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ブックマーク / mojimoji.hatenablog.com (58)

  • 排外主義者、あるいは日曜サヨク、その4 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    iteau氏が反論を書いたそうだ。>id:mojimoji氏への反論 しかし、不思議な読解をする人たちだな。 元々、「アイヌとチベットと」の中で、「チベット問題との温度差をすげえ感じた - NC-15」という記事に対して示されている、「「どっちもどっち」「いずこも同じ」なる相対化を行い、目前の暴力行為に沈黙をしてしまう、沈黙を強要する」という解釈が的外れだ、ということなのだ。 指摘するまでもないことだと思うが、muffdiving氏は、アイヌ問題とチベット問題の両方を問題だと考えているのは明白だ。仮にチベットを問題にするならば、少なくともアイヌを問題にすることを批判するな、と主張しているのである。そして、(これはバカでないなら分かることだが)「アイヌを問題にすることを批判するなら、チベットについても問題にするな」とは述べていないのである。当たり前だ。何をどう読んだら「沈黙を強要する」ことに

    排外主義者、あるいは日曜サヨク、その4 - モジモジ君のブログ。みたいな。
  • 排外主義者、あるいは日曜サヨク、その3 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    さて、先の記事に対して、id:ruletheworld氏から返事があったので、応答する。>http://anond.hatelabo.jp/20080331011310 「お返事」部分に対して、逐一応答していく。 「チベットへのコミットのみを支持し、それ以外のコミットを批判する(支持しないのではない、積極的に攻撃する)ような態度を正当化する一貫性」 なんというわら人形。一番質的な所が全く述べられてないんだが。その記述に倣うならこう。 「チベットへのコミットのみを支持し、それ以外のコミット『をチベットに関連付けする事で、来チベットへ向かうべきであった問題の焦点をずらし、エネルギーを分散させてしまう事』を批判する(支持しないのではない、積極的に攻撃する)ような態度を正当化する一貫性」 ブコメだから適当読解で、言ってもいないことを勝手に読み取るマンはカンベンな。 要するに、自分の信奉する政治

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  • 排外主義者、あるいは日曜サヨク、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    さて、見つけてしまったので、「倫理の一貫性」(@extra innings)という記事について反論しておく。チベット問題を語っているときに、パレスチナはどうなのだ、アイヌはどうなのだ、という論点をぶつけられたとして、それをどう理解するか、という問題。「排外主義者、あるいは日曜サヨク」の続き。 iteau氏の二つの記事について ↑でid:kurotokage氏が提示したリンク先の記事を書いた人がそもそも倫理の一貫性を行動として示してきたか非常に疑問があるのだが、id:kurotokage氏が仮に倫理の一貫性を問うのだとすれば、その対象の取捨選択は恣意的ではあってはならないはずである。 言うまでもなく、それらは同様に抑圧と侵害の問題系なのであり、「すべてが問題である」と述べるのは当たり前のことである。ただし、人の使える時間は無限ではないから、一人で何もかもについて発言し、行動しつづけることは無

    排外主義者、あるいは日曜サヨク、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。
  • 排外主義者、あるいは日曜サヨク - モジモジ君の日記。みたいな。

    今ここで手を組めば、この人を助けることができる。そのような決定的な場面においてであるならば、悪魔とだって手を組むかもしれない。ただし、ほとんどの瞬間は、そのようなマンガみたいな決定的瞬間の遥か手前にあって、そのような地味な場面で考えられるべきことは別にある。 倫理が力を持つのが、倫理を語る者が腕力を持っているからであるならば、倫理など不要であり、ただ腕力だけがあればいい。そうではなく、倫理が、倫理であるがゆえの力を持つとすれば、それは何に由来するのか。仮にそんな力があるとすれば、それはそこで語られる倫理の一貫性に由来するはずである。倫理が、その恥じ入らせる力によって力となるためには、一貫性がなければならない。一貫性を欠いた倫理は、既に倫理としての力を欠いており、ただの飾りである。その一貫性を欠いた倫理要求が仮に受け入れられることがあるとしても、それは倫理として受け入れられたのではなく、ただ

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  • 「二つのB層」のリアリティ - モジモジ君のブログ。みたいな。

