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ブックマーク / note.com/onoholiday (8)

  • 最も残酷なのは、「誰でも幸せになれる世界」に住む人々|小野ほりでい

    不幸や理不尽の存在を抹消することによってこの世を「肯定」しようとする試みはどれほど善意で取り繕っても暴力という質を外れない。この世に回避不可能な不幸や理不尽はなく、みな平等の可能性のもとに暮らしているという思い込みを公正世界信念などと呼んだりするが、なかでも自己責任論(すべての不幸には“原因”がある)はその最も単純な表現だろう。 「自由意志」には「責任」が伴っているという合理主義的な世界観は、ともすれば合理の存在し得ないところに合理を見出そうとする不合理に帰結する。つまり、「自由意志」に基づいて判断したから「責任」が生じるのではなく、「責任」を追及したい事件に対して遡及的に「自由意志」とか「判断の余地」が生じるのだ。世の中で「理不尽」な「不幸」があれば、必ずそこに駆けつけて「責任」や「自由意志」の存在を見出し、世界の合理性を保とうと試みる者が存在するが、これが自己責任論者の一般的な倫理で

    最も残酷なのは、「誰でも幸せになれる世界」に住む人々|小野ほりでい
  • 被害者はなぜ”追撃”される? 冷笑系クラスタの仕組み|小野ほりでい

    皆さんは、自分の見ている前でいじめが起きているときに加害者と被害者のどちらに寄り添いたいと思いますか? 「当然、被害者だ」と答えたあなたは・・・たぶん、心の強い人です。世の中には、「加害者」と「被害者」が存在しているときに「加害者」のほうに加担することを選ぶ人が実は少なくありません。なぜそういうことになるのでしょうか? これには次のような理由があります。 △加害者と被害者、どっちに味方する? さて、世の中誰が当の「加害者」で「被害者」なのかを見定めることは簡単ではありませんが・・・ここでは、単純に「いじめ」の加害者と被害者がいたとしましょう。 このとき、それを目撃したわたしたちは単純に図のAとBのように、「加害者側」に立ってそれを笑い飛ばすか、それとも「被害者側」に立って寄り添うかという選択を迫られます。 このとき、「加害者側」に立とうとするひとたちの動機はシンプルです。それは・・・ 被

    被害者はなぜ”追撃”される? 冷笑系クラスタの仕組み|小野ほりでい
  • リアリストはなぜ話が通じないのか?|小野ほりでい

    どんな人も、何かを特別に重要だと考えることによって生きる糧にしています。その多くは、社会で成功してお金を稼ぐこととか、子供を育てることとか、あるいは信仰的なものかもしれませんが、もっと個人的なものに対する愛好を糧に生きている人はオタクなどと呼ばれたりしますね。 いずれにせよ、その「信じているものがある」から生きていける、という主観的な部分を取り沙汰すれば、どんな人もオタク的であるという言い方もできるかもしれません。 一方で、特別に個人的なものを糧にして生きている人にとって避けられないのは、「自分が信じている」ものの価値を冷笑されたり、否定されるという経験です。特に、趣味を持っている人は、以下のような物言いをする人たちに遭遇したことがあるかもしれません。 このような物言いをする人たちは、自分のことをリアリスト(現実主義者)だと言ったり、思っていたりするようです。リアリストにとって、自明に存在

    リアリストはなぜ話が通じないのか?|小野ほりでい
  • 主観的な世界の貧困化―――実存主義に向けて|小野ほりでい

    たとえば書物とかペーパー・ナイフのような、造られたある一つの物体を考えてみよう。この場合、この物体は、一つの概念を頭にえがいた職人によって作られたものである。職人はペーパー・ナイフの概念にたより、またこの概念の一部をなす既存の製造技術―――けっきょくは一定の製造法―――にたよったわけである。したがってペーパー・ナイフは、ある仕方で造られる物体であると同時に、一方では一定の用途をもってもいる。この物体が何に役立つかも知らずにペーパー・ナイフを造る人を考えることができないのである。ゆえに、ペーパー・ナイフにかんしては質―――すなわちペーパー・ナイフを製造し、ペーパー・ナイフを定義しうるための製法や性質の全体―――は、実存に先立つといえる。(「実存主義とは何か」、サルトル) わたしたちが、なぜ自分は「生きていてよい」のかと定義する方法は―――すなわち、自己の存在を肯定する方法は大きくふたつに分

