘太郎(むらかみ しょうたろう)。 明治義塾法律学校中退。正岡子規に書を送り、「ホトトギス」創刊後は俳句、写生文を投稿。飯田蛇笏らと並び、大正期前半の「ホトトギス」を支えた。貧窮の境涯に根ざした諦観を詠んだ句が多い。句集に『鬼城句集』(1917年)など。 鳥取藩士、小原平之進の長男として江戸小石川に生まれるが、8歳の時、群馬県高崎市に移り住み、11歳の時に母方の村上家の村上源兵衛の養子となり村上姓を名乗る。 明治17年(1884年)に東京へ行き、軍人を志したが耳疾のために断念し、明治法律学校(明治大学の前身)で法学を学びながら、司法代書人(司法書士の前身)となった。父の勤務先である高崎裁判所司法代書人となる。以後、鬼城は亡くなるまでの一生

  • 高浜虚子 - Wikipedia

    虚子の句碑(山名湖村・文学の森) 『撰集を 選みしよりの 山の秋』 高浜 虚子(たかはま きょし、旧字体:高濱 虛子、1874年〈明治7年〉2月22日 - 1959年〈昭和34年〉4月8日)は、明治・大正・昭和の日の俳人・小説家。名は高浜 清(たかはま きよし、旧字体:高濱 淸)。旧姓は池内。日芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 『ホトトギス』の理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱したことでも知られる。 経歴[編集] 愛媛県温泉郡長町新町(現在の松山市湊町)に旧松山藩士・池内 政忠(いけのうち まさただ)の五男として生まれた。9歳の時に祖母の実家の高浜家を継ぐ。この時、清に次男を得られたら池内家に戻す約束があり、次男の友次郎には約束通り、池内姓を継がせた。 1888年(明治21年)、伊予尋常中学校(現在の愛媛県立松山東高校)に入学する。1歳上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介

    高浜虚子 - Wikipedia
  • 水原秋桜子 - Wikipedia

    水原 秋桜子(旧字表記:水厡 龝櫻子、みずはら しゅうおうし、1892年(明治25年)10月9日 - 1981年(昭和56年)7月17日)は、日の俳人・医師。学位は医学博士。 名は水原豊(みずはら ゆたか)。松根東洋城、ついで高浜虚子に師事。短歌に学んだ明朗で叙情的な句風で「ホトトギス」に新風を吹き込んだが、「客観写生」の理念に飽き足らなくなり同誌を離反、俳壇に反ホトトギスを旗印とする新興俳句運動が起こるきっかけを作った。「馬酔木」主宰。別号に喜雨亭。 はじめ窪田空穂に師事、短歌で独自の叙情性を育てたが、のちに俳句へ転じた。高浜虚子から指導を受け、昭和初期の「ホトトギス」を彩る四Sの一人として活躍。従来の俳句に短歌的表現を取り入れるなど、新鮮な句作を行った。しかし、虚子流の客観写生とは合わず、俳句誌「馬酔木」を主宰、叙情の回復を図った。これに呼応して新興俳句運動が起き、無季俳句容認の道

    水原秋桜子 - Wikipedia
  • 加藤楸邨 - Wikipedia

    加藤 楸邨(かとう しゅうそん、1905年(明治38年)5月26日 - 1993年(平成5年)7月3日)は、日の俳人。名は健雄(たけお)。位階は従四位。 水原秋桜子に師事。初期は『馬酔木』に拠ったが、苦学する中で同誌の叙情的な作風に飽き足らなくなり、人間の生活や自己の内面に深く根ざした作風を追求、石田波郷、中村草田男らとともに「人間探求派」と呼ばれた。第二次世界大戦後は戦災や社会運動への参加などを経て幅の広い作風を展開、また主宰した『寒雷』では伝統派から前衛派まで多様な俳人を育てた。 生涯[編集] 現在の東京都大田区北千束に生まれる。父・健吉、母・千佳の長男。当時、健吉は私設甲武鉄道の駅員で、東京転勤の命を受けた直後の出生であったため、出生届は前任地の山梨県大月市で出された[1]。翌年、鉄道国有法の成立に伴って甲武鉄道が国有化され、健吉も鉄道官吏となる。以後は父の転勤に伴い、楸邨は少年

