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あとでもっかい読むに関するnagonaguのブックマーク (4)

  • 語りを巡るメモ幾つか - Living, Loving, Thinking, Again

    先ず、 サヴァルタンが語り得ないならば、語れるように教育すればよい。初等・中等教育はもちろんのこと、成人教育も重要な役割を果たす。部落解放運動の中では、成人に対する識字教育が行われてきたが、その中では、生活史の作成がなされることがあった。つまり、読み書き能力の獲得は、自分の置かれている状況を日常的な構えとは違った反省的な視線でとらえ返すための手段でもあるのである。当事者のエンパワーメントという側面が強調されがちであるが、識字教育は、社会的な現実の構成/記述という点でも、大きな可能性を持つ。社会学者が代弁してあげるのではなく、当事者が語ったほうがずっと迫力があるし、影響力も大きいのは当然である。 http://sociology.jugem.jp/?eid=274 「識字」も重要なのだろうけど、それよりも(広い意味での)〈暇〉、(太郎丸氏の言葉で言えば)「余裕」の方が重要だろう。〈暇〉がなけ

    語りを巡るメモ幾つか - Living, Loving, Thinking, Again
    nagonagu
    nagonagu 2009/04/11
    「代弁」するネタ探しでうろつく社会学者の卵たちを知っている。違和感と嫌悪感を覚えていたが、少し曇りがとれる気がした。
  • http://angel.ap.teacup.com/unspiritualized/226.html

    nagonagu
    nagonagu 2009/03/18
    「ドレイ論」に接し「自己植民地化」を問い直してみたい。“なんと「主人」に従順な「ドレイ」だろう”という小林評も同意。沖縄を出汁に踊る、ハヂチリフリムン。
  • 蛙が唄うモノフォニー。(後編) - kananaka's blog

    こんな昔話を綴っているのには訳あって、宮城康博氏の『沖縄ラプソディ <地方自治の旨>を求めて』を、年をまたいで、ようやく読了し、沖縄のこれまでの歴史と、今置かれている状況に、あまりに無知で疎すぎた自分を、深く恥じたからだ。特に、第一部の「こどもたちへ」の章では、複雑で矛盾する現実に揺らぎつつも、決して譲れない一線を伝えようとする、筆者の真摯な姿勢に心打たれ、何度も涙腺が緩んだ。 書の帯に、「生きる場所を守るために地方自治に賭ける」と書かれている。この人生を、真に自分が主人公として生き抜くためには、人の顔色をうかがってばかりではいけないだろうし、人に意見を求めるだけで、自ら判断できない姿勢もいけないだろう。たとえ失敗しても自分の判断で動ける、その意味で「自立」は、個人の人生においても、地方政治においても、重要なキーワードだと感じる。 その一方で、他人は私の期待を満たすために生きているわけ

    蛙が唄うモノフォニー。(後編) - kananaka's blog
    nagonagu
    nagonagu 2009/02/12
    まいった。後ほどしっかり応答したい/しっかりではないがコメントした。
  • 「歴史=物語」の倫理学―《痕跡》と《出来事=他者》のあいだにある「主体」について― - 過ぎ去ろうとしない過去

    歴史」をとりあえず「記述された歴史」という狭義の意味で定義してみよう。次に、この「記述された歴史」が、実際に起きた出来事としての歴史と等しいものかどうか検討してみよう。たとえば史料において、われわれは戦国時代の日には織田信長という人がいたことを知る。しかし、もちろん同時代には彼以外にも何千万ものの無名の人々がいたのであって、しかし彼らについては、われわれはおそらく永遠に知ることができない。また、「言語論的転回」*1を経た今日では実際に起きた桶狭間の合戦と史料に記述された桶狭間の合戦の間には、どんなに信頼できる史料だろうとなお、埋めることのできない差異があることは常識である。 以上のことから、「歴史」は「物語」*2であるという言説が産まれる。それはある種の人々、たとえば「新しい教科書をつくる会」のような人々にとっては都合の良いナショナル・ヒストリーを構成するための言い訳であり、このような

    「歴史=物語」の倫理学―《痕跡》と《出来事=他者》のあいだにある「主体」について― - 過ぎ去ろうとしない過去
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