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ブックマーク / kihamu.hatenadiary.org (42)

  • 正しい戦争など無い - on the ground

    いかなる暴力も正しくない。戦争は暴力の津波である。だから、この世に正しい戦争など存在しない。 正しい戦争の存在を認めないと、暴力の範囲を最低限に抑制すべく規律正しく穏当に遂行された戦争と、無際限の冷酷かつ残虐な行為を伴った戦争とを区別することができなくなる、と言われることがある。「そもそも戦争そのものがよくない」と言うことで、現実にある戦争を道徳的な方向へと引き上げることを不可能にしてしまう、とされるのである。 しかし、この論理はまるっきり間違えている*1。私たちが「そもそも人を殺すことはよくないことだ」と言ったからといって、瀕死の重傷を負って既に助かる見込みのない人から数時間の苦痛を取り去るために命を奪うことと、自分が楽しむために他人の精神や肉体を弄んだ挙句に死へ導いたり、その死体に意図的に損傷を加えたりすることとを区別できなくなると考える人はいない。 殺人を道徳的に正当化することはでき

    正しい戦争など無い - on the ground
  • 祈りとしての革命 - on the ground

    革命とは何であるか。それは、私たちを日常的に取り囲んでいる「市民的現実」の破壊であり、外部からの侵略であると、千坂恭二は言う(千坂[2010])。是々非々の立場取りや条件付き賛否などは、革命とは相容れない。これら議論≒説得可能性なるものは、相手と共通の基盤の上に立つことを意味するが、革命はそうした「基盤」そのものと全面的に対立し、それを覆そうとする行為にほかならないからである。革命は、この世界そのものと一切の妥協なしに敵対することでなければならず、それ以外ではあり得ない。 したがって、空腹への批判や生活の改善要求などは、革命の問題ではない。それらはエコノミーの、つまり経済学の問題であり、経済学批判の問題ではないからである。飢えや貧困をどうにかしようとするヒューマニズムなどは、資主義内部の問題でしかなく、資主義そのものの批判ではあり得ない。無論、空腹への批判が革命と結び付いていた時代もあ

    祈りとしての革命 - on the ground
    lotus3000
    lotus3000 2010/09/26
    こうなると一見オタクっぽいHellsingのアーカードは極めて革命的な宗教者だったんだなあ。笠井潔の反逆の中の「線香花火」として革命というのも革命を反逆の中に囲い込む試みと解釈できそう。
  • 確率・亡霊・唯一者――政治学的想像力のために(1) - on the ground

    目次 1.確率と亡霊(記事) 2.可能性と単独性 3.唯一者と絶対性 4.政治と未来 1.確率と亡霊 例えば今、此処が爆心地になったとしよう。「敵」は近くに潜んでいた。肉片になった私の名は、石か何かに刻まれる。それは「止むを得ない犠牲necessary cost」であったと、皆が言う。しかし、何が「止むを得な」かったと言うのか? 「止むを得ない」のは、それが私でなくとも、誰かが死なざるを得ないからだ 。つまり、そのコストは、確率的に要請されている。無論、1つしかない「この命」の献上を強いられる者にとって、そのような「止むを得なさnecessity」は、全く馬鹿げたナンセンスでしかない。しかし、大変遺憾ながら、命は既に勘定に入っている。私たちを統治すべき統計=算術は、遺漏なく私たちを頭数に入れてくれている――生かすにせよ、死ぬに任せるにせよ。避けられず必要な――necessary――数値が

    確率・亡霊・唯一者――政治学的想像力のために(1) - on the ground
  • 確率・亡霊・唯一者――政治学的想像力のために(3) - on the ground

    目次 1.確率と亡霊 2.可能性と単独性 3.唯一者と絶対性(記事) 4.政治と未来 3.唯一者と絶対性 「ありえた私」が幽霊なら、過去や未来の私も幽霊である。D.パーフィットを中心として唱えられている、人格の同一性は程度の問題であるとする説に拠ろう。パーフィットらは、記憶・欲求・信念・性格・意図などの一連の心理的状態の継続が過去・現在・未来における人格の同一性を存立させると考えるが、私自身は心理的・物理的・社会的を問わず、様々な「利害関係stake」の共通性が主体の同定を可能にしていると主張したい。しかしここで重要なのは、「一生を通じた人格の同一性」が、個々の時点における人格の同質性ではなく、特定の状態の継続性に基づいて「構成された観念」であり、相対的でしかない、という考え方である。 昔とは全く別人になってしまったように思える人を、昔と同じあの人であると認めることは、いかにして可能にな

