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泉鏡花文学賞(いずみきょうかぶんがくしょう)は、泉鏡花生誕100年を記念して1973年に制定された、金沢市によって主催される文学賞である。以降年一回発表され、受賞は選考委員の合議によって決定される。受賞者には正賞として八稜鏡、副賞として100万円(2017年現在)が授与される[1]。併設されている賞として泉鏡花記念金沢市民文学賞があり、金沢市に地縁のある者のみが選考対象となる。 対象は小説や戯曲などの単行本で「ロマンの薫り高い作品」となっているが、第30回の野坂昭如のように作家個人の業績も選考に含まれることがある。第16回の吉本ばななのようにデビューしたばかりの新人が受賞することもあれば、第39回の瀬戸内寂聴のようにベテランが受賞することもある[注 1]。
あらゆるホラーに共通していることだが、「最初から非日常」というホラー作品は、基本的にあんまり怖くない。開幕から恐怖シーンが上映されているホラー映画を想像してみるといい。最初っからジェイソン大暴れの13金は、単なる怪獣映画でしかない。最初からリング終幕の映像が流れていたとしても、普通の人は「なにそれ」と思うばかりだろう。怖さは、日常の、少なくとも日常に準ずる導入があって初めて演出される。 それは何故かというと。ホラーの怖さというのは、落ちる恐怖、つまづく怖さだからである。観客は、最初は「日常」という磐石な足場に立っている。同じく、舞台がSFであろうが異世界であろうが、ホラーの導入も「日常」の上に立っており、それによって読者の視点を作品の中へと誘っている。「日常」といういつもの足場に立っている筈が、気付くと崖との境界を踏み越えていた、暗い谷底に落ち込んでいるまさにその瞬間だったという、その無重
極上のファンタジー。キャラとイベントで物語を転がす濫製ファンタジーの対極にある。 「ファンタジー」なんて、しょせん剣と魔法、光と闇の活劇でしょ? ――なんて、ファンタジーを見くびってた。誤ってた。謝る。 予めお約束のコードがあって、そいつをどんなパラメーターでなぞるかでヴァリエーションを増やす。そんな固定化した観念がまるっきり見当違いだったことを思い知らされる。この物語はファンタジーでしか書けないし、テーマはファンタジーを、(少なくともわたしが勝手にファンタジーだと思いこんでた範囲を) 完全に超えている。 かといって、テーマが深遠だとかフクザツだとかいうわけではない。魔法使いサイベルが、人の心と愛を知り、そしてそれゆえに苦悩し、破滅へ向かおうとする話。お約束の台本どおりに進まない心理劇を眺めている気分になる。 かつて読んだファンタジーの記憶を刺激する一方で、オリジン(源)の匂いをかぎつけて
『The Pciture of Dorian Gray』Oscar Wilde,1891年。 ただの世間知らずの美少年だと思えていたドリアン・グレイが、突如として芸術至上主義者になったかのごとく豹変する第7章は圧巻です。それまでは、まあ言っても高等遊民のお気楽思想談義に見えなくもなかったんだけれど、ここで一気に人間の醜い素顔がさらけ出されて、物語がぐっと締まったものなあ。 悪に染まるその様こそがワイルドの面目躍如。解説でも触れられている『ジキルとハイド』「ウィリアム・ウィルスン」で描かれた単純な善悪の構図とは違って、さまざまな宝石の逸話や詩に惹かれて絡み取られてゆく様子には、読んでいるこちらも引き込まれる。耽美?頽廃? シニカルなヘンリー卿の一言一言も、飽きずに読み進めるのに一役買ってくれます。 “肖像”のことばかりが大きく取り上げられて紹介されることが多いけれど、はっきり言って肖像なんて
生田訳バタイユは難解という印象があった。というわけで、新訳はいかに?と思い読んでみました。意外なことに生田訳って読みやすかったんだなあというのが率直な感想。新訳だけに自然で読みやすい一方で、原文の持つ「論理の愚直なまでの道すじ」を回復しただけあって、直訳調にならざるを得ないところがところどころある。 生田訳で読んだバタイユを再読してみるなら今回の新訳、初めて読むなら生田訳の装飾過剰な文章に圧倒されるのがよいのではないだろうか。 「マダム・エドワルダ」(Madame Edwarda)★★★★☆。新訳で読んでもやっぱり観念的で難解な作品。エピグラフはかっこいいんだけどな。 「目玉の話」(Histoire de L'Oeil)★★★★☆。解説ではサドの名前を挙げていたけれど、この新訳版で読むと乾いた語り口からむしろ『悪童日記』あたりをイメージした。これも翻訳の影響というものなのでしょう。タンビー
