タグ

岸田秀に関するjiangmin-altのブックマーク (16)

  • ■ - jun-jun1965の日記

    「新しい歴史教科書」というのは、家永三郎系で以前にあったのだよな。まあそれで例の「新しい歴史教科書をつくる会」発足の時、『論座』が、賛同者の数人にインタビューしていて、大月隆寛が途中で怒ったのは有名な話だが、これは一問一答形式ではなくて談話まとめ記事だった。中に岸田秀がいて、「これが政治的な団体なら加わりませんよ。そうじゃないんでしょう?」と言っていて、あとで考えたら、インタビュアーは「そうですよ」と言ったのだろうか言わなかったのだろうかと気になったことであった。 東大名誉教授というような人たちが、こないだ私の藤原書店相手の期日の日に、安倍晋三を総理にしろとかいう声明を出していたそうだが、下らん。これも政治的な運動である。さるにても、東大名誉教授ともあろうものが、成蹊大卒の男を総理にしろと言うなどとは、秩序も乱れたもので、世が世なら、そんな聞いたこともない私大卒のやつになぞ国政が任せられる

    ■ - jun-jun1965の日記
    jiangmin-alt
    jiangmin-alt 2012/09/25
    "「新しい歴史教科書」というのは、家永三郎系で以前にあったのだよな。まあそれで例の「新しい歴史教科書をつくる会」発足の時、『論座』が、賛同者の数人にインタビューしていて"
  • 岸田秀 評 - 暗黙の焦点 別宅。

    現代思想 号数不明 岸田秀 明晰にして難解な思想家 栗慎一郎 ----- 岸田秀がフロイトを凌いでいるのは、擬物論的、実体論的な物理的因果論で神経症を説明しないところにあるのである。ジュウ(ユダヤ)の理論はシュウによってその濁りを取られたわけだ。 岸田秀によれば、時間の意識は満足されなかった欲望を媒介として過去が絶えず現在に割り込んでくるために生じるものである。逆に、未来とは修正されるべき過去である。従って、文化による抑圧を知らなければ、時間の感覚はない。幼児期の記憶を形成しない時代はそうなのである。同じく、自己イコール宇宙であれば空間の認識もない。人間が泥酔を求めるのは、自らを不幸と感じる時であり、酔って寝てしまえば、時間もなく倖せである。 言語も、理論の同じ根幹から説明される。人間存在はそのエスと現実とを画然と遮断されている。そこで、個々の現実に対してはバラバラのイメージを付与して生

    岸田秀 評 - 暗黙の焦点 別宅。
    jiangmin-alt
    jiangmin-alt 2012/08/23
    "岸田秀がフロイトを凌いでいるのは、擬物論的、実体論的な物理的因果論で神経症を説明しないところにあるのである。ジュウ(ユダヤ)の理論はシュウによってその濁りを取られたわけだ"
  • 思考停止と疾病利得 - 内田樹の研究室

    政治向きのことをブログに書くと、しばらく接続が困難になるということが続いている。 べつにサイバー攻撃とかそういうカラフルな事態ではなく、一時的にアクセスが増えて、「渋滞」しちゃうのである。 それだけ多くの人が政治についてのマスメディアの報道に対してつよい不信感をもっており、ミドルメディアに流布している現状分析や提言に注目していることの徴候だろうと私は思う。 今回の普天間基地問題をめぐる一連の報道によって、私は日のマスメディアとそこを職場とする知識人たちはその信頼性を深く損なったと思っている。 新聞もテレビも、論説委員も評論家も、「複雑な問題を単純化する」「日の制度的危機を個人の無能という属人的原因で説明する」という常同的な作業にほぼ例外なしに励んでいた。 ほとんどのメディア知識人が「同じこと」を言っているのだから、「他の人と同じことを言っていても悪目立ちはしないだろう」という思考停止が

  • 困ったときは老師に訊け - 内田樹の研究室

    文學界の鼎談で、日帰り東京ツァー。 行きの車中で、週刊文春の普天間基地問題特集のための原稿書き。 同じ話を繰り返すのに、いいかげん飽きてきた。 私が言っていることは九条論のときからほとんど変わっていない。 それは私たちの眼に「解きがたい矛盾」と見えているものは、「ほんとうの矛盾」から眼をそらすためにつくりだされた仮象の矛盾だということである。 九条と自衛隊は矛盾していない。 それはアメリカが「日を無害かつ有用な属国たらしめる」という政治史文脈の中で選択された。 アメリカにとってこの二つの制度は「二個でワンセット」のまったく無矛盾的な政策である。 それを日人たちが「相容れぬものである」として、護憲派・改憲派に分かれて互いに喉笛にいつきそうな勢いで争っているのは、いったんそれが「実は無矛盾的である」ということを認めてしまえば、「日アメリカの軍事的属国である」ことを認めざるをえないから