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    lotus3000 2010/09/17
  • 確率・亡霊・唯一者――政治学的想像力のために(2) - on the ground

    目次 1.確率と亡霊 2.可能性と単独性(記事) 3.唯一者と絶対性 4.政治と未来 2.可能性と単独性 この傲岸さに理論的形象を与えている形而上学的イデオローグは、S.A.クリプキの名で呼ばれている。固有名を現実世界についての複数の「物事がそうでありえた仕方ways things could have been」としての「可能世界possible world」を通じて同じ対象を指示し続ける「固定指示子rigid designator」として捉えたことで知られるこの人物は、固有名を「確定記述definite description」に還元する立場(記述説)を論駁したとされている。 記述説に基づくなら、バラク・オバマという名前は、1961年生まれのアフリカアメリカ人であり、ハワイ出身であり、ハーバード・ロー・レビューの編集長を務めたことがある法学者であり、第44代のアメリカ合衆国大統領で

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    lotus3000 2010/09/16
  • リバタリアンな制度は児童虐待を解決するか - on the ground

    最近、世間では児童虐待の問題が大きな注目を集めている。こうした時勢を受けて、リバタリアニズム・ジャパン・プロジェクト(LJP)のサイトに相次いで興味深いエントリが挙がっている*1。リバタリアン経済学者として知られる蔵研也氏は、「児童保護警察(NPO)が必要だ」と題する記事で、虐待被害を受けている児童を保護するための案として、親権者の住居に無断で踏み込むことも辞さないような過激な「児童保護NPO」の活動と、「警察の分割・民営化」の2つを挙げている。この提案に対してanacapさんは、「子供売買を合法化しよう」と応じている。いずれも相当に刺激的・挑発的な議論である。 これらの提案に対して、強い反発を覚える向きも少なくないだろう。だが私自身は、これらが検討にも値しないような類の暴論だとは思わない。かといって賛成するわけでもない。どれだけ、そしてどのように値するのか、順に検討しよう。 とはいえ、そ

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    lotus3000 2010/08/30
  • 社会運動は日本を変えてこなかったか? - on the ground

    多少時宜を外した感が無きにしも非ずですが、西田亮介氏がシノドスブログに寄稿している「「あたらしい『新しい公共』円卓会議」は、市民運動を越えられるか?」(2010年7月5日)と題する記事について、少しコメントしたいと思います。 予め言っておきますと、私はこの記事では非常に重要な問題が扱われていると思いますし、その結論にも概ね賛成です。しかしながら、いかにひいき目に見ても、「「アマチュアリズム」とパトスに支えられた「社会運動」は、日社会の変革に大きな実行力を持ちえなかった」との診断は、随分と大味で、容易に受け容れることはできないものです。たぶん、いささか狭義の――つまり昔ながらの大文字の――「政治」や、トータルにイメージされた――日文化論と結び付きやすいような――社会の「構造的問題」などへの意識に引っ張られ過ぎたゆえの認識なのかな、という感じを抱きます。 「運動」は日社会を大して変革して

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  • 現代国家とポピュリズム - on the ground

    去年のある時期から、現状認識についてまとまったことを書かなければならないという思いに駆られていて、それは主に社会学的な意味でということなんだが、社会学的な現状認識となると非常に総合的な判断として家族やら経済やら司法やら、色々な分野に目を配らなければならないので、正直いつになるのか分からないと思いながら断片的にを読んだりメモを取ったりしてきた。それをいつ書けるのか、そもそも書けるのかは今でも不明だが、別の角度から、つまり政治哲学や政治思想史的な見方からは何らかのことを書けるかもしれない。と言うのも、ここ数ヶ月のエントリの中には、断片的にそうした意味でのアイデアが含まれているから。 それは一言で言えば、リベラリズムとデモクラシーという近代的価値観がとにかく浸透し尽くした果てとしてのポピュリズム的状況ということであり、別の側面を捉えれば国家のメタモルフォーゼということでも言える。これは何から言

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  • シュティルナーを疎外論的に読む誤りについて - on the ground

