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ブックマーク / sivad.hatenablog.com (5)

  • 「名誉」はゲーム続行のからくりなのかも - 赤の女王とお茶を

    なと思ったり。 囚人のジレンマによると、 ゲームの繰り返し回数nを両方の囚人がともに知っていた場合は、全ての回で囚人がともに「裏切り」を選択する事が分かっている。 不確定要素はゲームにおける戦略・振る舞いに強い影響を与えますが、特に「残り回数」というのは大きなファクターだと考えられています。 「残り回数」。 いやな言葉ですが、人間にも「残り回数」は厳然として存在します。 人間の死亡率は今のところ100%なわけで、どんな人であろうとゲーム/関係の機会は有限です。とはいえ、若い時から自分の残り人生をカウントすることはあまりないでしょうし、カウントしてもブレが大きいのでその量的な有限性を明確に意識することはありません。 しかし、40を超え、50にたどり着く辺りから、「カウント」の冷たい音がカチカチと聴こえはじめます。 もはや漠然とした有限性ではなく、確実で明確な「残り回数」が見え始める。 ここで

    「名誉」はゲーム続行のからくりなのかも - 赤の女王とお茶を
    nosuke42
    nosuke42 2007/11/06
  • 2007-10-31 - 赤の女王とお茶を 理系のための実戦職場コミュニケーション術

    ラボ・ダイナミクス―理系人間のためのコミュニケーションスキル 作者: カール・M.コーエン,スザンヌ・L.コーエン,Carl M. Cohen,Suzanne L. Cohen,浜口道成,三枝小夜子出版社/メーカー: メディカルサイエンスインターナショナル発売日: 2007/05/01メディア: 単行購入: 27人 クリック: 631回この商品を含むブログ (10件) を見る このは、組織やチームのなかで生き残り、成功するためのコツを知りたいと思っている科学・技術分野の研究者や技術専門職のためのである。 〜「はしがき」より これは面白かった。 スーツとギークの対立、というお馴染みの構図があるように、やはり欧米でも「理系人間のコミュニケーション」というのは問題視されているようです。 しかしそこは何でもメソッド化してしまう形式知文化圏。理系文系問題に喘ぐ日を尻目にさっさと一冊にまとめて

    2007-10-31 - 赤の女王とお茶を 理系のための実戦職場コミュニケーション術
  • 赤の女王とお茶を - 動物の自己認識

    鏡に写った自分の姿を見て、それが「自分」だと、少なくとも自分に由来する何かを反映していると認識できる動物はヒトを除くとサル、イルカ、ゾウということになっているようです*1。 これはつまり世界認識モデルの中に「自分」というアイコンがあるかどうか、要するに一人称視点から外に出られるかどうかという問いにある程度答えるものだといっていいでしょう。 世界モデルの中に「自分」というパラメータを入れると、世界の振る舞いを予測するための計算は各段に高度になります。つまり自分の行動が世界に与える影響も含めて未来予測しなくてはならなくなり、単に状況に反応するだけではなく、状況を作り出すという新しい世界認識が生まれます。 まあこの世界モデルが人間の意識の起源であり最大の武器という話もなくはないようですが、しかし動物というのは当に「自分」モデルを持っていないのか? で、前振りが長くなったんだけど、このワンコ。

    赤の女王とお茶を - 動物の自己認識
    nosuke42
    nosuke42 2007/09/04
    認識とかそのまわり
  • 赤の女王とお茶を - 5分でわかるドーキンスvsグールド

    ドーキンス VS グールド (ちくま学芸文庫) 作者: キム・ステルレルニー,狩野秀之出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2004/10/07メディア: 文庫購入: 6人 クリック: 45回この商品を含むブログ (70件) を見る久しぶりに再読。やはり面白いです。 せっかくなんで生物学界の二大プレゼンテーター、リチャード・ドーキンスと故スティーブン・J・グールドの生物進化観と、その論争について簡単にまとめてみましょう。 「利己的遺伝子」のドーキンス。 「断続平衡説」のグールド。 なんといっても二人を特徴付けるのはこれらの斬新なキャッチフレーズでしょう。 しかし同時に多くの誤解を生んだのもこの言葉たち。まずこの2つのフレーズについて、よくある誤解と正しい理解をチェックしておきましょう。 ・利己的遺伝子 あまりにも有名なこのフレーズ。「ミーム」と並んで、ドーキンスのコピーライターとしての才能

    赤の女王とお茶を - 5分でわかるドーキンスvsグールド
  • 2007-01-20

    ちょっと前の科学論のところで「抽象とは何か」についてなんとなく考えていて、ちょっとゲイジュツ方面についてまでヨタが回ってきたので書いてみます。 こないだ科学は現実世界を抽象化した「地図」である、といったように、「抽象化」というのは大体、ごちゃごちゃした「ナマ」の何かから要素を抽出して単純化したりモデル化したり、という作業なわけですよね。 でまあ、世間的な用例として「抽象的な絵」だとか「抽象的な表現」とかよく言いますね。 例えば上に掲げたカンディンスキーとか、典型的な「抽象画」です。 でも待てよ。 じゃあこの絵は何を「抽象」しているのか? そもそも何かを「抽象」していることがこの絵にとって重要なことなのか? とか思ってしまったわけです。 私の感覚では、この絵を味わうにあたってそれが何の「抽象」であるかはそれほど重要ではありません。それよりも大事なのは、色であり、配置であり、質感であり、筆致で

    2007-01-20
    nosuke42
    nosuke42 2007/01/22
    シニフェイとシニフィアンを混同しているように思う.抽象化された結果は「ナマ」で捉えられる「本質」だとか.後半が読み取れないや.
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