訳は読みやすいし、連想の糸をたぐるようにテーマをしぼって編んでいるので、初心者にも入りやすい。解説もわかりやすすぎなほどわかりやすい。 「黒猫」(The Black Cat,1843)★★★★☆ ――わが家には鳥がいて、金魚がいて、犬がいて、そして猫がいた。プルートーという雄猫は私とすっかり仲良しになった。だが、私の人格が――飲酒という魔力によって――激変した。ついには妻に暴力をふるった。ある晩、酔った私は、猫の喉頸を押さえつけ、目玉を一つ、ざっくりとえぐり取ってやった! これがなぜ名作かっていうと、本書収録の「告げ口心臓」や「ウィリアム・ウィルソン」の場合だと訳者の言うように「良心」の話だとしても不都合ないのだけれど、本作「黒猫」の場合には「良心」には収まりきらないはみでた部分があるから。そもそも「黒猫」というモチーフを使われた時点で不気味なものを感じざるを得ないし、その名がプルートーと
『L'enfant de la Haute Mer』Jules Supervielle,1931年。 「海に住む少女」(L'enfant de la Haute Mer)★★★★★ ――船が近づくと、町はまるごと波の下に消えてしまいます。そこにひとりぼっちで暮らす、十二歳くらいの少女。この町には何も、そして誰もやってくるはずなどありません。 あらかじめ与えられた喪失感。外も内もなく現れては消えだけを繰り返す不在の存在。存在していないものの存在を描くのは不可能なのに、かげろうのようなはかなさと透明感がその“不在”を包み込む。記憶のなかで人は永遠に生きる――ふつう肯定的に使われることの多い言葉を悲劇的に描いた作品。 「飼葉桶を囲む牛とロバ」(Le boeuf et l'âne de la crèche)★★★☆☆ ――ヨセフの引くロバの背には、マリアが乗っていました。牛はひとり、あとをついてゆ
「ノアの子孫」(The Children of Noah) ――夜中の三時、田舎道を走らせていたケチャム氏は、スピード違反でパトカーに止められる。警官は罰金を払わせるそぶりも見せずに、ケチャム氏を警察署に連れて行った。のらりくらりとした尋問が続き、解放される気配はない……。 筒井康隆流の不条理ホラーかと思いきや、きちんと落ちてたのでほっとしました。ホラーでほっとするってのも何だかなと思うのですが、不条理ホラーってホントに救いがなくて読後感がよくないので。 「レミング」(Lemmings) ――どこからともなく人々が集まっていた。自動車、自動車、自動車。いったいどこからやって来るんだろう。 こんな短い作品の中に諷刺と恐怖を詰め込んだうえに、マシスンならではの“切なさを感じる地球の最後”みたいな味わいも感じることができる。 「顔」(The Faces) ――ブラックウェル夫人が喉を切り裂かれて
「酔い痴れて」(The Intoxicated) ――彼が酔いを覚ますために台所に行くと、若い娘がコーヒーを淹れるところだった。 どこかしらサリンジャー作品の一こまを読んでいるような、現代っ子の話(あくまで雰囲気だけですが)。思春期の子どもの、大人に対する怒りと未来への空想力が、かつて子どもだった大人には不安定で危ういものに思えてしかたがない。 「魔性の恋人」(The Demon Lover) ――もうすぐ彼と結婚する。十時にはここに迎えに来るはず。今は十時二十九分。彼はまだ来ない。 恋人の失踪というと、ウールリッチの「アリスが消えた」や「階下で待ってて」[bk1・amazon]を連想します。残された者の焦燥感や、誰からも相手にされない歯がゆさはウールリッチ作品にも共通のものです。ですが本編の最後に待っているのはウールリッチ作品のような結末ではありません。 英語で「demon drink」