    「はだかの王様」の経済学 作者: 松尾匡出版社/メーカー: 東洋経済新報社発売日: 2008/06/06メディア: 単行購入: 1人 クリック: 136回この商品を含むブログ (37件) を見る svnseedsさんのところとコメント欄の著者コメントを見て気には留めていたが、ようやく書店で見かけたので、シュティルナーに言及しているところだけ立ち読みした。 まぁシュティルナー理解としてはオーソドックスなものだとは思う。つまり、典型的な誤解だということ。私からすれば、3つほど誤りがあって、第一に、シュティルナーは神やら国家やら人間やらを「実体のない幽霊」として捉えていたとするところ。第二に、シュティルナーを個人主義者だとするところ。第三に、シュティルナーを疎外論者だとするそもそもの理解。 先に一般的な理解を得にくいであろう二点目を処理しておくと、エゴイズムと個人主義は異なる立場であるというの

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  • 憲法の機能をめぐる認識のズレ - on the ground

    憲法記念日であるので憲法をお題に何か書くことにしますが、さして詳論したいと思うことも無いので、あまり指摘されていないと思うことだけを、なるたけ簡潔に話します。 左派的な立場から憲法が論じられるのを見聞きすると、「そもそも憲法とは国家権力を縛るためのものにある」といった趣旨にしばしば出くわします。もう少し学識の豊かな方だと、「公権力に一定の制約を加えることこそが近代的な意味での憲法の義である」などといった形に、憲法の意味を歴史的に限定した上で話されます。これらはごく自然な理解であり、決して間違っているわけではありません。現に、樋口陽一氏や長谷部恭男氏などの権威ある憲法学者による、一般によく読まれている憲法入門書などでは、そういった自由主義≒立憲主義的な憲法理解が説かれています。 しかしながら、そういった立場は、あくまでも特定の意味において「憲法」なる語を解した場合における正統な理解であって

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    lotus3000 2010/05/05
  • ポストモダンにおけるデモクラシーの価値――宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』 - on the ground

    宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』岩波書店(岩波新書)、2010年 〈私〉時代のデモクラシー (岩波新書) 作者: 宇野重規出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2010/04/21メディア: 新書購入: 10人 クリック: 174回この商品を含むブログ (63件) を見る 吉田徹『二大政党制批判論』や宮太郎『生活保障』、菅原琢『世論の曲解』など、昨年後半は政治学者の手になる良質の新書が相次いで出版された*1。これを一つの流れとして、併せて読まれるべきなのが書である。 政治思想史を専門とする宇野重規によって著された書は、個人の尊重が人々の唯一共通の価値基準となり、「他人と同程度には特別な存在」としての〈私〉の平等が求められる現代を、平等(化)の思想家アレクシ・ド・トクヴィルの思想を手がかりに読み解く。さらに現代フランスの政治哲学の議論なども交えながら、デモクラシーの現代的意味を問う

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    lotus3000 2010/05/01
  • 最近のアナーキズム周りについて - on the ground

    最近書店を歩くと、チョムスキーやグレーバーのアナーキズム論の翻訳が並んでいたり、「新しいアナキズム」が云々などというまで売られていたりします。 チョムスキーの「アナキズム論」 作者: ノームチョムスキー,木下ちがや出版社/メーカー: 明石書店発売日: 2009/01/30メディア: 単行購入: 1人 クリック: 7回この商品を含むブログ (8件) を見る資主義後の世界のために (新しいアナーキズムの視座) 作者: デヴィッドグレーバー,高祖岩三郎出版社/メーカー: 以文社発売日: 2009/03/30メディア: 単行購入: 2人 クリック: 20回この商品を含むブログ (24件) を見る新しいアナキズムの系譜学 (シリーズ・道徳の系譜) 作者: 高祖岩三郎出版社/メーカー: 河出書房新社発売日: 2009/03/26メディア: 単行購入: 1人 クリック: 29回この商品を含むブ

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    lotus3000 2010/04/20
  • 政治学のたそがれ? - on the ground

