清里物語 清里は、標高千二百メートルの高原です。 水はつめたく、空はひろく、はるかに富士山が浮かんで見えます。秋と冬が長く、最低気温はマイナス二十度にまで下がることがあります。 この八ヶ岳山麓の高原が清里と呼ばれるようになったのは、たぶん明治八年からです。この年二月十五日、当時浅川村と樫山村が合併して清里村となりました。何のとりえもない、小さな村でした。 夏、清里は若者の街になります。駅前の通りも清泉寮も、民宿もペンションも喫茶店もお土産品店も、人、人、人であふれます。赤いパンツのサイクリングの一団が、牧場の間を駆け抜け、二人づれが手をつないで、ソフトクリームを買う順番を待っています。 清里は変わりました。 私たちが開拓者としてこの清里へやって来たとき、ここは一面の荒野でした。 私たちのふるさとは、東京の水ガメといわれる小河内ダム(奥多摩湖)の水の底です。 このダムを作るため
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