  • 岡井隆 - Wikipedia

    愛知県芸術文化選奨文化賞(1980年) 迢空賞(1983年) 斎藤茂吉短歌文学賞(1990年) 現代短歌大賞(1995年) 紫綬褒章(1996年) 詩歌文学館賞(1999年) 毎日芸術賞(2000年) 旭日小綬章(2004年) 読売文学賞詩歌俳句賞(2005年) 藤村記念歴程賞(2007年) 小野市詩歌文学賞(2009年) 高見順賞(2010年) 短歌新聞社賞(2011年) 文化功労者(2016年) 旭日中綬章(2020年) 岡井 隆(おかい たかし、1928年(昭和3年)1月5日 - 2020年(令和2年)7月10日[1])は、日の歌人・詩人・文芸評論家。未来短歌会発行人。日藝術院会員。塚邦雄、寺山修司とともに前衛短歌の三雄の一人。2016年文化功労者選出。従四位叙位、旭日中綬章追贈。 17歳から歌作を始め、「アララギ」に参加。慶大医学部卒業後、内科医のかたわら、歌人として活躍する

    岡井隆 - Wikipedia
  • 紀田順一郎 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "紀田順一郎" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2022年12月) 紀田 順一郎(きだ じゅんいちろう、1935年4月16日 -)は、日の文芸・メディア評論家・翻訳家・小説家。 日文芸家協会、日ペンクラブ、各会員[1]。 名は佐藤 俊(さとう たかし)[2]。ペンネームの「紀田」はきだみのるから、「順一郎」は谷崎潤一郎に由来している。 書誌研究を中心に、半世紀以上にわたり『古書街を歩く』、『日記の虚実』、『二十世紀を騒がせた』などメディア論、近代史論などを数多く刊行。古書をテーマとした推理小説、幻想文学作品も著した。

  • 永田耕衣 - Wikipedia

    この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2020年11月) 永田 耕衣(ながた こうい、1900年(明治33年)2月21日[1] - 1997年(平成9年)8月25日)は、俳人。名は軍二(ぐんじ)[1]。別号、田荷軒主人。禅的思想に導かれた独自の俳句理念に基づき句作。また諸芸に通じ書画にも個性を発揮、90歳を超えた最晩年に至るまで旺盛な創作活動を行った。 生涯[編集] 形成期[編集] 兵庫県加古郡尾上村今福(現・加古川市尾上町今福)に生まれる。父は農業兼村役場吏員。父は岩崎姓だが、6歳のとき母の妹永田てい子の養子となり、父母と同居したまま名義のみ母系永田姓を継いだ。尾上村立尾上尋常高等小学校尋常科、同高等科を経て、1917年、兵庫県立工業学校(現・兵

  • 葛原妙子 - Wikipedia

    葛原 妙子(くずはら たえこ、1907年(明治40年)2月5日 - 1985年(昭和60年)9月2日)は、日の歌人。短歌結社潮音社友、日歌人クラブ会員、女人短歌会会員。現代歌人協会発起人。南日新聞歌壇選者。現代短歌女流賞選考委員。 人物[編集] 東京市出身。東京府立第一高等女学校(現・東京都立白鷗高等学校)卒業。父は外科医の山村正雄、母は俳人のつね。夫の葛原輝は外科医。長女は児童文学者の猪熊葉子。 超現実主義短歌を推進し、戦後の歌壇に大きな影響を与えた代表的歌人の一人である。日常のうちに「見てはならぬものを視、聞いてはならぬものを聴きだし」(菱川善夫)、その景色を自ら「表現の我儘についてゆるし得る限界」とする破調の歌に詠むその歌風から、「現代の魔女」「球体の幻視者」(中井英夫)、「幻視の女王」(塚邦雄)と称されることが多い。 略歴[編集] 1907年(明治40年) - 東京市郷区

  • 藤原龍一郎 - Wikipedia

    藤原 龍一郎(ふじわら りゅういちろう、1952年1月18日 - )は、歌人、俳人。福岡県出身。歌誌「短歌人」元編集人。「駄句駄句会」同人、俳号は「媚庵(びあん)」。日歌人クラブ名誉会長[1]。石岡市図書館文化アドバイザー[2]。 来歴・人物[編集] 福岡県生まれで、3歳のとき東京に移住大阪府立池田高等学校を卒業。浪人中の1970年に中井英夫の『黒衣の短歌史』を読み、塚邦雄、春日井建、寺山修司などの前衛短歌に衝撃を受ける[3]。慶應義塾大学に入学するが、寺山と早稲田大学短歌会に憧れて再受験し、早稲田大学第一文学部文芸科を卒業[4]。学生時代は早稲田大学短歌会およびワセダミステリクラブに所属し、仙波龍英や康珍化、北村薫、高千穂遙らと交友を持った。 大学在学中の1972年に「短歌人」に入会。高瀬一誌の薫陶を受け、西王燦とライバル関係にあった。大学卒業後はニッポン放送に入社し、ラジオディレ