    最近はを読む機会が減ってネットばかり見ているが、そうすると、この国には政治学者がいないのだろうか、という気になってくる。ネットで目立つのは経済学や社会学、哲学の研究者や批評家・運動家ばかりで、政治学関係の研究者は一様に慎ましい。多少なりとも目に入るのは(人の自称はさておき)政治評論家や政治ジャーナリストの類で、いわゆる政治学者はネット上に一定数散在しているものの、他の分野の人と絡んだり旬の話題に口を出したりすることを避け、近況報告や内輪のコミュニケーションに明け暮れている傾向が強い。 試しにブログ検索で「牧原出」や「待鳥聡史」などを入力してみても、松井さん・砂原さん・山田さんの3ブログ以外はほとんどひっかからない。これは深刻な問題である。他の分野と比べ、政治学者はウェブ上で過疎状態にあるのだ。 事態はネットに限定される話ではない。今、相対的に勢いのある媒体である『思想地図』と「シノドス

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  • 「セックスの社会化」は可能か? - on the ground

    前エントリに対する反応は、目に入る範囲では相対的に批判的なものが多いかな。ブックマークでのコメントにお答えすることは普段無いんですが、「批判を歓迎する」とわざわざ書いたことだし、たまにはやってみましょうか。 (1)まず、性欲が三大欲求の一つというのは、話の導入として俗説に乗っかってみただけですよ。よっぽど「根拠不明」とカッコ書きしようかと思ったけど、わざわざ必要無いと判断しました。だいたい、「三大〜」とかいう類の呼称である時点で、科学的根拠を論じるレベルの話じゃないでしょう。生活感覚の話です。 問題なのは、「我慢しても死なない」からといって「必要」から除外してもいいという論理をもし仮に採用してしまうと、社会政策の範囲は恐ろしく切り縮められてしまうということで、その点は注意すべきでしょう。 (2)関連して、例えば名誉欲のような他の様々な欲求も社会が手当てすべきなのか(そんなことしたらきりがな

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  • セックスは自己責任でよいのか――性のケイパビリティとセックスワークの原則自由化を考える - on the ground

    このブログでセクシュアリティの問題を扱ったことは、あまりない。採り上げるほどの興味を持っていないということもあるが、セクシュアリティについて語ると、多かれ少なかれ個人的経験と結び付けて考えざるを得ない部分が必然的に出てくるので、ややためらわれるということが大きい*1。ただ、以前から考えていることはあるので、一度まとめて書いておくのもいいだろう。多分に問題提起的な性格の記事で、ほとんど何も調べずに書くことになるので、ツッコミどころは多いかもしれない。批判は歓迎するが*2、十分にお返事できるかどうかはわからないので、悪しからずご了承あれ。 人間の三大欲求は欲・性欲・睡眠欲だとよく言われるが、欲や睡眠欲の充足は社会的な手当てが必要だと考えられているのに対して、性欲の充足は倫理学や社会政策が問題にする人間の基的「必要need」からも除外されていると言っていい。これは実に深刻な問題である。とに

    セックスは自己責任でよいのか――性のケイパビリティとセックスワークの原則自由化を考える - on the ground
    lotus3000
    lotus3000 2009/12/09
    これに興味ある人はこっちも、参考になるかも。http://d.hatena.ne.jp/charis/20091207
  • 祭りのあと―世界に外部は存在しない - on the ground

    この記事は「araikenさんの内田氏批判再考」「「外部」を志向することの困難」「祭りの後、逸脱の果て」「新自由主義的言説の二重構造」を素材として加筆・修正を施したものです。 近代の外部と居直り 宮台真司は、自己決定、人権、国家、共同体といった近代的諸概念の虚構性を十分自覚しながらも、その必要性ゆえに、敢えて近代を選び直すという立場を採る*1。宮台によれば、いわゆる「カルスタ・ポスコロ」と呼ばれる「文化左翼」は、近代世界が虚構の概念によって成り立っていることを暴露しただけで悦に入ってしまい、虚構の必要性を十分に認識せずに「近代の外部」を夢想しがちである。宮台は、こうした反近代的・外部礼賛主義的態度は、「すべてが虚構であるのならばなんでもありだ」という「ネオコン的ニヒリズム」に容易に接続しやすく、自らが掲げる恣意的な正義を正当化する態度を招きかねないとして警戒している。 そうした「居直り」は

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  • 哲学的想像力と政治学的想像力 - on the ground

