明治元年の浦上のキリスト教徒の移送と諸外国の抗議 前回の「歴史ノート」で、長崎で捕えられたキリスト教信者の大規模な処刑が行われるという風説が流れ、明治政府は欧米諸国から強硬な抗議を受けて、大阪本願寺にて政府代表の大隈重信と英公使パークスと談判したことを書いた。 この談判が終わってしばらく外国からの抗議も一旦止んだが、政府としては国禁を犯しているキリスト教徒の処分問題の解決を急ぐ必要があった。長崎裁判所では中心人物の斬首など厳刑に処す方針であったのだが、それを実行すれば重大な外交問題に発展することは火を見るよりも明らかであった。 政府はこの問題を何とか穏便に解決させようと、木戸孝允を長崎に出張させている。木戸は明治元年(1868年)五月十三日以降三回にわたり長崎裁判所の澤宣嘉総督、井上馨らとこの問題について協議の末、同月二十一日に信徒の中心人物を津和野藩へ二十八人、長州藩へ六十六名、福山藩へ