    橋下を支持した人々は、たとえば「福祉を削らずして財政再建はありえません」などという信念を「現実的だ」という。富裕層*1へのさらなる負担増は「非現実的」だが、社会的弱者への支出を削ることは「現実的」なのだ。ここに、現状よりもさらに支援を削り取ったところでの社会的弱者にまともな生活が「現実的」かどうかを頓着する感覚はまったくない。 ところで、「希望は戦争」と言い放った赤木智弘のリアリティの一端は、たとえば次のようなものである。 金持ちや権力者が恵まれているのは、血筋や家柄という固有属性を持っているからであり、彼らが戦争で死んだとしても、その利権は、固有属性を持たない私には絶対に回ってこない。一方で、血筋や家柄を持たない安定労働層と、我々のような貧困労働層との交換可能性は非常に高い。安定労働層は、「たまたま」安定した生活を得られているだけである。念のために言っておくが、私は「努力」などという、結

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    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2008/02/01
    正面切ってのイデオロギー批判。こういう時いつも思うのは、箱モノに使う金は良くて、福祉に使う金は無駄、と考えるメンタリティはどこに?「自分は努力してるから必要ない」と思っているのかな?
  • 独立しなかった植民地=沖縄を考える - モジモジ君のブログ。みたいな。

    「正学校論」@猿゛虎゛日記の、主に前半部分を検討する。 こう言い換えてもいいかもしれません。良心的フランス人が語るのは、植民地バージョン1を、より問題の少ないバージョン2にバージョンアップするとか、そうしたことだけだったわけです。それにたいしてサルトルは、植民地というソフトをアンインストールすべし、といったわけです。 ここでの「植民地のアンインストール」とは「独立」のことであるようなのだが、果たしてそうなのか。植民地主義への抵抗が目指したもの=目的はそこに住む人々それぞれの自由だったはずであり、独立はそのための手段に過ぎなかったはずである。「しかし、独立ですべての問題が片付くわけではないにせよ、まず独立することは不可欠のはずだ」。このように述べるのだろうか。しかし、このこと自体、検討の余地がある。それはつまり、独立しなかった植民地であるところの沖縄をどう考えるか、という問題でもある。 沖縄

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    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2007/09/25
    民族自決/政治的自由/経済的自由…等々いくつものレイヤーで「独立論」を考える。
  • モジモジ君の日記。みたいな。 - 「対案を出せ」論法について

    何かについて批判的なことを言うと、すぐさま「だったら、どうするんだ、対案を出せ」などと恫喝される。これは不当だ。しかし、私たちは、ある瞬間を空白にしておくことはできないのであり、そこに何かがなければならないなら、やはり対案は必要なのである。とすれば、先の不当さは何に由来するのか。ここにあるズレをきちんと見ておかなければならない。*1 「対案を出せ」論法批判 批判は、あくまでも問題の所在を示す。その解決が可能かどうかは分からない。大抵、示せない。しかし、それが問題であるならば、明らかに問題なのだ。たとえば、必ずしも死ななければならない理由がないのに、人が死ななければならなくなっているとき、それは問題だ。そのような状況は、「あってはならない」こととして認識されなければならない。そのようなことが「現実に起こらない」ために、何かをしなければならない。私たちは現にある現実を、そのどこかを、変更しなけ

    モジモジ君の日記。みたいな。 - 「対案を出せ」論法について
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2007/09/25
    批判にとって「対案」は絶対的な必要十分条件じゃないよ、という話。「対案のない議論ストッパー君」の問題は、議論の目的が共有されていないか理解されていないか。議論そのものの意義が問われているケースも。
  • 格差批判とサバイバルは別の話 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    「格差社会の原因なんて、みんなとっくに気付いているよね」@novtan別館……このへんから始まって、あと、いろいろ。 実は、NOV1975氏が書いていること(の一部)は、分からないではない。というのは、次の部分。 格差を全くなくしたらモチベーションがどうとか言っているけれど、当は、頑張らなくてもそこそこ働いていれば喰っていくくらいは出来る、という社会が理想的だと思います。が、今の現実はそうではない。今更派遣に文句を言うべきではない。何でこうなっているかというと、僕らの世代、あるいはもうちょっと上の人の一部が頑張らなかったからだってこと。虚しいね。 太字のところをどう読むかだけど、「文句言わずに使い捨てでキリキリ働けー」という意味ならヒドイ話だが、むしろ力点は太字の直後、「何でこうなっているかというと」にあるようにも読める。つまりは、そういう働かせ方が可能になった規制緩和の時代、それを政治