    東浩紀の議論に絡めて色々書き散らしてきたので、この辺りで一旦整理。国家や民主主義などに直接かかわるものだけ、まとめておく。時系列にする意味はあんまり無いと思うので、改めて載せておきたいところを拾いながら(注は省略)、その結び付きで並べていく。とりあえず全体を概観できるものから。 「現代日社会研究のための覚え書き――ネーション/国家」、2008年10月27日 以上のような認識に立つと、ポストモダン社会では、「共通の行政、共通のデータベース、共通のネットワークのうえに、異なった価値観を抱えた無数のサブカルチャーが林立するという、一種の二層構造」が採用されざるを得ないとする東浩紀の議論は、説得力を増す。東によれば、象徴的統合が不可能になった現代では、複数の象徴的共同体(「小さな物語」)の層における利害衝突が、その下にある非理念的なシステムの層――「大きな非物語」――で工学的に解決されるという「

    哲学的想像力と政治学的想像力 - on the ground
    lotus3000
    lotus3000 2009/11/18
    この部分は、さらに高度資本主義社会における人格崇拝とかが絡んでくると思われる。
  • 東的国家観について - on the ground

    大澤真幸『逆接の民主主義』(角川書店:角川oneテーマ21、2008年)の酷書評を書こうかと思ったのだけれど、それより東浩紀のエントリに触れた方が面白そうだし、生産的な気もするので、そうする。過去のエントリも含めて挙げる。 シンポに向けてのメモ http://www.hirokiazuma.com/archives/000361.html シンポに向けてのメモ2 http://www.hirokiazuma.com/archives/000362.html 信頼社会は不安社会よりいいのか? http://www.hirokiazuma.com/archives/000394.html 東・萱野・赤木・宮台・安藤馨あたりを絡めてまとまったエントリを書こうと試みたことは何度かあるが、その度に挫折している。おかげであちこちに断片的なメモ書きが溜まって困っている。あいにく負債をきちんと処理すること

    東的国家観について - on the ground
    lotus3000
    lotus3000 2009/11/18
    ”自らが行使する暴力に自覚的になることを拒んで、ひたすら暴力を告発する側に回ろうとするヘタレ左翼(のなれの果てのリバタリアンとか)と結構体質的に近いなぁ。”暴力を使うことへの一般的な拒否と、その帰結。
  • 「一般意思2.0」の勘所、あるいは「データベース民主主義」の理論的位置 - on the ground

    私の論文などに興味がある人はごく少数でしょうから、ブログマターに戻って先日の話を続けましょう。 デモクラシーについての私の理論的立場は既にお話したので、今回は東的デモクラシー論が持つ可能的意味にグッと焦点を絞りたいと思います。東さんは「朝生」終了後から、ご自身のツイッターで自らが構想する新たなデモクラシー像について断続的に説明していらっしゃいます。その中で、「データベース民主主義」こそ自分が意図するところだと語っておられる。ほとんど鈴木謙介さんの言う「数学的民主主義」の言い換えですが*1、私の考えでは、これは同時に「データベース全体主義」とも言い換えられます。 早とちりしないで下さい。全体主義だから悪いと言いたいのではありません。現代社会では「良い全体主義」が可能になっているのではないか(それに抵抗すべきか否か)、といった議論は、社会思想分野におけるトレンドになりつつあります*2。全体主義

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  • ポストモダンが要請する新たな政治パラダイム――Stakeholder Democracyという解 - on the ground

    私はリアルタイムで見ていたのですが、昨日の『朝まで生テレビ』に出演した東浩紀さんが、「インターネットがある現代なら、5〜10万人の規模でも直接民主政が可能だ」と力強く語っていました。この発言は、これまで彼が展開してきた一連の議論の延長線上にあるものなので、彼の読者にとっては特段新鮮な印象を与えるものではありませんが、その内容が刺激的なものであることは確かです。 過去に何度か採り上げているように、デモクラシーの新たな形についての東さんの提起に対して、私には賛成できるところとできないところがあります。明確に賛成できるのは、私たちが置かれている「ポストモダン」という社会状況についての認識と、「政治的意思決定の仕組みというものを原理的なところから考え直してみる必要がある」との問題意識に対してです。「ポストモダン」なる社会認識については、昨年「現代日社会研究のための覚え書き」と題したシリーズ記事で

    ポストモダンが要請する新たな政治パラダイム――Stakeholder Democracyという解 - on the ground
    lotus3000
    lotus3000 2009/10/25
    ”「自治」はおろか、「代理」してもらうことさえできない主体が存在”