    主観的な世界の貧困化―――実存主義に向けて|小野ほりでい
  • 政治の話をやめて、猫や犬の画像でも見ましょう|小野ほりでい

    cakesという媒体がこの2ヶ月で立て続けの炎上を経験している。3回目になる今回は、ざっくり言えば声優・文筆家のあさのますみさんが以前からcakesでの掲載に向けて準備していた友人の死にまつわる連載が、cakes1回目の炎上(DV被害を虚偽と決めつけた人生相談)、そして2回目の炎上ホームレス取材記事)を受けて「センシティブな内容だから」という理由で反故にされ、掲載を拒否されてしまったというものだ。(詳しくは人の記事を参照。) 言うまでもなく、この掲載拒否の動機は内容に関する倫理的な吟味によってではなく「炎上するかもしれないから、もう炎上したくないから」という消極的な理由によるもので、その判断が裏目に出てかえって炎上してしまった格好になる。 しかし、今回の件についてのcakes側の粗末な対応は、cakesが抱えている特別な問題ではなく、断言してもいいが、ほとんど全てのメディアで日常茶飯事

    政治の話をやめて、猫や犬の画像でも見ましょう|小野ほりでい
  • 非モテは不幸だという呪い|小野ほりでい

    人間ははじめ無能の役立たずとして産声をあげ、そして遅かれ早かれ無能の役立たずになって死んでいくものである。人間の質を有用さと無能さのどちらに置くかで迷ったら、まず後者と考えて間違いないだろう。したがって、私たち人間は大なり小なり自分の無能さを受け容れなければ立ち行かなくなる時がやってくる―――無能な自分に対する否定的感情は、自分自身に対してか、それを転嫁された他人に対する攻撃として結末するだろう。相模原障害者施設殺傷事件などはその結末の一例である。 無能で役立たずな自分に対する愛情を私は自己肯定感と呼んでいる。しかし、無能で役立たずな人間に対する愛情のまなざしを示すもっと普遍的な名前がある。人権である。人権は、どのような人にも変わらない条件で一様に存在している。私が人権を、ほかの何を差し置いても最も偉大な発明だと感じざるを得ないのは、それが存在するという主張なしには存在し得なかったものだ

    非モテは不幸だという呪い|小野ほりでい
  • 性がゲーム化することとその弊害について|小野ほりでい

    やはり僕らの社会においてセックスは、金銭とはまったく別の、もうひとつの差異化のシステムなのだ。そして金銭に劣らず、冷酷な差異化システムとして機能する。(中略)何割かの人間は毎日セックスする。何割かの人間は人生で五、六度セックスする。そして一度もセックスしない人間がいる。何割かの人間は何十人もの女性とセックスする。何割かの人間は誰ともセックスしない。これがいわゆる「市場の法則」である。(「闘争領域の拡大」、M・ウエルベック) 私たちの暮らしている社会は、「闘争領域の拡大」から四半世紀を経てもその世界観を寸分違わぬ形で再現しているばかりか、むしろその傾向を加速さえしている

    性がゲーム化することとその弊害について|小野ほりでい
  • 無思想はなぜヤバいのか|小野ほりでい

    ヤバい思想、と言われると皆さんが思い浮かべるのはなんでしょうか。ファシズムや全体主義?差別主義?優性思想?それとも宗教的原理主義? この世に数多ある危険思想のなかで、ユダヤ人哲学者・思想家のハンナ・アーレントが最も重大視したのは「無思想」でした。 無思想、ノンポリ、無宗教…という「無属性」なステータスを自認していることは私たちの国では取り立てて珍しいものではありません。実際、多くの人は自分は「偏った考え方」に染まっておらず、「普通の感覚を持った/普通の日人」であるというふうに考えています。よく異文化から揶揄されるように私たちは、「他の人と違う」ことに漠然とした恐怖を持っており、「普通であること」、そして「特定の立場や意見を主張しないこと」によって他の人たちとの温かい連帯関係の中に存在できます。 しかし実のところ、この「自分は普通の感覚を持っている」という自認こそが危険な状態だ、というのが

    無思想はなぜヤバいのか|小野ほりでい
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