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    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2007/08/30
    マクロレベルでの「自己責任論」と自分自身を律するための「自分の身は自分で守ろう」は似て非なるモノ。「努力」というフレーズ一つをとってもそれは心意気の問題だけじゃなく「技術」の問題でもある。
  • 小括 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    まぁ、一連のやり取りで浮き彫りになった問題について、それほど簡単に理解できることなら、これまでにもあちこちで起こっていた紛争はもっと違った展開になってよかったはずであって*1、それぞれの考え方がすぐさま劇的に変わるようなことはない、なんてことはむしろ当たり前。「チャンスは準備された心に降り立つ」。玉石混交絢爛豪華なブクマコメを眺めつつ、その混迷ぶりを愉快に思う。 ただ、そこで語られたことに実質があるなら(まぁ、あるに決まっている。と呪いをかけておこう)、それは何事かをゆっくりと変えていくだろう。元々そのように考えてた人は、明示された文言を通じて再び分かるのだし、それはただの再確認に止まらず、その人のふるまいや思考に自信と深みをもたらすだろう。どうしても賛成できない人にしても、そこでイライラ感を通じて考えること自体は嘘ではなく、「突然変異」のようなことは不快感や反発を潜り抜けながら考えること

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  • 言葉について - モジモジ君のブログ。みたいな。

    だいたい、ある人物Aが「Xは「X」である」と述べるとき、それは「Xは「X」である」ことを意味したりはしないのである。その発話が意味することは、最初っから、「Aは「Xは「X」である」を真だとみなす」である。ところが、任意の人物Aによる発話「Xは「X」である」に対して、「「Aは、Xは「X」である、と思う」に言い直せ」と言ってまわることを我が使命とみなしているような人がいるようなのだが、バカというか、無駄というか、まぁ、ご苦労さん、としか言いようがないわな。どーぞ、死ぬまでやっててくれ。ただし、僕には話しかけてくれるな。バカがうつる。

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  • zaikabou氏、REV氏のコメントについて、他 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    zaikabou氏やREV氏に応答を要求し、それぞれにブログ上で記事をあげていただいたので、それについてコメントする。他、ブクマコメントなどで気になるところにコメントする。 まずzaikabou氏にしてもREV氏にしても、「ブクマしたからといって賛意を示したとは限らない」とわざわざ言及している。僕は、ただ「該当記事にブクマをつけているzaikabou氏とREV氏にも、「印象批評ではない」見解を聞いてみたい」と述べただけである。両氏とも不思議なことに、「ブクマするとは、Rancelot氏に賛意を示しているのだろう、申し開きをせよ!」という意味に取ったようである。──とまぁ、バカみたいなことを言うのはやめておこう。文脈というのがあるのであって、このような聞き方すればこのように受け取られても(=解釈されても)仕方がなかろうと、僕だって思う。つまりは、「事実と解釈をすりかえる」などと言って断罪する

    zaikabou氏、REV氏のコメントについて、他 - モジモジ君のブログ。みたいな。
  • aozora21氏へ - モジモジ君のブログ。みたいな。

    http://d.hatena.ne.jp/aozora21/20070624/1182687859 前半については、こちらの書いた意図についていろいろと誤解されていることもあるけれど、それぞれのところで結論として述べられていることには特に反対しないので、特に訂正しない。最後の「このお気持ちは」以降については、僕とはハッキリと考え方が違うので、その点に触れておく。*1 踏み越えない一線があるのはお互い様 でも、私はあのような罵倒表現はしないしあのような揶揄の仕方はしないのです。全く同じことをしているのに批判しているのなら矛盾ですが、違う表現をしているのはそれなりに理由があり、気をつけていることでもあるのです。 第一。aozora21さんがつけたブクマ・コメントは、chazuke氏に対する罵倒であると、僕は思う。人が何かを言うなら、それがどれほど馬鹿げた言葉であろうとも、それはその人なりの必

