これはフィクションです 小谷野敦 朝、目を覚ますと、今日はどういう楽しいことがあるかを考えないと、起き上がれない。たとえばその日は、昼には天ぷらそばを食べよう、と思って起き上がった。 十五年前にタバコをやめてから、こうなった。それまでは、朝起きるとまずタバコを喫ったから、それが楽しみだったわけだが、それがなくなったのでそんな儀式が必要になった。朝食にフルグラを食べるとか、だいたい食べものに関するちょっとした楽しみである。 起きた泉浩太(これが主人公の名である)は、自室へ行って着かえ、パソコンの前に座ってメールをチェックする。すると、フランスへ留学している妻からのメールが来ている。現在では、これも泉にとって楽しみの一つになっている。もっとも中身は、「今日も図書館で調べものです」といったそっけないものだが、それでも、いい。妻はニ十歳年下で、四十歳になってやっと留学の機会を得た。泉は六十歳になり