  • 基地問題再論 - 内田樹の研究室

    さる新聞社より電話取材で、またまた普天間基地の話。 鳩山首相が沖縄に行ったが、はかばかしい成果がなかったことについて、その政治責任をどう考えるかというお訊ねである。 「はかばかしい成果がある」というのはどういう場合を指すのか、まず新聞社はそれを明らかにすべきであろうということを申し上げる。 他人の仕事について「はかばかしい成果が上がらなかった」というコメントを下すためには、「はかばかしい成果」は何かをまず明らかにする必要がある。 だが、メディアは普天間基地問題について、「こうすべきである」という具体的な提言をなしていない。「米政府も政権与党も沖縄県民もみんなが満足するソリューション」を提示せよと言っているだけである(だが、そのようなソリューションは存在しない)。 何度も言っているように、基地問題は変数が多すぎるために「正解のない」問題である。 私たちに出来ることは、「変数」を列挙し、そのう

  • 従者の復讐 - 内田樹の研究室

    取材で鳩山政権の迷走について訊かれる。 どうして日政府はアメリカに対して毅然とした態度が取れないのかというお訊ねである。 メディアは単純に「それは総理が無能だから」という属人的な説明でケリをつけようとしている。 もちろん統治者の資質が外交の成否に深く関与するのは事実である。 だが、現在の日のメディアの、すべての政治的できごとの成否を属人的な能力によって説明するスキームの定型性に私はいい加減うんざりしている。 たしかに、外交がうまくいっていないという事実に為政者の個人的能力はふかく関与している。 けれども、それが「外交の失敗のすべての理由である」としてそれ以上の吟味を放棄するのは、思考停止に等しい。 歴代の統治者たちが組織的にある外交に失敗するとしたら、それは属人的な要素によっては説明できない構造的な問題があるのではないか、と考えるのが科学的な考え方である。 日のジャーナリストには、こ

  • これね、ある意味古典的難問っていうか、よくあること - finalventの日記

    ⇒ダメな俺を丸ごと受け止めてくれ症候群 ぶくま⇒はてなブックマーク - ダメな俺を丸ごと受け止めてくれ症候群 むずかしいね。 私も男だし、ダメ人間なのでよくわかるが、「ダメな俺を丸ごと受け止めてくれ」という思いを克服することは、たぶん、できないし、そうではない方向に恋愛に自己陶冶していくというのは違うような気がする。 結果論として、「こんなダメな俺をよく丸ごと受け止めてくれているな」状態の男は多いだろうし、もうちょっと言えば、男はそういう思いを抱えて生きていると思う。 じゃあ。 「ダメな俺を丸ごと受け止めてくれ」る「母親と一部のドM女性しかいない」というような女性と巡り会えばいいかというと、そのあたりで、うっすら見えてくるわけだけど、「ダメな俺を丸ごと受け止めてくれ」というのは母親への欲望だし、「ドM女性」というのがよくわからないが、それは単なる共依存でしょう。だから、それは、結局は内的な

    これね、ある意味古典的難問っていうか、よくあること - finalventの日記
  • 大仏を巡る与太話: 極東ブログ

    ちょっと雑談するかな。といってまったくの雑談ではなく、歴史歴史学についてだ。だから当然に雑談のレベルも下がる下がる。 歴史を学んだり、歴史に関心をもっていくと、あるところで、皆目わからなくなる部分に出会う。歴史というのはある意味でこじつけの説明ともいえるのだが、説明を聞かされても、納得しないという以前に、「お前らおかしいんじゃないの、頭?」という印象が深くなることがある。しかし、実際には、頭おかしいのはそう思い出す自分のほうで、通説というのは、ある種の共同謀議じゃないけどそれなりの意味があったりする。 皆目わからないのは、史料がないからということもある。史料を探せばわかるふうな問題だといずれ新史料から大胆な史観が生まれることもある。そうした点で史料が絶対的に欠けているのが古代史だし、しかも古代史というのは近代がもつ古代幻想、つまり国家幻想に関係しているから、変だ?という感性は実は国家観に

    jiangmin-alt
    jiangmin-alt 2008/06/22
    "通説というのは、ある種の共同謀議じゃないけどそれなりの意味があったりする"
  • 昨日twitterの補足 自我と反復強迫 - finalventの日記

    いわゆる心の問題は自分がわかる範囲で言えば、心理的な問題とメディケアが必要な実は身体的な問題がある。後者は無意識的な問題と言ってもいいかもしれない。そして、前者の心理的な問題の多くは普通に人生の問題ではないか。その、人生=課題の構図はどのような仕組みになっているか? 人間の生存の過程、つまり、人生というのは、対社会的(対性関係を含むとして)、存在の生存戦略に自我を採用している。つまり、自我の戦略の視点から人生の諸問題を見ることができる。 基的には、自我の戦略とは防衛である。そして防衛されるべきは対社会・対世界であると言える。が、それは幻想過程を含んでいることと、もう一つは生物としてのライフサイクルのチャレンジがある。ライフサイクルチャレンジの問題は非常に大きい。いわゆる性の問題は、ライフサイクルチャレンジと対社会と自我の防衛戦略の3項でモデル化できそうだ。たとえば、性欲とされる幻想と身体

