MIME-Version: 1.0 Content-Type: multipart/related; boundary="----=_NextPart_01CA8322.AE0BDC20" このドキュメントは単一ファイル Web ページ (Web アーカイブ ファイル) です。お使いのブラウザ、またはエディタは Web アーカイブ ファイルをサポートしていません。Microsoft Internet Explorer など、Web アーカイブをサポートするブラウザをダウンロードしてください。 ------=_NextPart_01CA8322.AE0BDC20 Content-Location: file:///C:/90E65509/sasaerukai091204gekirei.htm Content-Transfer-Encoding: quoted-printable Conten
4. 「日本国民としての責任」論が消えていったのは、リベラル・左派の全般的な「右」の立場への移行(転向)という要因が大きいと思われるが、後者のポストコロニアリズムからの「国民主義」批判も、同じく大きな役割を果たしていると思う。こうした批判により、「日本国民としての責任」論自体が消されてしまったからである。 一例を挙げよう。西川祐子は、以下のように、大江を「国民主義」者として批判している。 「戦後歴史学を対称軸として、現に復活しつつある皇国神話と大江が構築した民衆神話はポジとネガの関係をもって対抗的に位置づけられる。三者は桔抗するが、どうじに奇妙に安定した構図を形づくる。三者は互いに支えあっている。反体制の作家である大江健三郎は反体制の神話の創作により安定の一翼を担い、戦後文学を代表する国民的作家となる。この安定した構図が戦後という地政学そのものであるとしたら、わたしはそれを読みぬくことによ
きのう、よく読ませていただいている、信頼しているある人のブログを読んで、少し不安に思ったことがありました。 日本のパレスチナ支援運動は「反ユダヤ主義」と紙一重だとずっと思っていた。 「過ぎ去ろうとしない過去」 少しショッキングな出だしなのですが、わたしも、少し前からパレスチナ問題や運動に関っているものとして、この指摘をどう受け止めていいのか、考えてみることにしました。といっても、この日の文章の以前からも、一定の議論のやりとりがあるので、この部分だけを取り上げて、肯定したり否定したり反論したり、というものではありません。この文章に含まれている、ある問題や支援に関ったり、運動をしたりすることが、ある別の問題を否定したり、ある別の運動の妨げになることがある、ということについて、わたし自身が、パレスチナ問題だけでなく、日本の中の問題や運動に関る上で、感じていることを書いてみようと思ったのでし
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く