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介護生活に関するkazu_levis501のブックマーク (6)

  • 果てなき介護に疲れ、ついに母に手をあげた日

    衰える足腰、量が増える失禁、度重なるトイレでの排便の失敗――老衰とアルツハイマー病の両方の進行により、2016年の秋の母は弱り、ますます介護に手間がかかるようになっていった。 10月に入ると、これらに加えて過(「介護体制が整ったと思うや、病状が進行…」)も再発した。 いつも午後6時頃に夕を出すようにしていたのだが、少しでも遅れると台所をあさり、買い置きの冷凍品を散らかすのだ。「お腹が空いてお腹が空いて、いてもたってもいられない。御飯を作ってくれないあんたが悪い」――欲は原始的かつ根源的な欲求ということなのだろう。何度言っても、懇願しても怒っても止まらなかった。 自分が壊れる時は、必ず前兆がある。 今回の場合、前兆は、「目の前であれこれやらかす母を殴ることができれば、さぞかし爽快な気分になるだろう」という想念となって現れた。 理性では絶対にやってはならないことだと分かっている。背中も

    果てなき介護に疲れ、ついに母に手をあげた日
  • 介護体制また崩壊、預金残高の減少が止まらない

    介護体制また崩壊、預金残高の減少が止まらない
  • 病状が進行し、やたらと怒る母。薬を増やすか?

    2015年12月、主治医を総合病院のA医師から、開業医のH医師へと代えた最初の診断の日、母はH医師へやたらとつっかかる対応をした。 「私なんともありません。当はこんなとこ、こなくたっていいのよ」 「なんでそんなこと聞くんですか。関係ないでしょう」 長谷川式認知症スケールのテストをしようとすると、「そんなこと必要ないです」と、答えようとしない。H医師の巧みな話術でうまくテストを受けさせることができたが、なぜここまで反抗するのかとちょっと不思議に思った。もともと母には、自分がアルツハイマー病とは認めない、認めたくないという意識はあったが、ここまで医師につっかかる対応をしたのは初めてだったからだ。 最初は、環境の変化に拒否反応を示しているのかと思ったが、実際にはアルツハイマー病の症状のひとつだったようだった。性格が徐々に変化し、怒りやすくなってきたのだ。 H医師のところへはほぼ1か月に1回、通

    病状が進行し、やたらと怒る母。薬を増やすか?
  • 認知症になっても、母のきっぷは変わらず

    母と私の住む家は、1975年に亡父が建てたものだ。築40年超。 建築基準法は1981年に大改正されて、それ以降の新築の建造物は厳しい耐震基準をクリアしなくてはならなくなった。我が家はそれ以前の“古い”建物である。 とはいえ、建物自体はかなりしっかりとしている。建築の頃は盛んに、「第二次関東大震災が来る」と言われていたこともあって、父が建築を任せた地元の工務店にうるさいぐらいに「がっちり作れ」と要求し、毎週のように工事現場を見回ったからだ。 2015年7月、肩脱臼をきっかけに母の生活の拠点を、2階の自室から、1階の応接室に降ろした。その夏を過ごす中で、認知症老人が築40年の古い家で生活することの問題点が見えてきた。 古い家は断熱性が悪い 最初に発覚した問題は、断熱が悪いということだった。 介護用ベッドを置いた応接間は、夏は暑く、冬は寒い。夏はエアコンを効かせていても汗をかきそうだし、冬になる

    認知症になっても、母のきっぷは変わらず
  • 「兄貴、ぜんぶ自分で抱え込んじゃダメだ!」

    (前回→「母に認知症新薬の臨床試験の誘い、そして幻覚」) 2015年4月、じわじわと母のアルツハイマー病の症状は悪化し、自分は過大なストレスで幻覚まで起こす状態だったにも関わらず、私は公的介護保険制度を利用することをまったく考えていなかった。 まったくうかつというほかないが、私は介護保険の分野に老人に対する「公的な」支援制度が存在することを全く意識していなかった。 この原稿を書くに当たって、メールの過去ログを検索したところ、2014年11月の時点で、妹が介護認定を取得する必要性について言及していた。ところが私は、「自分で母を支えるしかない」と、かたくなに思い込んでいた。正確には公的介護制度の存在は意識していたが、母と自分が利用可能な制度であるとは、これっぽっちも思っていなかったのだ。 「そんな馬鹿な」「こんな人が書く原稿を信じていいのか」と言われそうなので、すこし背景を説明させていただく。

    「兄貴、ぜんぶ自分で抱え込んじゃダメだ!」
  • 「事実を認めない」から始まった私の介護敗戦

    「事実を認めない」から始まった私の介護敗戦
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