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    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2007/06/29
    「裁いたり」「批判したり」しようとするなら、そうしようと思う自分「を語る」のではなく自分「と語る」ことが必要ではないか、ということだと受け取った。【追記】罵倒の定義と対処法がテーマなのかな?-違う。
  • 依然として「息するように嘘を言う」 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    「どうしようかなと思ったけど」@green 当に脱力した。バカか。この人は。相変わらずの嘘吐きである。茶漬け氏のときもそうだし、今回もそうだが、彼は「ギャラリーが関連記事を丁寧に読んでまわって検証するわけがない」とタカを括っているとしか思えない。大変手間がかかることではあるが、こちらの名誉に関わることなので、仕方なく応答する。「馬鹿らしい」はこっちのセリフである。 ※ 該当記事にブクマをつけているid:zaikabou氏とid:REV氏にも、「印象批評ではない」見解を聞いてみたい。 Rancelot氏の2007年6月26日の記載と魚拓された2006年3月30日のやり取りから、問題部分を引用する。当事者を今更わずらわせるのが嫌なので、その実IDを記載せず、「A氏、B氏」という言い方に変える*1。この当時問題になったのは、A氏に対する「B氏のストーカー(的)行為」、「T氏他によるA氏の個人名

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  • モジモジ君の日記。みたいな。 - 透明人間にはペンキでもかけてやれ

    Rancelot氏がこの記事の中で言及している一件について。詳しくは「個人を対象としたキーワードを作る件について」。当時も今も、Rancelot氏はほとんどロクに僕の書いたものも事態の全体も、まったく理解していない。 また、あと、リンク先の文中で(mojimojiが)「勇み足であると認めた」なる記述があるが、完全なる虚偽である。茶漬け氏とのやり取りにおいてさえそうであったが、ハッキリ言って、事実レベルに限っても彼が書いていることはまったくアテにならない。息するように嘘を言う人とは、彼自身のことであるよ。まったく。 ※ えーと、Rancelot氏が「勇み足」について新しい記事を上げたようであるが、完全な嘘である旨、次の記事に検証した。ここに改めて繰り返すが、Rancelot氏は依然として嘘吐きである。>http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070628/p1 【2

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  • 誰が誰を罵倒しているのか - モジモジ君のブログ。みたいな。

    えーと「驚異的な根気」の第二弾。とりあえず、一般論から始める。 線引き問題 剥き出しの敵意に直面するというのは結構消耗するもので、まともに受け止めると(受け止めなくても)、気分が悪くなったりはする。頭痛や吐き気がすることもある。罵倒表現もその一つであり、単に「スルーすればよい」と言って済むことではない。実際、スルーすることは可能であるとしても、誰にでも可能であるわけでもないかもしれず、あるいは、スルーするように自らを構築しなきゃいけないと述べるのも何か違う。単に、そこに生じる気分の悪さというものは、それ自体として問題にしていいと思う。そういうのは少ない方がよく、正直、相手にそういう思いをさせるのは忍びない。 ただ、罵倒に限らず、正当な批判をぶつけただけだとこちらが思っている場合でも、それを読み取れないバカというのはいて、そのバカは罵倒されたと理解して、イライラムカムカしていたりするんだろう

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    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2007/06/24
    「野宿者を怖がること」(http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070208/p1)の「恐れつつ、しかし、排除しないことは、理性的には可能なことだ。」というフレーズと重なる。
  • Mr_Rancelot氏について - モジモジ君のブログ。みたいな。

    Mr_Rancelot氏との最近のやり取りについて、彼の応答がまったく意味不明なので(面倒だが&簡単にだが)一通りやり取りの周辺を整理してみた。もう、ホントにくだらないので、経緯を知らない人は無視してください。 発端 http://d.hatena.ne.jp/chazuke/20070618 に対して、僕が次のブクマコメントを残した。 いろいろと同感。普段だいたい通読してるからわざわざブクマしてなかったけど、ほとんどの全部の記事にブクマしたい気持ちをこめてここにブクマ。 chazuke氏の記事については、早とちりと思われる誤解もあるけれども(例のekken氏のブクマへの誤解など)、書かれている内容の中には共感できることも多い。だから「いろいろと」同感。他の記事についても、異論があったとしても一読した上で一服考えさせられるようなことは多い。だから「全部の」記事にブクマしたい、とも述べた。普

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  • 倫理の根源は呼びかけにある - モジモジ君のブログ。みたいな。

