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*_T:高橋哲哉に関するo_keke_nigelのブックマーク (6)

  • jisyus2

    『ためらいの倫理学』(内田樹)について 2006/05/13 於:現象学研究会 ○はじめに 「自分の正しさを雄弁に主張できる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが私は好きだ。」 筆者は「こので自分の語りたかったこと」を以上のように端的にまとめている。 この言葉の通り、「自らの『可誤性』を念頭に置きながらも、自分自身の感触に基づいて『よし・あし』を吟味する」ことが筆者に一貫する姿勢として伺える。こうした視点から、「権威主義的」「党派的」な思弁に陥っているポストモダン思想の問題を的確にとらえていくところは、胸のすくような思いで読んだ。だが、内田のこの「実存に定位する誠実な懐疑主義」とでも呼ぶべき思想的態度は、(「これは問題」「ここが変」というように)諸問題を批判するに際して効果的かつ魅力ある表現を生み出している一方、思想の原理を生み出すためには弱いものだというようにも感じた。自分な

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    o_keke_nigel 2010/04/05
    加藤典洋氏と高橋哲哉氏の「戦争責任」論争に対して、高橋氏に対して批判的な見解を示す内田樹氏という構図について。この構図はどこかでも見たことがあるような。
  • 加藤典洋氏と高橋哲哉氏の

    加藤典洋氏と高橋哲哉氏の「論争」 ~『敗戦後論』と『戦後責任論』を中心に~ 総合政策学部3年 70108602 松 純平 Ⅰ、発表の形式 著者紹介→加藤氏の主張の論点→高橋氏の論点→具体的な論争部分 Ⅱ、著者紹介 ・加藤典洋氏 1948年、山形県生まれ。東京大学文学部卒業仏文科卒業、現在、明治学院大学国際学部教授、文芸評論家。主な著作に『アメリカの影』、『ホーロー賞』、『戦略的思考』、『可能性としての戦後以後』などがある。 ・高橋哲哉氏 1956年、福島県生まれ。東京大学教養学部教養学科フランス科卒業、同大学大学院哲学専攻博士課程単位習得。専攻は哲学。現在、東京大学大学院総合文化研究科助教授。主な著作に『記憶のエチカ』、『断絶の世紀 証言の世紀』、『ナショナル・ヒストリーを超えて』などがある。 Ⅲ、加藤氏の主張 1、戦後日の分裂 ・ジキル氏と、ハイド氏 戦後において、日社会は人格的に

  • 2000年6月 Archives - 内田樹の研究室

    6月1日 半ドンなので、ソッコーで家に帰って、たまった洗濯ものを片づけ、掃除をして、アイロンかけをする。 家の中がきれいになると主... 2000年6月 1日 00:00 6月5日 下川正謡会大会無事終了。 これで六月最大のイベントが終わった。 やれやれ。 ご多用中、ご来駕賜った皆さんには心からお礼申... 2000年6月 5日 00:00 6月6日 小林昌廣先生のお弟子さんからメールがきて、「小林昌廣先生のオフィシャル・ホームページをつくったので見に来て下さい」という... 2000年6月 6日 00:00 6月7日 最近、芦屋市のお母さんたちからよく電話がかかってくる。 青少年センターの「ガイド」のトップに「合気道多田塾」が出ているか... 2000年6月 7日 00:00 6月8日 このところ、ゼミの発表がなかなか面白い。 うちのゼミは、学生さんが自由に研究テーマを選んできて、それに

  • 高橋哲哉『歴史/修正主義』批判のための習作

    ■はじめに 『歴史/修正主義』(思考のフロンティア:岩波書店・2001年1月26日発行)を批判する。著者の高橋哲哉 さんは、今までも<戦争犯罪>や<戦時体制化の暴力>を思想的にどう把握し、戦争後の世代が、 <戦争による暴力や迫害>に対して、今生きている時間の中でどのような行動を取るべきかについてラディカル な思索を展開しておられる。また、高橋さんはジャック・デリダ(1930年~)の研究者としても知られている。 私は哲学の門外漢であり、<高橋哲哉>や『歴史/修正主義』を内在的に分析し、それを<脱構築>する ことなど端からできるはずもない。しかし、『歴史/修正主義』の論理には少なからず驚愕し、義憤を感じた。 哲学の素人を専門的な言辞で翻弄し、もって、それほど根拠のあることとは思えない結論を素人に押し付ける、 そのあまりの無神経さと専門家的な傲慢さとにである。もっとも、これは、専

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    o_keke_nigel 2010/04/02
    「高橋哲哉=お節介な宣教師」と断じる論考。異なる倫理観はそれを表明するだけである種のハラスメントとして働き得る(それは逆に受け取る側の倫理の問題でもあるのだが)好例。
  • ポストモダニズム系リベラルの世界も大変だ - 過ぎ去ろうとしない過去

    また南京事件で盛り上がってますね。 中国は南京事件政治利用しているという人がいますが、少なくとも日中国交正常化以降、中国が南京事件に関して「謝罪と賠償」を要求したことは一度だって無いし、毒ガス問題など個別イシューを除けば日中間で歴史認識が政治問題になっているのは唯一靖国くらいのものですが、もちろん中国は南京事件があったことをもって靖国神社への参拝に反対しているわけではないのです。 さて、この問題が蒸し返されるときにはきまって、南京事件あったかなかったか「どうでもいい」と思っているのに南京事件「論争」にはいっちょ噛みたいと思っているのが多すぎるのが問題をややこしくしていると思うのですが、それはポストモダニズム系リベラルの問題として表すことができるかもしれません。 つまり、劣化版東浩紀です*1。 http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20081215/p1#c122932

    ポストモダニズム系リベラルの世界も大変だ - 過ぎ去ろうとしない過去
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2010/04/02
    「応答責任性」について、特に※欄でその特徴と、応答責任性への反発/警戒心の所在点がよくわかるエントリ。
  • 応答責任について - 恐妻家の献立表blog

    「応答責任」という言葉は、レヴィナスやデリダの名前と結びつけて語られるのがふつうですが、責任という言葉がresponsabiliteの翻訳語であり、その原語にrespons(応答)という言葉が含まれている以上、ヨーロッパ語圏の人々には、哲学的に洗練されていなかったとしても、責任といえば何かしら応答責任のニュアンスをもって理解されていたのだろうと想像されます。レヴイナスやデリダはその曖昧だったかもしれない伝統をラディカルに突きつめた、そう私は理解しています。 さてしかし、現代の日でこの概念を用いて議論をしている代表的な論者として高橋哲哉が挙げられますので、以後、高橋の応答責任論についてのみ私が理解したところを述べます。なお、高橋自身は「応答責任」という四文字熟語を術語のように使っているわけではなく、「応答可能性としての責任」というような表現を用いていますが、ここでは「応答責任」の語と同じこ

    応答責任について - 恐妻家の献立表blog
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