【戦後70年特別企画】 「昭和陸軍」の失敗。エリート軍人たちは、どこで間違えたのか 敗戦は戦う前から見えていた にもかかわらず、武藤も田中も南方進出の方針を変えず、'41年7月、南部仏印に進駐。アメリカは事前の警告通り、直ちに石油を含む対日輸出の全面禁止に踏み切った。 「武藤は南部仏印に進駐したぐらいのことで、アメリカが石油を禁輸するとは予想してなかった。石油を禁輸すれば日本が東南アジアの石油を求めて南方に進出してくるのは明らか。アメリカはイギリスを助けるため、まずドイツを叩くつもりで、二正面作戦となる日本との戦争を望んでいないと思い込んでいたのです」 武藤は外交交渉での事態の打開に一縷の望みを託すが、田中はアメリカとの戦争を主張した。結局、ハル米国務長官は日本軍の中国、仏印からの無条件撤兵、三国同盟からの離脱などを求める、いわゆる「ハル・ノート」を提示した。 「田中は、これを飲めば日本は