    昨日twitterの補足 自我と反復強迫 - finalventの日記
  • Amazon.co.jp: 魂の殺害者―教育における愛という名の迫害: モートンシャッツマン (著), 秀,岸田 (翻訳), Schatzman,Morton (原名): 本

    Amazon.co.jp: 魂の殺害者―教育における愛という名の迫害: モートンシャッツマン (著), 秀,岸田 (翻訳), Schatzman,Morton (原名): 本
  • Amazon.co.jp: 親の毒 親の呪縛: 秀,岸田, 純,原田: 本

    Amazon.co.jp: 親の毒 親の呪縛: 秀,岸田, 純,原田: 本
  • 杜子春の話の裏バージョン: 極東ブログ

    いつからか杜子春の話には裏バージョンがあるような気がしている。オモテのバージョンはあれだ、芥川龍之介名作杜子春というやつで、青空文庫で無料で読むことができる(参照)。筋書きは誰もが知っていると思うが、ウィキペディアにあるように(参照)、こんな展開だ。と引用するにはちと長いし、概要からはわかりづらい意外なディテールが面白かったりするのだが、まあ、いいでしょ。 ある春の日暮れ、洛陽の西門の下に杜子春という若者が一人佇んでいた。彼は元々金持の息子だったが財産を使いすぎたために今は惨めな生活になっていた。 杜子春はその門の下で片眼すがめの不思議な老人に出会い、大金持ちにしてもらう。しかし、杜子春は三年後また財産を使い果たし一文無しになってしまう。杜子春はまた西門の下で老人に出会い金持ちにしてもらい同じことを繰り返す。 三度目、西門の下に来た杜子春は変わっていた。金持ちになったときには友達もよってく

  • 岸田秀の「起源論」 - アンカテ

    岸田秀の「起源論」というを読む。面白い話がたくさんあるが、一番すごいのが、猿が人間に進化する時に、人間のひとつ前の段階の原人とか猿人とかゆう種族がなぜ滅亡したか、という話。いわゆるミッシングリンクという昔からある謎だが、このテーマに心理学者として発言するというのは、何を考えているのか?だが、これまで読んだどんな説明よりも説得力がある説を述べている。 岸田秀が繰り返し言っていることは「人間は能の壊れた生物である」という主張だが、能が壊れているのにどうして生存しているかと言うと、言葉やら観念やら社会やらそういう能の代わりになるものをこしらえたからだ、という。説得力ある議論ではあるが、これまではどうしても「証拠を見せてみろ」と言いたくなった。ところがこいつ、とうとう証拠を出してきた。原人とか猿人とかは、「能が壊れたけどその代わりを獲得できなかったから滅亡したのだ」という主張。アリは

    岸田秀の「起源論」 - アンカテ
  • 岡田斗司夫・岸田秀: 精神分析はもういらない

    ●「ものぐさ精神分析」の受けいられ方,昔・今 岡田 うちの姉が高校生で、僕が中学の時、いきなり姉がニヒルになってしまったんですよ。(一同笑)それで棚を見ると「ものぐさ精神分析」というがあって、これが悪いんだなと思ってですね。それから十年間読みませんでした。姉が突然、「すべては幻想さ」のようなことを言い出してですね、あの時代にはものすごく影響を与えましたね。あの時代と比べて、いまの時代というものの反応はいかがですか。 岸田 ちょっと常識化したという面もありますね。 岡田 当時は、学生に殴りかかられたというような伝説も聞いているんですが。 岸田 いまから二十年も前の話ですね。「理想というのは幻想で、理想のためにいろいろ献身するのは人はいい気分かもしれないが、はた迷惑だ」なんて言ったら、怒ったやつがいて。いまはさすがにそういうのはいませんね。 岡田 いまの学生というのは、先生の学説

  • 猫を償うに猫をもってせよ

  • [書評]唯幻論物語(岸田秀): 極東ブログ

    岸田のは、たぶん二度と読むことがないだろうと思っていた。書を待ち合わせの駅の書店で見かけて手にしたとき、「あ、またか」と思った。パラパラとめくって、「くだらね」と思ったが、その後、このを買って読め買って読めと反復・強迫が始まった。なぜであろうか。岸田のを読むのは、ちょっと恥ずかしいという思いと、読んでもまたかよ損したぁというのが表向きのネガティブな思いではあるが、今回はなにかが違っていた。アレである、当のだけが知らせる直感のようなものがあった。もっとも、このあたりの好悪や評価は人によってかなり違うのだろうが。 なにげなくたらっと読み始めた当初は、ほぉ、小谷野敦「すばらしき愚民社会」への反論ということか、やっぱ、くだらね、とも思った。 ちなみに小谷野のこのは一読して、くだらねと読み捨てたものの、再読して評価を変えた。よいであるし、小谷野は誠実な人文学者さんであると思う。彼にし

    jiangmin-alt
    jiangmin-alt 2005/09/23
    15年来の岸田秀ファンとしてはとても嬉しい。
  • 1