    5月9日の記事(応答責任、再論)から、sivadさんの4月の記事にトラックバックを送ったところ、さっそくお返事をいただいた。>倫理の根源は想像力にあると思う@赤の女王とお茶を ここでsivadさんが「想像力」というキーワードを提起したことで、違いがより鮮明になってきたと思う。以下、議論したい。 ホームレスのそばを通り過ぎたとき「間接的ではあろうが、私は他人を見殺しにすることに加担した」と言えるであろうか(以上、kanjinai氏の記事からの引用) への答えは「言える。ただし、加担していない、とも言える。」になります。可能かどうかということであれば、いずれも可能というしかありません。 この部分に、まず同意できない。元の文を次のように言い換えてみよう。「私は他人を見殺しにした」。意味合いは変わっていないと思うが、こう書き直せば明瞭であるように、これは事実についての命題である。そして、事実命題と

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    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2007/06/19
    「「万人に共通の前提」で語ることは、「万人に共通に信じられている前提」で語ることとは違うのだが、しばしば、置き換えられる。その意味でこれは錯覚なのである。」
  • 市場での/市場へのコミット - モジモジ君のブログ。みたいな。

    無力な者を前にして、何ができるか。何をするか。という話のときに、ともかく市場の中で努力して、総量を増やすことが貧しい者・無力な者のためにもなる、という話がある。これはたとえば、先日批判してきたkeya1984氏も「現存の政治運動に限らなくていい。たとえば、労働対価の中から支払った税金の一部が福祉予算となったり」といったことを述べている。Arisanのノートでも問題にされていたのだが*1、こうした発想はあちこちに蔓延している。 しかし、市場内/外の努力を、そのように同列に扱えるものだろうか。昨日までの話とは少し違う論点だが、いずれ関連する論点ではある。今回は、これを考える。 基的な事実として、市場とは、金を持っている者のために商品を提供する仕組みである。その限りでは極めて効率的に機能する。しかし、金を持ってない者の前は、素通りする。──「だから市場はダメだ」とも言わない。単に、何かを必要と

    市場での/市場へのコミット - モジモジ君のブログ。みたいな。
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2007/06/19
    「僕が「道徳的詐術とは何か」で述べた「コミット」とは、市場外活動へのコミットを含まなければならない。」
  • 応答責任、再論 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    応答責任について、再度確認しておこう。 たとえば、ほっておけば自分では何もできないであろう赤子*1がいて、それを見ている人がいるとする。その人は、その赤子の面倒を見るのだ、と決意したとする。ある人は、そこで初めて倫理的責任が生じたのだ、と言う。そして、そうした何らかの手続きを経てその人に引き受けられた責任にしたがって、その赤子の面倒を見る、つまり、責任を果たす。──しかし、こうした記述は、私たちが無力な者を目撃するときに生じている様々なことどもを、きちんと捉えているだろうか。 次のような問いを立ててみよう。赤子の面倒を見ると決意したその人が、決意する前に考えることは一体何であろうか。明らかなことは、その人は決意する前には何ら強いられるような感覚を感じず、自らの意志によって決意したときに初めて何かの強いられる感覚を感じる、というようなものではないということだ。私たちは、決心しようとしまいと、

    応答責任、再論 - モジモジ君のブログ。みたいな。
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2007/06/18
    応答責任→法/規範/倫理各レベルでの責任の前に立つもの…はともかく、この観点から、アンパンマンの「愛と勇気」が何によって担保されているのか、各キャラの「善-悪」概念の仕組みを再考してみようと思う。
  • 道徳的詐術とは何か、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    先のエントリでは「x0000000000さんの主張が道徳的詐術である、という論証はどこにもなかった」とだけ述べ、uumin3さんの記事そのものは引用さえしないですませた。むしろ、x0000000000さんの議論を上書きする形で、僕自身の立ち位置を書いた。いわば、構築的に議論を進めたということだ。今回は、uumin3さんの批判記事を具体的に引用しつつ検討し、そちら側から見えるものを明らかにしていこうと思う。今回も、「道徳的詐術」@uumin3の日記を取り上げる。 あらゆる責任に先行する応答責任 私がコンビニに持っていった「その200円」がなかったばかりに一家四人が死んだという仮定。これがまずあり得ないことを言っています。もしそこをアクロバティックに結びつけ得たとしても、そこで私が「その200円」をアフガニスタンのその家庭に贈ったために足りなくなった200円で、パキスタンの子供が飢えて死んでし

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    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2007/06/18
    「応答責任」それ自体は引き受けるかどうか、コミットするかどうかにかかわらず事実としてそこに在る、ということ。善悪/正義不正義の二元論でハンドリングしようとすると見誤る、とも言えるか……。