「アリバイ」(Alibi)★★★★★ ――ジェイムズ・フェントンは石段をのぼり、ベルを押した。「部屋を貸していただきたいんです」(あなたとお子さんを殺して、死体を埋めるためにですよ)。画家と称してまんまとその部屋に入り込んだ。妻にはクラブで遅くなると嘘をついて。 フェントンの壊れっぷりがクールなサイコ譚。初めっからおかしなやつであることはわかりきってるはずなのに、いつのまにかただの癇癪持ち程度に感じている自分に気づいてふとゾクッとする。退屈な日常がいかにも退屈そうに描かれていて、嬉々として絵を描くフェントンにいかにも生気が感じられるからアブナイ。その一方で、ただ生きるために生きていると言いたくなるような下宿先の母親のちょっとデカダンなインパクトも捨てがたい。 「青いレンズ」(The Blue Lenses)★★★★★ ――きょうは包帯をとり、青いレンズをはめる日だ。マーダの眼から包帯が取ら
ハヤカワ文庫『幻想と怪奇』に収録された二作(第一短篇集より)はそれほどいいとは思えなかったのでまったく期待していなかったのだけれど、めちゃくちゃよかった。著者は『ミステリー・ゾーン』の脚本も担当していたそうで、本書には実際いかにも『ミステリー・ゾーン』的な作品が目白押しです。論創社より刊行予定の第二短篇集が楽しみ。 第三短篇集『Night Ride and Other Journeys』Charles Beaumont,1960年。 「黄色い金管楽器の調べ」(The Music of the Yellow Brass,1959)★★★★☆ ――あまりに突然のことなので信じられない。やせっぽちのフアニートはあした、闘牛士としてデビューできるのだ。興行師は熱弁をふるった。一座の女の子が熱い視線を送ってきた。次の日。トランペットの音が、高々と鳴り渡った――。 若さゆえの愚かさ。生きることよりも大
『Le Passe-Muraille et Le Vin de Paris』Marcel Aymé。 収録作七編中四編は、他の出版社から出ている文庫にも収録されているので新味はないけれど、中村真一郎の訳もよい。 「壁抜け男」(Le Passe-Muraille)★★★★★ ――モンマルトルのオルシャン街七五番地乙の四階に、デュチユールという名前のすぐれた男が住んでいた。この男は不思議な才能の持ち主で、何の苦もなく壁を通り抜けることができるのだった。 問答無用の大名作。ひょうひょうと人を食った出だしから、さりげなく描かれながらもストレートに突きつけられる人間性の本質、物悲しさ漂う雰囲気、全編を覆うユーモアに至るまで、これぞエーメの真骨頂。エーメには“人間の業”を生真面目に描いてしまったような作品もある。それはそれでずしりと重い読後感を味わえるのだが、やはり業のようなものを描くにしても本篇のよ
「片腕」と『掌の小説』は新潮文庫で手軽に読めるので知っていました。どちらも好きな作品なのですが、それだけにどういう系統の作品か見当がついてしまう(と思っていた)のでそれほど過度な期待はしてませんでした。いや、失礼いたしました! すごい。怪談として見れば似たタイプの作品が多すぎるとか指摘することもそれはできるのですが、それは不当な指摘でしょう。言葉に淫し美に耽り永遠の女を追い求めた作品群。講談社文芸文庫で出ている作品が面白そうです。 「片腕」★★★★★ ――「片腕を一晩お貸ししてもいいわ」と娘は言った。そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた。腕のつけ根であるか、肩のはしであるか、そこにぷっくりと円みがある。肩の円みを見ていると、私には娘の歩く脚も見えた。 初めて読んだときには、片腕を取り外して貸し出すという不気味で色っぽい行為に目を惹かれたのだけれど、今回読み返してみる
『上空の城』★★★☆☆ ――その年眉彦がたてた計画というのは、高層天守閣を持つ城郭を選んでまわろうという、ごくありきたりな思いつきだった。二番目の城、松本城の城郭へ足を踏みこむと、なにげなく天守閣の狭間から外をのぞいた。女は、そこに立って、この五重六重の大天守を、ひっそり、見上げていたのである。まるで、彼女は動かなかった。生きていて、生きていない人形を、そこに見る思いがした。 時代というのはかくも残酷なものか。それが『上空の城』を読んだときの偽らざる気持でした。’70年代風の若者の会話が空虚にすべりつづけます。これは、当時としてはお洒落でリアルだったのか、当時の読者が読んでもやはり寒々しく感じる会話だったのかが、わたしには判断つきません。 幻想小説としてはこの長さは必要ないかな、と思います。短篇でいい。大半を占めるのは青春小説としての側面なんだけれど、その肝心の青春部分がサブいからなぁ。。
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